寝ている間に、肩の下へ敷き込んだり、ハインリヒの首辺りへ勝手に絡まったり、起きると、今では長く伸ばしたジェロニモの髪は寝乱れてひどいことになっているのが常だ。
とりあえず軽く指を通しながらかき上げておいて、じきに目を覚ますだろうハインリヒのために、コーヒーを濃い目に淹れる。そうする間にもあくびが止まらない。ハインリヒと過ごす夜は、眠りに落ちるまでが長いからだ。
手足を伸ばせないベッドの狭さ──ベッド自体は充分に大きいのに──に慣れてしまって、ひとり寝の夜には、広々としたシーツの上を喜ぶよりも、何にも触れない指先が淋しさの方が先に立つ。ちょっと肩の位置をずらせばすぐに触れるハインリヒのぬくもりが、もうそこにあるのが当然だと、ジェロニモの皮膚は思い込んでいる。
ベッドの上で、体重の移動する気配がして、それからぺたぺたと素足が木張りの床を滑る音が続く。これも寝乱れた髪を撫でながら、下着姿のハインリヒがキッチンへやって来る。コーヒーの香りにちょっと目を瞬かせて、まだ完全に目覚めたとは言い難い水色の瞳を、何とかきちんと見開こうと、ごしごしとこする鉛色の右手が、マシンガンの見掛けにも関わらず奇妙に生々しく見える。その手が触れた自分の肌の熱さを、あふれる朝日の中にもすぐに思い出してしまうからだ。
ジェロニモはさり気なくハインリヒを見つめていた視線をそっと外して、コーヒーの出来具合に集中している振りで、夕べのすべてを反芻する自分を何とか止めようとしていた。
ハインリヒが、無遠慮にジェロニモの背中へぴたりと張りついて来て、両腕を腹へ回して、ごしごし肩甲骨の間に頬をこすりつけて来る。ハインリヒの短い髪が、シャツに当たってさらさら音を立て、ジェロニモはまた夕べの熱さへ引き戻されそうになる。
今は朝で、ここはキッチンだった。コーヒーがもうじき出来上がる。どれもこれも、実のところハインリヒをこの場に引きずり倒したい気持ちを完全に抑えてはくれず、ジェロニモは必死で冷静な振りをして、1滴1滴落ちるコーヒーの雫を眺めて、狭めた視界のどこにもハインリヒの姿を入れないようにしていた。
けれどその努力も、ハインリヒがシャツの上から、ジェロニモの背骨へ軽く噛みついて音を立てて口づけた時に、呆気なく無駄になり、ジェロニモはハインリヒの両腕の輪の中で大きな体をくるりと回して、無言でハインリヒのあごを両手の中に持ち上げる。
朝のこの時間にしては、少々熱のこもり過ぎた口づけは、それでもハインリヒの眠気を吹き飛ばすにはちょっと足りずに、まだ少しとろんとした瞳が、笑いを含んでジェロニモを見上げていた。
夕べ自分がくしゃくしゃにしたハインリヒの短い髪を、ジェロニモは節の高い指にすくい取って、混ぜるように梳くように、うなじへ掌を添えると、ちょうど親指が耳へ届く。その指先で耳の縁を撫でると、ハインリヒは猫が喉を鳴らすような音を立てて、眠りの続きのように目を閉じる。
キッチンの床は、ふたりには少し狭い。ふたりで一緒に眠るベッドよりも狭い。テーブルのある辺りなら何とかなるかと、時間に似合わない不埒なことを考えて、それでもハインリヒの下着の下へは決して指先を近づけない。ジェロニモは一片だけは理性を保って、またそろそろ飲めるはずのコーヒーの方へ心を片寄せる。
ハインリヒが、ジェロニモのうなじへ右手を伸ばし、そこから指先を髪の根へもぐり込ませた。
長さのせいで、乱れ方はハインリヒのそれの比ではないジェロニモの髪に、ハインリヒが指を巻きつけて来る。マシンガンの右手では、関節辺りの金属片の重なりに髪が引っ掛かって、ジェロニモは痛みに時々眉を寄せながら、それでもハインリヒの手遊(すさ)びを止めようとはせず、また首を折ってハインリヒの唇の端へ口づけを短く落とした。
コーヒーのマグを手にしても、ハインリヒは空いている方の手を決してジェロニモから離さず、ジェロニモもほとんどハインリヒを自分の膝に抱き寄せるようにして、コーヒーを飲んでいるのはただのおまけのような有様だ。
朝になっても、夜の続きが終わらない。けれどさすがにそこから先へは進まずに、せいぜいがついばむような口づけで互いを引き止めて、触れる指先は首筋の素肌だけでとどまっている。
ハインリヒの指先がジェロニモの長い髪を梳き、何とか絡まずに指が通るようになると、時々片手の中にジェロニモの髪をひとまとめにして、しなわせた手首の骨張った辺りへ、ぐるり刈り上げた即頭部の、さりさり心地良いのへこすりつけてはくつくつひとり笑っている。そのハインリヒの笑い声を聞いて、ジェロニモは微笑み続けている。
1杯目のコーヒーは、ひとまず空にした。残りはまだポットの中だ。どうせそのまま冷めてしまうと、ふたりとも知っている。目覚めのコーヒーよりも、ついには舌先の触れ合う口づけの方が、確実に眠気を取り去ってゆく。
起きたばかりだと言うのに、またベッドへ戻ってゆく。眠るためではなく、ただふたりきり、閉じこもるためにだ。
ハインリヒが、掌の中にジェロニモの髪を掴んで、せっかく指を通して梳いたのに、またぐしゃぐしゃと乱してゆく。かき混ぜて、指に巻きつけて、まるでふたりがそうして絡み合うそのままのように、ハインリヒはジェロニモの髪に触れたまま、そしてジェロニモはハインリヒの熱に触れたままだ。
朝の明るさなど、ふたりをひるませる理由にはならず、寝不足の眠気の名残りなどどこかへ吹き飛んでしまって、シーツの波の中で、ふたりの皮膚と体温と呼吸と髪がまざり合う。
次に目が覚めるのは、きっと昼を少し過ぎた頃だ。そしてまた、飽きる間も休む間もなく、抱き合う時間へ続いてゆく。
朝も昼も夜も、けじめもなく混沌と繋がり合う。ふたりもそうして、どちらがどちらと分かち難く繋がり合っている。
顔の上へ落ち掛かって来たジェロニモの髪を、ハインリヒは避(よ)けもせずに、唇を開いて舌の上へ引き込んで、ざりりと噛んだ。冷たいはずの髪が熱く、ハインリヒの息に溶けて、朝の終わりにすらもうふたりは気づかない。
まだ自分の髪のひと筋張りついたままのハインリヒの唇へ、ジェロニモは自分のそれを重ねて行った。
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フランソワーズに借りたらしいノートPCを覗き込んで、ハインリヒが何やらやっていた。
ちょうど淹れたばかりのコーヒーを片手に、その背後にあまり画面を見ないように近寄って、
「なんだ。」
とジェロニモが訊くと、ハインリヒは横顔だけジェロニモに振り向けて、ちょっと照れ臭そうに微笑む。
「向こうを出る前に、記念にって、ちょっと無理矢理撮られた写真だ。」
モニタいっぱいに、黒づくめに、それだけは迷彩の防弾ジャケットとヘルメットを着けて大きな銃を携えた男たちと一緒に、まったく同じ服装で、けれど防弾の装備と銃はないハインリヒが、見た目の仰々しさに似合わず笑って写真に写っていた。
軍隊ではないと知れても、同じ類いの組織とすぐに分かる彼らの嵩高いジャケットの胸には、一応警察と言う文字が見えて、ジェロニモは不愉快さは感じないまま、それでもわずかに眉を寄せていた。
これが例の、ハインリヒがドイツへ帰ってから教官をやっていたと言うGSG9らしい。ハインリヒとまったく見劣りのしない体格の男たちは、サイボーグになる必要もなさそうに、頑強な体躯を黒い服装の下に押し込めている。
すでにサイボーグのハインリヒには、防弾も武器の携帯も必要ない。持たされても、きっとすぐに投げ捨てた──必要ないから、と言うわけでは決してなく──だろうとジェロニモは思った。自分がそう信じたいのだと、気づいていて、ハインリヒへコーヒーを差し出しながら、自分の胸の内は覗き込まないことにした。
「わざわざメールで送って来やがった。」
ハインリヒがちょっと乱暴に言うのに、口調ほど嫌がってはいない様子で、笑みは口元と頬へ浮かんだままだったから、ジェロニモはそこへ立ったまま、まったく見慣れないハインリヒのその姿を、モニタの中にじっと眺めている。
どうしても違和感の拭えないその服装は、けれどハインリヒにとてもよく似合っていて、写真の中に一緒に収まっている他のどの男たちよりも、輪郭が際立ってはっきりと見える。それを自分の贔屓目かとも思いながら、その類いの服装に生理的な嫌悪感を抱かずにはいられないくせに、それが驚くほどぴったりと身に着いているハインリヒへは同じ感情は湧かない。むしろ、今までハインリヒの上に想像すらしたことのない、いかにも軍人めいた服装に奇妙にそそられもしていて、できるならそのモニタへ、もっと顔を近づけてみたいとすら思っている。
ジェロニモが覚えているハインリヒは、いつもシックで、控え目で落ち着いたトーンなのに内側からの輝きは隠せない、そんな風な姿だった。薄いタートルネックやベスト、普通に着ければ嫌味になりそうな服装が、ハインリヒにはよく似合った。奥行きのある、艶のある黒が、ハインリヒにはとてもよく映える。
それなのにこの写真の中では、漆黒ではなく、もう少し灰色寄りの浅く平たい黒を身にまとって、ぺらりと印刷された紙のような質感の無機質さが、似合うはずはないと思い込んでいたのに、意外にハインリヒの髪や肌の色に近々と寄り添っていて、彼の機械めいた外貌をさらに強調しながらうまく引き立てている。
機械の匂い──サイボーグであると言う事実──を覆うからこそ、いかにも人工の安っぽい色合いや質感は似合わないはずだったのに、わざと本来の生地の質の高さ──見映えが良いと言う意味では絶対にない──を隠したその制服の、どこかジェロニモたちの人工皮膚と似ているように思わせるかすかな金属の気配のようなものが、ハインリヒを包んで違和感のないことに、ジェロニモは少しの間我が目を疑った。
正しく文字通りの意味で武器庫であるハインリヒが、軍人にしか見えない服装をするだろう皮肉を、ジェロニモは当時は冗談とは受け取れずにただ憤りを感じたものだった。だから、ハインリヒがドイツへ去った後で、努めてハインリヒのことは、過去として思い出しはしても、現在進行形では考えないようにしていた。
久しぶり──四半世紀ぶり──に会って、短く刈られた髪と、以前よりもいっそうきびきびとした振る舞いに、いかにもと言う変化を感じはしても、それは今の今まで実感として迫っては来ず、こうしてGSG9であるハインリヒの姿を初めて目にして、嫌悪感よりも、ハインリヒのこの姿を直に見たいと思った自分に驚いて、ジェロニモはそんな自分をひそかに恥じている。
直に見たいだけではなかった。この服装で動いているハインリヒや、こんな男たちを従えて先頭を切って走り出すハインリヒや、弾と火の飛び交う現場にいるハインリヒの、傍らにいることはできないかとすら考えた。
何かが燃えて焦げた匂い、武器の手入れに使うオイルの匂い、生身の人間から移ったほんものの汗の匂い、爪先を鉄で固めたブーツを覆う泥と埃の匂い、そして恐らく、血の匂いも、それらすべてを、恐らくジェロニモ以上に嫌悪しながら、そのどれも恐ろしいほど似合ってしまうハインリヒを、ジェロニモは何の矛盾もなくいとおしいと思う。
こんなに長い間隔たってしまっていたと言うのに、自分の想いの1ミリの変質もないのに自分で驚きながら、ジェロニモは、後ろからハインリヒの左肩目指して腕を伸ばし、そうして、肩ではなく首筋へ触れて、指先であごを持ち上げるようにした。
まだモニタへ視線は置いたまま、ハインリヒがちょっと驚いて、けれど逆らわずに首を伸ばして来る。それへ自分の上体をかぶせるようにして、ジェロニモは、今度は真っ直ぐにハインリヒの唇を目指した。
強引な形で唇を触れ合わせて、その間に、上目に、ジェロニモは写真を、さっきよりもずっと近い位置から盗み見る。その場に馴染み切ったハインリヒの見慣れることはないだろうその姿を、脳裏でこっそり裸にしている。
人工皮膚のない、装甲が剥き出しの体。防弾ジャケットも武器も必要のない、機械の体。そして、金属片と様々な部品とコードで組み合わされたはずのその内側が、生身の体と同じほど熱くなることを、ジェロニモは知っている。
その体を、無機質な服装で包んで、隠しても無駄だとジェロニモは思った。
私は知っている。君の全てを、知っている。
ハインリヒの喉へ当てた掌から指を伸ばし、今着ているシャツの、広く開いた襟の中へ触れる。右側へ寄ればすぐに触れる金属の感触に、あの制服も触れれば似たような感じかと想像しながら、ハインリヒが、ぱたんとPCを膝の上で閉じた音を聞いた。
* マリさまから素敵な教官戴きました!
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手に取ると、ずっしりと重いライダーズジャケットはずいぶんと着込まれていて、よく見ればきちんと手入れされた小さな傷があちこちにある。
手の中に握り込めばくたりと柔らかく、すでに体の線にすっかりと馴染んでいる肩や肘の辺りには、恐らく持ち主には愛着しか湧かせないだろう傷みが見えて、これを着ている当人の体の硬さと頑丈さとは真逆の、人間の生身に通じるぬくもりのようなものが感じられる。
ジェロニモはハインリヒ──このジャケットの持ち主──を抱きしめる代わりに、このジャケットを抱き寄せたくなって、とりあえずはそれに耐えた。
オートバイに乗る連中だけが着るべきと言うわけではないけれど、ジェロニモが覚えているハインリヒの趣味にはこの類いのものは含まれていず、あのハインリヒがこんなものを着ていると言う驚き以上に、意外なほど似合っていることが、ジェロニモにはいっそうの驚きだった。
あの、ばっさりと短く刈られた髪のせいか、それとも、ちょっと削げて見える頬の線の、以前にはなかった精悍さのせいか。以前の彼は細身のナイフだった。剥き出しだと本人に自覚のない、触れる誰をも傷つけずにはいられない、よく光る刃のナイフだった。
今の彼は、鞘つきのアーミーナイフだ。ぶ厚い刃はいかにも危険そうによく研がれて、使わない時にはそれをきちんと隠して、それでも手に持った重さだけで中身の想像のつく、いかにもな外見の重々しいナイフだ。
そしてこのライダーズジャケットは、その彼の鞘と言うわけだ。
ジェロニモはまだその上着を片手に持ったまま、やわらかく掴んだ襟の丸みを見下ろして、そこにわずかに掛かるかもしれない彼の後ろ髪の、夕べ自分の指先が絡め取ろうとして果たせなかった柔らかさを思い出している。
その代わりのように、今は長く伸ばしたジェロニモの髪を、ハインリヒのマシンガンの指先が絡めて引いて、きりきり金属の指を締めつける感触を楽しんでいた。色の薄い唇の上に浮いていた、扇情的な笑み。
目の前にちらつく笑みの誘いに勝てずに、ジェロニモは肩を上げ下げして深呼吸すると、ジャケットをさらに高く持ち上げて、空いた方の手へ近づけた。
揃えて伸ばした指先を、そっと肩から袖へ向かって差し入れる。革の匂いと、ハインリヒの使う石鹸の匂いが、交じり合って鼻先に立つ。それへ目を細めて、ジェロニモは一度体の動きを止めた。
つるつると滑る裏地の冷たさに、人工皮膚へ鳥肌が立ちそうに、そうして、通った袖の先で指先が立ち止まる。拳になりかけのような形の手が、袖口を通らない。指先は辛うじて見えるけれど、手の部分が外へは出ない。手を持ち上げて、袖についたジッパーを慌てて引き上げてみたけれど、それも充分ではなかった。
袖も通らずに終わりだ。肩が入らないだろうことと、前が閉まらないだろうことは予想していたけれど、まさが袖口にすでに手が通らないとは思わなかった。
ジェロニモは、片袖だけを中途半端に通した姿で、自分の肩からだらりと下がったハインリヒの革のジャケットを見下ろし、ハインリヒの体を包んですっかりその線を写し取っている革の円やかな線を、未練がましく見つめ続けている。
筋肉をきちんと包み込む、胸の辺りへ現れた線。着れば、上半身の力強さがよく見えるように仕立てられて、この存在感は、少年くささの残る細身の男では完全に負けてしまう。髪にも髭にも白いもののちらほら混じる年齢の男たちの、だぶついた体すら貫禄に変えて、だからハインリヒが着て、似合わないわけがなかった。
さり気なく増しているハインリヒの胸や肩の厚みを、ジェロニモは自分の腕で知っている。革に包んで強調するまでもなく、実際にそれは形良く盛り上がり、相変わらず装甲は剥き出しのままの右半身と、とてもよく釣り合っている。
以前は、隠そうとしてきっちりと服を着て、そのせいで余計に体の線が露わになっていたのに、今は隠す気もないように、露わになると承知でこんなものを着ている。見せつけているわけではないだろうけれど、ジェロニモにはその意図が伝わると、ハインリヒはもちろん知っているはずだ。
ジェロニモは、やっとハインリヒのジャケットを腕から抜いた。片手に持って、それからそっと、手近にある椅子の背に掛ける。上着の重みに、簡素な木の椅子がきしっと音を立てて、ジェロニモは椅子を壊すことを恐れるように、少しの間背の少し上の辺りへ手をかざしていた。
上着の掛かった椅子が、まるでそこへ坐っているハインリヒ自身のようで、椅子の背の形に沿って不自然に盛り上がったジャケットの肩の波線に、ジェロニモはそっと掌を滑らせた。
単なる意趣返しだ。胸の中でひとりごちる。夕べ、ハインリヒが履いて見せたジェロニモの靴下の、爪先の余りようと足首のたるみ具合と、ハインリヒが面白がって笑いながら、その立てる声の中に、わずかな悔しさのようなものを聞き取ってしまったから、自分も同じようにすべきだと、そう思っただけだ。
シャツを取り違える心配がなくていい。そう言ったのは、一体負け惜しみだったのかどうか。
ジェロニモは、自分の手が通らなかったジャケットの袖を、指先で摘まみ上げる。そこに、ハインリヒの鉛色の右手を見て、そうして、まるで手を繋ぐように、袖をぎゅっと手の中に握りしめる。
人間の、生身の皮膚とは違う感触の、それでも金属のように冷たいはずはない革が、ジェロニモの掌の中でぎゅうっとこすれる音を立てた。
この革が包むのは、人工の皮膚だ。その皮膚が包むのは、様々な金属片とコード類のパズルのような、サイボーグの体だ。ハインリヒのその体を抱きしめて、ジェロニモはそのハインリヒに抱きしめられて、皮膚すらない躯をこすり合わせて、繋がる先に何もないと知っていても、そうすることをやめられない。
ハインリヒの体を包んでしっかりとそれに馴染んだ革の、ジェロニモが──ハインリヒも──とうに失くした生身のやわらかさを、呼吸ふたつ分の間、憎む強さで羨んでから、またハインリヒに触れると同じように、上着の肩へ触れる。
この革がハインリヒに触れる時間と、自分がハインリヒを抱きしめる時間と、どちらがどれだけ長いだろうかと、埒もなく考えながら、ジェロニモはそこを撫で続ける手を止めない。
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誕生日を特別に祝われるのは相変わらず苦手そうだと、ハインリヒに対するジェロニモの印象は今も変わらない。30年近く経っても、他にも変わらない多くのことと一緒に、彼は自分の誕生日を今も特別には考えないようだ。
いや、今だからこそなのか。過ぎてゆく月日は、体内の部品の磨耗と言う形で現れて、定期的に交換される人工皮膚や毛髪の上にはほとんど跡を残さない。
何十年もほとんど外見が変わらないと言うのは、きちんと年輪を刻む自分たちの精神性との隔たりを、日々大きくしてゆくだけだ。それが大きくなれば大きくなるほど、もう数えることさえ億劫な実年齢──すでに死んでしまっていてもおかしくはない──と、抱えているままの自分の姿と、間を埋めることがどんどん難しくなってゆく。
そんな風に過ごしているうちに、歳を数える誕生日とやらはまったく意味を失くし、生まれた日とは、まさしくそのままこの世に発生した日であると言う意味になる。
元々ジェロニモには、誕生日を祝うと言う習慣がない。生まれた日に意味はなく、どのように生きて、どのように死んだのか、そちらの方を重要だと考えて、むしろ死んだ日の方が大事な日として扱われる。改造された後で、もう容易には死ぬこともできなくなった時に、その大事な日もジェロニモから奪われてしまった。
そして新しい仲間──兄弟──たちの大部分は、当然のように生まれた日とやらを祝い、ジェロニモもそこへ加えられ、最初は誕生日と訊かれて、思い出すのに苦労したものだ。
俺のは、ただの普通の日だからな。
ジェロニモの誕生日が、いわゆるクリスマスだと知った後で、ハインリヒが無理矢理にひねり出した感想、と言った風につぶやいた。
今でもジェロニモにとっては、大事なのは自分自身の誕生日よりも、仲間たちの誕生日の方だった。いちいち盛大に祝おうとは思わなくても──もちろん誰かがそうしたいと言えば、協力するのにやぶさかではない──、顔を合わせればおめでとうと、改造されてから覚えた新たな習慣に、ジェロニモはごく自然に自分を馴染ませてゆく。
その新しい習慣に次第に馴染むと、今度は、死ぬ日を重要と考えて、死者の命日にはその人のことを語って過ごすと言う自分の習慣の方から、少しばかり疎遠になってしまった。
今でもそれは、ジェロニモひとりのこととして続いてはいる。語る相手がいないなら、自分ひとりで、覚えている誰彼のことをその日は1日考えて過ごす。
それはそれでいい。けれど、誕生日と言うものを祝うことを習い覚えてから、目の前の誰かの、その死の日のことを想像するのが辛くなった。
特に、ハインリヒについては。
恐らくは悼むと言う意味で、死の日を大事にするジェロニモにとっては、その死をもたらす者と言う呼び名を与えられたハインリヒ自身が、その死とやらからもっとも遠いと言う皮肉に、苦笑すら浮かべる気にはならない。
ジェロニモ自身がそうであるように、ハインリヒのその死を悼む日も、長い長い間やっては来ないだろう。そのことを、喜ぶ気にはなれず、それでも、ハインリヒの死を考えずに済むことそれ自体には、ジェロニモはこっそりと心の底でだけ感謝している。
死んだ日を、その人の生においてもっとも大事な日とする、その習いを、気持ちが隔たったにしても奇異に感じることはないまま、だからこそ、その死を"祝う"──悼む──ことのできないハインリヒの誕生日は、ジェロニモにとってはとても特別なものになった。
いや、と内心で考える。まるで自分の心がそこにあるとでも言うように、ジェロニモは自分の掌を見下ろした。
正直になろう。特別なのは、誕生日ではなくて、ハインリヒの方だ。それが、ハインリヒの誕生日だからこそ、自分にとっては特別なのだと、ジェロニモが胸の中で言い換える。
ハインリヒと言う男の生まれた日。この世に、彼が初めて存在した日。その日がなければ、こうして出逢うこともなかった、ジェロニモにとっては、とてもとても大事な日だ。
だからこそ、皆とではなく、自分がハインリヒの誕生日を祝いたいのだと、ジェロニモは自分に向かってさらに付け加えた。
さて、何を贈ろうかと、頭を悩ませ続ける問題へ立ち返る。何もかも容易に手に入るこの時代に、特別に欲しいものもないだろうと想像はつく。物欲の薄いこの男の欲しいものなど、ジェロニモには思いつかない。今の彼なら、ちょっと唇の端を上げて、おまえさんでいいくらいのことは言いそうだと、ジェロニモは自惚れではなく思った。
死ぬことのない男の、生まれたその日を祝うために、何かと考えて、結局落ち着く先は身に着けるものとなるのは、ジェロニモの、ハインリヒへの心──と、体も──の近さを示していて、心の奥にはごく自然に照れが湧いて来る。それを押し隠して、革手袋を思い浮かべた。
マシンガンの右手に着けるための、革手袋。いくつあっても困るものではないだろうから、だからこそ、少しだけ特別にしたいと重ねて思う。
指先は使いやすいように、何も飾りがないけれど、手首の辺りになら、何か──と思いながら自分の髪に何気なく触れて、後ろでそれを束ねる革紐の先が指先をかすめて、ふと、同じ革紐で編んだ短い房を着けようかと思いついた。短い房と想像してから、それがハインリヒの手に触れるのだと思って、房のままではなく小さな輪にしたいと、思った。小さな、けれどハインリヒの人差し指の先くらいは入る、革紐で編んだ輪。ジェロニモの髪を束ねる革と同じ、革の輪。
ただの飾りだと言い訳しながら、そこに明らかに現れる、自分の所有欲を一瞬だけ恥じて、それでも悪い考えだとは思えずに、結局そうすることに決めてしまった。
彼のあの右手に触れる、小さな革の輪。ハインリヒはそれを見て、ジェロニモの意図に気づくだろうか。気づいて、冗談だと受け流して、笑ってくれるだろうか。
人と人は繋がってゆく。繋がるそこから、心が絡まりひとつになる。ひとつになり時を過ごし、始めも終わりもないひと続きのまま、見失ったと思うのは、それは融け合ってしまったからだ。自分とハインリヒの作って来た輪が、30年の時を経て輪のままだったことに、ジェロニモは今さら気づいている。
また、自分の髪に触れた。今では肩を覆うその髪を、束ねた革紐をほどいて、延々と指先に絡めて手遊びを続けるハインリヒの、鈍く銀色に輝く右手の、変わらないその硬さと冷たさを、変わらずいとおしいと思う。
これからまた、巡る年を彼と祝うのだと思った。彼のために、そうして自分のために、祝いたいのだと、ジェロニモは思った。思いながら、口元に浮かんだままの微笑みを、もう消すことができなかった。
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