Artificial Red
リビングで、うたた寝をしているハインリヒを見つけて、ジェロニモは、足音を消した。
本を読んでいて、そのまま寝入ってしまったのか、開いた本は胸に伏せられ、右腕がその背に乗り、左手は、だらりと床に落ちていた。
乱れた前髪が、ぱらりと目の上にかかった、珍しいハインリヒの寝顔を、上から見下ろして、ジェロニモは、胸の上の本に、そっと手を伸ばす。
起こさないように用心しながら、鉛色の右手を持ち上げ、素早く本を抜き取って、また、手を元の位置に戻す。
目を覚ます様子もなく、うっすらと開いた、色の薄い唇の間から、白い歯列がかすかに見える。
本を手に、開いていたページに、指を差し入れたまま、ソファのすぐ傍に、気配を殺して、しゃがみ込む。
ほんものではないはずなのに、わずかに産毛の光る皮膚は、触れれば柔らかく、暖かそうに見えた。
開いたページに、何か挟むものを見つけようとしたけれど、しおりがどこにも見当たらず、ジェロニモは仕方なく、コーヒーテーブルの上にあったコースターを、本の間に置いて、ページを折り曲げたりしないように気をつけながら、眠っているハインリヒから取り上げた本を、閉じて、テーブルの上に置いた。
これで、毛布でも手近にあれば完璧なのだけれど、そんなものは、うまい具合には見当たらず、けれど、このままでも、風邪は引きそうにはなかった。
見慣れないものだから、少しばかり見つめておこうと、そんな風に思ったのかもしれない。
いつもなら、人の寝顔を覗き込むなどという、無作法なことは思いつきもしないのに、どうしてか、ハインリヒの、ひどく穏やかな、稚なげな寝顔から視線が離せず、ジェロニモは、まるで見張り番か何かのように、床に腰を下ろすと、ハインリヒの寝顔に、じっと見入る。
かすかに上下する胸、呼吸に合わせて、わずかに震える唇、知らなければ、ただの人間にしか見えない寝顔に、皮肉笑いも冷笑も浮かぶことはなく、すべてを取り除いた、素顔のハインリヒが、そこにいるような気がして、ジェロニモは、それを信じ難いと思う自分を説得するために、勇気をふるって、胸に乗ったままの、鋼鉄の手に、自分の掌をそっと重ねた。
重ねた掌から、思いもかけずに、強く鼓動が伝わって来て、びくりと手が震える。
人工心臓だと、わかっていても、こうやって生きているのだと知ることは、ひどく原始的な驚きをもたらす。
ああ、そうかと思って、体を、ハインリヒに向かって傾けていた。
唇に触れていたのは、ほんの数秒か、十数秒のことだった。
魔が差したと、唇を離し、変わらずに、眠り続けているハインリヒをまた見下ろした時に、不意に思った。
恥知らずなことをしたのだと思うと同時に、つくりものとはとても思えない、唇のぬくもりと感触を、不思議に思う。
もう一度触れたいと、思った時、自分のしていることに気づいて、ジェロニモは、音を立てずに素早く立ち上がった。
重ねていた手が離れ、また、ハインリヒが遠くなる。
目覚める気配がないのに安堵して、そこに立ち尽くしたまま、たった今触れたばかりの唇に、目を凝らす。
鉄球をも、こなごなに砕いてしまうこの手が触れても、びくともしない鋼鉄の体でありながら、触れれば、あたたかく、ほんものの人間と、変わらない感触を伝えてくる。それに驚いて、ジェロニモは、自分の掌を見下ろした。
最後に、誰かと触れ合ったのは、一体いつだったろう。最後に交わした唇は、誰のものだったのだろう。
遠い記憶をたぐり寄せながら、胸が引きちぎられるほど切ない思い出はないことは、自分がいちばんよくわかっている。
恋人を失くして、BGに誘拐されたハインリヒは、今もその恋人の夢を見るのだろうか。切ない想いに、今も、こっそりと涙を流すのだろうか。
触れたいと思うのに、触れられない、触れてはいけないと思う、切なさ。
それを、どう名づけていいのかわからずに、ジェロニモはひとりで戸惑っていた。
触れてはいけない。壊してしまうから。けれど、ハインリヒは壊れない。
けれど、でも、触れてはいけない。
触れれば、止まらなくなってしまうから。
そこに思いが行き当たって、一瞬、不意をつかれたように、頭の後ろが白くなった。
愕きと、戸惑いが、いつもは穏やかな心中を、荒々しく駆け巡って、子どもの頃、誰もが精霊と語り合えるわけではないと、教えられた時のことを、思い出させた。
乱れた心に、精霊の声も届くわけもなく、追われたように、そこから立ち去るために、ジェロニモは、けれど静かに肩を回した。
あの、鉛色の手は、ジェロニモがどんなに無雑作に触れても、決して壊れることはない。だから、触れてもかまわないのだと思いながら、触れたいのは、それだけのせいではないのだと、自分の内側で声がする。
掌を見下ろして、機械そのものの鋼鉄の手の感触と裏腹に、奇妙にあたたかな、生身の人のそれそのもののような、唇の感触を思い出しては、またいっそう、触れたいと思う気持ちが強くなる。
鉄を砕き、戦車さえ引き倒せる力を与えられて、そんな体で誰かに触れることなど、考えることもできず、それでも時折、人の体温が恋しくなる。
小さないきものに触れ、生身の皮膚の下に流れる血の熱さを感じて、互いの肩や背に回し合う、人の腕を思い出す。
そうすることが、当然であるかのように、何の心配もなく、抱き合える、両腕と、背中。
壊す気遣いのない相手だからと、けれどそれはつまり、改造され、生身の人のバランスを失ってしまった自分を隠さずに、晒せる相手だということだった。
彼は、機械の体を隠さずに、誰かと膚を合わせることがあるのだろうか。
近く近く、呼吸を寄せ合い、無防備な自分を、さらけ出して、人工皮膚の感触を、隠す必要もなく、そんな誰かが、彼にはいるのだろうか。
いるなら、それは幸せなことだろうと思いながら、刺されたように、胸が痛んだ。
ハインリヒの手の形と、人工心臓の鼓動が、掌の中に甦る。
すべてを、にせものとつくりものに取り替えられた後で、それでも生き残った心が、機械に囲まれながら、生身の輝きを失わないまま、声にならない叫びを、上げているようにも思えた。
触れたいと思うことの意味は、もう、ずいぶん以前から、わかっていたような気がしていたけれど、今はまだ、気づかないふりをする。
力を与えられて---望んだことでは、もちろんなかった---、失ったものの大きさを思いながら、掌を握った。
あの鉛色の手は、握りしめても、潰れることはないのだと思って、心のどこかで安堵する。
互いに、抱きしめ合うために、つくられた腕ではなかった。だからこそ、触れ合うことが、恋しくて、また、ハインリヒの、色の薄い唇のことを思った。
ざわめく森の中で、握りしめた拳に目を凝らして、ジェロニモは、いつまでも立ち尽くしていた。
戻る