Baby Blue
体の大きさが違うのは、誰が見ても一目瞭然だった。
どこへいても、ジェロニモがいちばん大きいのはいつものことだったけれど、ハインリヒだって、普通と比べれば、それなりに長身の部類に入る。
それでも、胸も肩も腰もぶ厚いジェロニモの傍に立てば、ハインリヒさえ、ひどく小さく見える。
部屋に入る時には、必ず頭を下げるし、人の目の前には、絶対に---盾になる時以外は---背を向けて立たない。誰かと話をする時には、いつも肩の位置を落として、耳を口元に近づける。そんな仕草のひとつひとつ、体のむやみに大きいことは、決して良いことばかりではないのだと、ハインリヒは、ジェロニモの苦労を、思わず労いたくなる。
それでも、ジェロニモの体の大きさが、自分に直に関係があると、思ったことはなかった。
いつものように、イワンにミルクを飲ませ終わったジェロニモが、イワンを肩近くに抱いて、その小さな背中をそっと叩いていた。げっぷをさせるために、大きな掌で、撫でるよりも少しだけ強く、イワンの背中を辛抱強く叩いて、けぷっと小さな音を立てる代わりに、イワンがもう少し派手な音を立てて、ジェロニモの肩の上で、口を大きく開いた。
だらだらと、小さな口から飲んだばかりのミルクが吐き出され、背中を叩いていたジェロニモの手が止まる。
少しだけ首を曲げて、ミルクを吐いてしまったイワンを、心配そうに見下ろす。
一部始終を、空になった哺乳瓶を手に、微笑ましく眺めていたフランソワーズが、口元を手で覆って、その奥で声を立てる。
ハインリヒは、穏やかでない気配に、読んでいた本から顔を上げた。
吐き出したミルクの量は、大したことはなかったけれど、ジェロニモの肩を白く濡らして、さらに背中へも流れていた。
「大変。」
ジェロニモの背に向かって、腕を伸ばすフランソワーズの声に促されたように、ハインリヒはソファから立ち上がって、何か手伝うことはないかと、とりあえず3人の傍へ寄った。
「シャツを脱いで。すぐに洗うわ。」
ジェロニモが、いい、と首を振るのに、フランソワーズは許さずに、もうジェロニモのシャツへ手を伸ばしている。傍へ来たハインリヒに、ジェロニモの手からイワンを抱き取ってと、目配せする。
フランソワーズには、逆らわない方がいい。ハインリヒとジェロニモは、フランソワーズには見えないように、こっそりとうなずき合った。
ハインリヒは、そっとジェロニモからイワンと抱き取って、その間に、フランソワーズが、まるで降参とでも言うように、宙に両手を掲げたジェロニモのシャツのボタンを、背伸びをして、上から順に外してゆく。
当のイワンは、ハインリヒの腕の中で、おしゃぶりのない口を、もぐもぐと動かしているだけだった。
フランソワーズにかかれば、ジェロニモもイワンも、大した違いはない。
くるりとシャツを剥ぎ取って、
「洗ったら、後で部屋に届けるわ。」
と、ぱたぱたと可愛らしい足音を残して、リビングを小走りに出てゆく。
その背を、ジェロニモ越しに見送ってから、
「大した礼だな、イワン。」
ハインリヒは、腕の中を見下ろして、ぼそりとつぶやいた。
---ワザトジャナイヨ。
頭の中に声がして、イワンがジェロニモを見上げる。
「具合悪くないなら、それでいい。」
シャツのない、少しばかり場違いな格好で、ジェロニモが優しい声で言った。
---大丈夫。デモオナカイッパイデ眠イヨ。
言いながら、もうあくびをしている。
「俺が連れて行くから、おまえさんはシャツを着て来いよ。」
ジェロニモの方にあごをしゃくると、そのハインリヒの腕の中から、イワンが、いきなりジェロニモの方へ腕を伸ばした。
---はいんりひハ、チャント寝ルマデ傍ニイテクレナイカラヤダ。
このくそガキ、とうっかり心の中で思ったのが、案の定イワンにはばれたらしく、くるりとハインリヒの方へ首を回して、前髪の奥で、ほとんど見えない瞳が、きらりと光った。
「おれ、連れて行く。」
ジェロニモが、うっすらと笑って腕を差し出すのに、抱き取らせる前に、ハインリヒは、子どもっぽい仕草で、イワンに向かって、イィっと歯を剥いて見せた。
誰もいなくなったリビングで、ひとりでまた本を読んでいると、ぱたぱたと聞き覚えのある足音がやって来て、フランソワーズが顔を覗かせる。
胸の前には、今はきれいにたたまれた、さっきのジェロニモのシャツを抱えていた。
「ジェロニモは部屋かしら。」
「さあな、イワンを寝かしつけに行った。あいつのことだから、子守唄の100曲メドレーでもやらせてるかもな。」
さっきの意趣返しに、今なら聞こえることはないだろうと、少しばかり口の悪いことを言ってみる。
「歌は聞こえないわ。」
生真面目に、階上へ耳を---何でも聞こえる、特別製の---すませて、フランソワーズが言い返す。
天井に、ちらりと視線を走らせて、ちょうど、章をひとつ読み終わったところだったので、しおりをはさんで本を閉じると、ソファから立ち上がりながら、ハインリヒは言った。
「俺も部屋に戻るから、ついでに、ジェロニモの部屋に届けてやるよ。」
乾燥機から取り出したばかりらしいシャツは、ほのかに暖かくて、ふわりと、柔軟剤の匂いがする。
子どもの頃、取り込んだばかりの洗濯物に顔を埋めて、布に含まれた空気の匂いを、胸いっぱいに吸い込んだことを思い出す。
ジェロニモの、洗ったばかりのシャツに、ふと顔を埋めてしまいたくなって、それを思いとどまってから、明日は、自分の分を洗濯しようと心に決める。
外に干した洗濯物は、太陽の匂いがする。乾燥機から出て来た洗濯物は、ふかふかと柔らかい。
どちらにするかは、明日の天気で決めればいい。どちらも、自分は好きだと思いながら、ジェロニモの部屋のドアをノックした。
返事はなく、少し待ってから、またドアを叩く。また、返事はない。いないのかと、ちょっとだけ首を傾げてから、自分で言った、子守唄のメドレーという意地悪は、案外当たっていたのかもしれないと、廊下のいちばん端にある、イワンの部屋へ向かって歩き出す。
目当てのドアの前で耳をすませて、歌もしゃべる声も聞こえないことを確かめてから、そっとそのドアを叩く。
返事を待たずに、覗き込めるだけの幅で、ドアを開けた。
イワンの、小さなベビーベッドに、大きな体を丸めて、屈み込んでいる裸の背中が、半分こちらに振り向いていた。
「フランソワーズに、頼まれた。」
するりと、ドアの狭いすき間から体を滑り込ませながら、胸の前に抱えたシャツを、軽く示して見せる。
ああと、合点が行った表情で、ジェロニモが、ベッドを離れてこちらにやって来た。
ありがとうと、低い声で言ってから、ハインリヒが差し出した、きちんとたたまれたシャツを受け取り、ぱさりと目の前で開く。
首のところと、いちばん下のボタンはとめられていて、まるで、店ででも見かけるように、四角い形にたたまれていたシャツが、本来の形に戻って、ハインリヒは、ジェロニモの体を離れたシャツの、その大きさに、ひどく驚いた。
デニム地の、生地の厚いシャツは、ジェロニモと同じほど頑丈そうで、それはシャツというよりも、むしろ毛布か何かのように見えた。
「そう言えば、大は小を兼ねるんだったな・・・。」
ひとり言のつもりだったのに、はっきりと口に出してしまったのか、広げたシャツの肩越しに、ジェロニモが不思議そうな顔を見せる。
いや、何でもないんだと、首を振りながら、口は勝手に続きをしゃべり出す。
「おまえさんのシャツなら、俺でも着れるな。見てくれさえ気にしなきゃ、大きさだけは充分だ。」
自分で何を言っているのか、よくわかっていなかった。
そもそも、服の貸し借りなど、いつもなら考えたことすらない。考える以前に、ハインリヒとは、仲間の誰もサイズが合わない。
ただ、袖も肩も余るだろうことは間違いない目の前の、洗い立てのシャツが、どうしてかひどく暖かそうに見えて、見た目だけではなく、膚を包んでも暖かいのだろうと、そう思えたので。
自分の言ったことにうろたえて、ハインリヒは、むやみに手を動かしながら、まだ口を動かし続けていた。
「いや、服を・・・シャツを借りられるなと思ったんだ。それなら、おまえさんのところへ遊びに行く時に、荷物が少なくてすむ。」
ハインリヒがそう言ってしまってから、ジェロニモが、一瞬の後、そうとはっきりわかるほど、うっすらと頬を染めた。ほとんど同時に、ハインリヒも、首筋に血の色を上げる。
「いやもちろん、たとえばの話で、おまえさんがいやじゃなかったらって、そういう話で。」
しどろもどろに、口を動かし、手を振り上げて、そうすればするほど、墓穴が深くなってゆく。
この場を、どうごまかそうかと思った時、突然イワンが泣き出した。
ジェロニモは、弾かれたように、手にしたシャツを羽織りながらベッドへ飛びつき、泣いているイワンをあやすために、そっと抱き上げる。
こちらに向いた背中を見て、今だと、ハインリヒは逃げ出すために、ドアへ振り向いた。
---借リハ今度返シテネ。
声に引き止められたように、びくりと後ろへ振り返る。
---子守唄ノ、100曲めどれーデイイヨ。
ジェロニモに抱かれて、まだ泣き続けている、それはイワンの声だった。
このくそガキ。ドアを閉めながら、今度は、敬愛と、感謝を込めて、ハインリヒはそう思った。
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