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30の感情に関する一文字の御題1@6倍数の御題照
日本の歩道はどこも狭い。歩道だけではなく、道はどこも狭い。畑しかない田舎にでも行けば、もうちょっと広々歩けるのだろうかと、ハインリヒは先に立つジェロニモの大きな背中に視線を当てて思う。混まない時間などないように、いつ来ても、路上は人でいっぱいだ。息苦しい思いがないのは、自分とは違う顔立ちばかりなのと、ハインリヒの身長なら、間違いなく頭ひとつ常に上へ抜き出ているからだ。ドイツにいれば規格外と自分のことを思わなくてすむのに、日本や他のアジアの国へゆくと、自分が巨人のように思える。
そして、自分よりさらに大きな、こちらはどこへいようと巨人扱いの間違いないジェロニモは、今は人込みから体の上半分が丸見えで、見失う心配がないのが何よりだった。
狭い歩道では、この混みようでなくても肩を並べて歩くことはできず、自然ハインリヒが前かジェロニモが前か、そうやって前後に並んで歩くことになる。今はジェロニモが先に立ち、ハインリヒがそれを追う形で、ふたりは目的地に向かって、周囲の歩調に合わせて歩いている。
これではとても車椅子など外へは出れないなと、その辺りは気配りの利いたドイツの歩道を思い出して、車椅子が外へ出やすいと言うことは、普通の歩行者も歩きやすい道と言うことになるのだがと、ちょっとだけその場で湧いた意見を、けれどまあ仕方ないと胸の内へ畳み込んだ。よその国のやり方に口出しするのは上品ではない。感想を抱くのは自由だ。けれど口に出す時は、ふた呼吸分考えた方がいい。国籍の違う仲間たちと付き合い始めて──もうずいぶん昔の話になる──、ハインリヒが学んだことのひとつだ。
ジェロニモの住む居留地は、舗装されていない道が、牧場と家の間を延々と続く。肩を並べて歩いていると、時折通るトラックのために、前と後ろへ移動して道を譲るのが常だ。
ジェロニモがドイツへ来ると、ふたりで一緒にトルコ系の食料品店へ行く。そう言えば、あそこでも肩を並べて歩いていても、人とすれ違う時に道幅が足りなければ、ごく自然にジェロニモがハインリヒの後ろへよけて道を譲るのだ。
習い性か。目の前のジェロニモの肩を見上げて、ハインリヒはひとり思い出したように笑みをこぼす。
ある、大きな構えの店の前を通った時、2枚両開きのガラスのドアから、突然どやどやと若い女たちが出て来た。笑いながら何か話しながら、ある意味傍若無人に目の前の人込みの中へ割り込んで来て、見事に人の流れを両断する。淡く甘い匂いが辺りに広がり、長い髪をなびかせて、自分たちしか見えていないらしい振る舞いで、ハインリヒの目の前いっぱいに彼女らが群れて歩き去って行った。
思わず彼女らのために足が止まり、ハインリヒは少し後退さって道を開け、ぶつからないように歩道の端へ避けた。店の前の建物を支える柱をうっかり片腕に抱くような形に、乱れてしまった人波がまた静かに落ち着いてゆくのを眺めて、ふっとひと呼吸する。
それから、自分の前を歩いていたジェロニモはどうしたと、視線をそちらへ投げた。
ハインリヒと同じように、そちらは若い女たちの群れに背中を押されるように歩道の左端へ追いやられたのか、こちらに体半分向けて、ハインリヒを視線の先にちょうどとらえたジェロニモを、ハインリヒも見つけていた。
ほとんど車道へ落ちるように、体半分はそちらへはみ出してしまっているらしい。ふたりの間には数メートルの距離があった。人たちはふたりを置き去りにして流れ続けている。歩道を斜めに、右端と左端で立ち止まって、まるで言い合わせたように、ハインリヒとジェロニモはそちらとこちらで見つめ合った。
人波が、時間の流れを表わしている。そこで、ふたりだけが立ち止まっている。人込みから、頭ひとつ分、体半分飛び出して、ふたりは何と言うわけでもなく、ただ見つめ合っている。
忙しなく動いている世界の中で、ふたりだけが動かずに、ひたと視線を互いに据えて、ここでは明らかに異分子のふたりは、それをまるで笑い合うように、ただ見つめ合っている。
ひとりきりでこの中にいれば、恐ろしいほど深く突き刺さって来る、孤(ひと)りだと言う感覚。人種の違う、自分の生まれた国ではない場所で、言葉も通じない──脳内翻訳機を使えば別の話だ──まま、水の流れにただ翻弄される枯葉のようなと、何度感じたことだろう。ハインリヒは、ジェロニモを見つめ続けた。
ひとりではない。この流れの中を、肩を並べられなくても、一緒に歩ける誰かがいる。
どこへいようと、孤りと感じるのは同じだ。それでも、自分だけがそう感じているのではないとわかる、安堵のような気持ち。ハインリヒは、ふっとジェロニモに向かって笑顔を浮かべた。応えて、ジェロニモも微笑む。
ハインリヒは、右腕に抱え込むようにしていた柱からやっと体を離し、また人込みの中へ向かって足を前へ出した。
ジェロニモが、進行方向へ体を向けながら、顔だけはハインリヒへ向けたまま、ハインリヒと距離が縮まるのを待っている。
ふたりの体で人波が割れ、やっと真ん中辺りで再び合流したふたりは、また前と後ろに並んで歩き出す一瞬前に、腕を伸ばせば触れ合える距離で、互いに微笑み合った。
どこか照れを含んだようなその笑顔ふたつ、ふたり同時に肩をわずかにすくめて、また前と後ろで歩き出す。人込みに溶け込みはしなくてもその中に入り込んで、ふたりは同じ方向へまた歩き出す。周囲から頭ひとつと体半分、飛び出したふたりが、小さな川を進む場違いな船のように、ゆるやかに歩を進めてゆく。
ある日ある街の、もう夕方近くだった。