Breaking The Habit
快楽というもののことは、よくわからない。
誰かと、親(ちか)しく心を重ねたことは、生身の頃にもあったけれど、人ではなくなってしまってから、人並み外れて大きな体と、異様な風貌は、まったく別の意味をも持ってしまうようになって、いっそうの疎外を、助長する羽目になっている。
人が、遠巻きになればなるほど、動物たちが、親しげに近寄ってくるのは、なぜなのだろう。
肩や、差し出した掌の上で、小鳥が憩っていたり、猫や犬が足元にすり寄って来たり、その小さなぬくもりが、人たちの中には溶け込めないことの孤独の代わりに得たものなのだと、そう思って、薄く微笑む。
人と、交わることは、許されないのだと、思っていた。
たとえ生身であっても、怯えを浮かべた瞳に向かって、媚びを浮かべて、卑屈に腕を伸ばす気にはなれない。
体の大きさも、膚の色も、選んで生まれたわけではない。けれど、そんな自分の誇りを、常に忘れないために、顔に刻んだ線は、自ら選んだものだ。
そのために、好奇や恐怖や侮蔑の視線に晒されるのだとしても、それは自らの選択の結果として、誇りを持って、胸を張れる。
そうして、その誇りゆえに、交わりを拒否されるなら、それはそういうこととして、ただ受け入れるだけのことだった。
ひとりきりなら、それでもかまわない。
心を親しく寄せることの先に、必ず躯を重ねることが、あるわけではない。
誰かを想うということが、必ずしも、想った相手に想われるということではない。
滅多と、誰かに心を動かされることもなかった。それが、想ってもかなわないという諦めから来たものなのか、それともほんとうに、ただ、そんな相手と出会わなかったということなのか、どちらともわからないまま、さして悩む必要もなく、時折、気まぐれに訪れる懊悩に、ひとりこっそりと、わずかな間苦しむだけで、そんな気まぐれすら、時の流れとともに、訪れの回数を減らしている。
人が、人と交わりたがるのは、淋しさのせいだけではないのだと、生身の頃には考えてもみなかったことを、今は知っている。
他人と肌を重ねる、それだけで、心のすきまが埋まることがあるのだと、今ならわかる。
だから、人は人を求めることをやめられずに、ひとりでいることを、悲しいことと思う。
悲しくはない。淋しくないと言えば、それはうそになるけれど、悲しいわけではない。ひとりでいることも、ふたりで在ることも、それはただ、そうだというだけのことなのだから。
けれど、ひとりでは、決してできないこともある。
だから人は、誰かを求めるのだろうか。
求められた時に、その瞳に浮かんでいたのは、媚びでもなく、恐れでもなく、深い困惑と、羞恥の色だった。
膚の白さに負けないほど、透き通った氷のような瞳が、その奥に、熱を揺らしていた。
一体、何だったのか。伸ばされた腕を拒まなかった理由は、一体何だったのか。
冷静に考えれば、関わりを深くするのは、奇妙としか言いようのない間柄だったし、そもそも、深くできると、考えたこともない相手だった。
それなのに。
彼に、あんな瞳で人を---誰であっても---見上げることを、それ以上させたくなかったのか、彼の必死さに、同情がわいたのか。
それとも。
もう、ひとりきりでいることに、飽きていたのかもしれない。それはそういうこととして、受け入れることに、少しだけ疲れていたのかもしれない。
彼がなぜ自分を選んだのか、気にならなかったと言えばうそになる。けれど、それを問いつめることは、彼の誇りを傷つけるような気がして、いつものように口をつぐんだ。
ぎこちない触れ合い方をしても、長い間、そんなことから遠去かっていた体は、驚くほど深く、相手に向かって開いてゆく。
慣れて、手順を思い出して、相手のことを知るにつれ、抱き合うことで分け合うのは、互いのぬくもりだけではなくなってゆく。
自分の下で、彼が我を忘れる時、それが自分のせいだとはっきりうぬぼれられるほど、こんなことに長けているわけもなくて、そうなることが、彼自身の選択なのだと、きちんと理解しながら、けれど少なくとも、彼がその手助けを求めているのは、自分になのだと、抱きしめる腕に、いっそう力を込める。
快楽は、ひとりのものでもあり、ふたりのものでもあった。もっとも、それをより多く、より頻繁に享受しているのは、彼の方のように思えるのだけれども。
それはただ、そういうことなのだと、また、ただ受け入れるだけだ。
すべてを脱ぎ捨てて、隔たりもなく抱き合って、何もかもをさらけ出す。自分の知らない自分が、そこに現れる。ほんとうの、自分自身。ほんとうの、彼自身。
その彼は、時々、無我夢中になると、普段は使わない言葉を使った。
常に耳にする、互いにそれで生まれ育ったわけではない英語ではなく、彼自身の言葉で、何か口走る。
低く、固い響き。わざと、意味は聞き取らない。ただ音として、彼の舌と喉と唇がつむぐそれを、耳に溶け込ませる。
小さな、耳慣れない音楽のように。
不思議な響きのその言葉は、死神という仮面を取り払った、剥き出しの、生身の彼自身のようで、そうやって、彼が滑り落とす言葉を聞きたくて、彼を夢中にさせることに、必死になる。
知らない言葉で、彼が叫ぶ。何を言っているのか、知ろうと思えば簡単だったけれど、知ってしまえば、今ある輝きを見失ってしまうことがおそろしくて、音だけを拾うために、彼を抱きしめて、目を閉じる。
彼の言葉は、まるで、この快楽だけが、彼と自分をを結びつけているわけではないのだと、そう証明しているように思えた。
誤解なら、それでもいい。
誤解のまま、放っておけばいい。
知ることが、すべてではない。
また、彼が声を上げる。応えるために、躯を寄せて、それから、まるで魔が差したように、唇を耳元へ近づけた。
自分の言葉を、注ぎ込む。彼がつむぎ続ける、低い、意味のわからないささやきに応えるように、意思の伝達のために使っている、自分のものではない、記号のような言葉ではなく、血の通った、想いを込めた自分の言葉を、ささやきかけた。
似ても似つかないふたつの言葉は、まるで二重奏のように重なり合って、深い口づけがそれを中断させても、躯の奥で、響き続けていた。
「なにか、言ったか・・・?」
ハインリヒが、ジェロニモの腹に、額をすりつけるようにして、低く言った。
当たる息のあたたかさに、腹筋をくすぐられて、みぞおちの辺りに力を入れて、ジェロニモは気配が伝わるように、大きく首を振る。
「なにも。」
自分の言葉でなければ、決して表現しきれないことが、この世の中には山ほどある。
これも、そのうちのひとつだと思いながら、ジェロニモは、ハインリヒの首の後ろを撫でた。
そのままで伝わらないなら、そのままで伝わる時まで、待てばいい。
そう言えば、まだ誰にも言ったことのない言葉だったと、ハインリヒに注いだ自分のささやきを思い出して、ジェロニモは、心の中で苦笑する。
それを、英語で口にすることは、決してないだろうと、奇妙な確信がわいて、唇でだけまた、形をつくった。
唇から、音もなくもれたはずの言葉に、ハインリヒの声がかぶさっていた。
ジェロニモと同じ言葉をつぶやく、ハインリヒの声。
腹に顔を伏せたまま、動かないハインリヒは、もう眠ってしまっているのかもしれない。
だったら、これは夢だ。
唇を動かし続けながら、耳だけはハインリヒの声を聞いている。
夢でも、夢でなくても、どちらでもかまわないと、思いながら目を閉じた。
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