Can't Get My Mind Around You



 手足が、ようやく戻って来た。
 特殊合金が、やっと必要な分だけ見つかったと、ギルモア博士がうれしそうに報告してくれた2日後、またあの固いベッドの上に寝かされ、それから、麻酔で深い眠りに落ちた。
 いつ目覚めたのか、体がいつもよりだるく、一度目覚めてから、ハインリヒはまた、眠りに戻った。
 右側の鎖骨が鈍く疼いて、首筋が引きつるような痛みで、ようやく眠りから引き上げられる。
 目を開いて、光量の落としてある、天井から釣り下がった、手術用の照明を、ぼんやりと眺めた。
 頭を軽く上げ、シーツを盛り上げている、自分の体の形を視線でなぞる。
 久しぶりの、欠けたところのない、自分の体。
 シーツから滑り出し、ベッドの上に坐った。
 揃った足。肩から下がった右腕。肩が重いと感じる自分に、ハインリヒは、ふっと苦笑をもらした。
 歩けるだろうかと、ふと思う。
 当たり前じゃないか。足を失くしたのは、初めてじゃない。
 シーツを剥ぎ、ゆっくりと、床に向かって両足を伸ばした。
 右足を軽く振る。気のせいか、感覚が、数瞬遅れて、神経に伝わるような気がする。
 気のせいだ、とハインリヒはひとりごちた。
 ゆっくりと、床に爪先を触れる。
 冷たい、と思った。
 立ち上がり、右腕を、肩より上に振り上げてみる。それから、この鋼鉄の右手がないことを、実は淋しがっていたのだと、いきなり気づく。
 右手がない不便さだけではない、この、マシンガンの右手がなかったことが、どれほど自分を落ち込ませていたのか、ハインリヒは今ようやく自覚していた。
 これで靴紐を、自分で結べる。シャツのボタンもとめられる。どこへ行くにも、自分の足が使える。
 煙草が吸いたいと思いながら、研究室を出るために、ドアへ向かった。


 「よう、やっと戻ってきたな!」
 グレートが、両手を広げて、笑顔を見せた。
 研究室から真っ直ぐ自分の部屋へ戻って、久しぶりで、何の苦労もなくシャワーを浴び、自分のシャツを着て、自分の足で、リビングまで歩いて行った。
 リビングは、グレート以外は誰もおらず、ハインリヒは、薄く失望を口元に刷く。
 煙の出ていないパイプを口から離し、グレートが苦笑を浮かべる。
 「ギルモア博士は、知り合いの学者が急に来日したとかで、フランとジョーとイワンと一緒に出掛けたよ。張大人は、ジェロニモとジェットを連れて買出しだ。おまえさんが元通りになった祝いだとさ。今夜は大盤振る舞いだ。」
 そうか、とだけ答えてハインリヒは、肩を少し揺する。
 ちょうどいい、ひとりで裏庭に行こうと、思っていたけれど。
 「煙草を、吸いに行かないか?」
 鉛色の指先で、唇に触れながら---その感触を、心の底から楽しんだ---、少しだけ切羽詰ったように言うと、グレートが顔いっぱいで破顔して、ハインリヒの背中を、大きな仕草で思い切り叩いた。


 グレートの言った通り、ギルモア博士たちが帰って来て、張大人たちも戻って来て、その夜が大騒ぎになった。
 ジェットが、張大人の買い物のリストに忍び込ませたのか、アルコールのボトルも、種類さまざま、キッチンのカウンターに並んだ。
 「久しぶりだよな、アンタの五体満足な姿見るの。」
 いつもの調子で悪気もなさそうに、ジェットがにこにこと言う。
 そうだろ、と上を見上げて、そばでミルクをなめていたジェロニモに同意を求めた。
 ジェロニモが、少し困った顔をして、ああ、とも、いや、とも言わずに、グラスの陰に口元を隠す。
 それに向かって、気にするなと、ハインリヒは薄く笑いかけた。
 ジェロニモも、うっすらと笑い返してくる。ジェットのそばを素通りして、ふたりで言葉のない会話を交わす。森の中で、ジェロニモに抱かれて泣いて以来、ふたりの間で、そんなことが増えていた。
 右手で握ったグラスを、また眺める。もう、何度もそれを繰り返していた。
 しばらくの間見なかった右手が、自分の目の前に浮かんでいる。うれしいより先に、奇妙な気分だった。
 ジェットが、酒のお代わりを取りにキッチンへ行くと、ジェロニモが、右肩に手を置いた。
 それだけで、けれど何も言わない。それでも、掌の暖かさが、言葉よりももっと雄弁なものを伝えて来る。
 その手に、鉛色の掌を重ね、久しぶりに、ダンケ、とハインリヒは言った。


 その夜、ジェットが忍んで来た。
 来るだろうと思っていたから、驚きはしなかった。
 久しぶりに、ジェットの背中に両腕を回しながら、物珍しげに新しい手足に触れてくるジェットに、見えないように苦笑をもらす。
 まだ、新しい体の部分に慣れないせいなのか、動けと思ってから、実際に動くまでにほんの少しの間が空く。触れられて、感じるまでにまた、数分の一拍くらいのずれがあった。
 しばらく続くようなら、ギルモア博士に話した方がいいだろうと、ジェットが下に唇をずらしてゆくのを目で追いながら、思った。
 ジェットのキスは、まだ酒の匂いがして、けれどそれさえ、何故か心地良いと感じる。
 素肌---たとえ人工皮膚ではあっても、これは彼らの膚だった---を、じかに重ねる。触れ合わせて、互いに熱を求める。こうすることを、嫌いなわけがない。いやなはずがない。
 ジェロニモとは、こんなことはしないと思ってから、うろたえる。
 「どうした?」
 ジェットが、顔を近づけてきた。
 「何でもない。」
 不自然なほど素速く、ジェットの語尾を引き取った。
 そう、ジェロニモとは、こんなことはしない。
 する必要はない。必要は、ない。
 ジェットに右手を取られ、下肢に引かれる。指が触れ、絡めてから、目を閉じた。
 「アンタと、ずっとこうしたかった・・・」
 語尾が、頭上でかすれた。
 ジェロニモに部屋を追い出された夜以来、本気で遠慮したのか、それとも決まりが悪かったのか、ハインリヒの部屋にやって来ることはなかったから、普段のジェットには珍しく、ひどく辛抱強かったことになる。
 ジェットを恋しいと思ったことはなかったけれど、ジェットとこうすることは、少しだけ恋しかったのだと、ぴりぴりとする、右肩の機械部分の接ぎ目が、ハインリヒに告げていた。
 ジェットから唇を外し、ゆっくりと導いた。ジェットが驚いたように、躯を引こうとしたけれど、大丈夫だとそそのかすように、右手を少し動かした。
 躯を繋げる痛みに、かすかに眉を寄せる。
 ああ、ほんとうに久しぶりなのだと思ってから、声を上げた。
 ジェロニモが、部屋へやって来る気配は、なかった。
 眠りに落ちながら、ようやく、自分が元の体に戻ったのだと、初めて感じた。


 ハインリヒは翌日、熱を出した。


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