Charms



 茶色い紙の袋に、サンドイッチとリンゴを入れ、携帯用の、プラスティックの大きなマグに、ミルクの入った紅茶を注いだ。
 マグにふたをして、こぼさないかと、少し心配しながら、ジェロニモのトラックに乗り込む。
 空港からやって来たのとは、違う方向へトラックが向かう。
 途中で、あれが牧場だと指差されたのは、5分も走った後だったろうか。
 小さな、街の中心らしい、店がいくつかひしめき合った通りを抜け、小さくて古い家ばかり並んだ通りから、細い脇道に入ると、いきなり大きな木が増える。
 古い家々は、けれど手入れの行き届いた、大きな前庭を抱えていて、重々しい姿で、まばらに立ち並んでいる。
 いくつか角を曲がって、そんな家々の1軒の前で、ジェロニモがやっとトラックを止めた。
 蔦に覆われた壁と、まるで、中世からそのままのような---もちろん、ありえないけれど---、重々しい木の扉に迎えられ、ハインリヒは思わず居ずまいを正した。
 ジェロニモは、その扉についている金属の輪---これも年代物だ---でカツカツとノックをすると、ぎいっと扉が内側に開いて、中から、白人の男が顔を見せる。
 「やあ、ジェロニモ、ご友人とやらと一緒かね。」
 訛りのある英語にうなずくジェロニモが、体をずらして、後ろにいたハインリヒを、目顔で促した。
 背の高さは、ハインリヒとあまり変わらない。けれど、重たげな大きな腹は、ジェロニモとは違う意味で、巨漢と称せそうな迫力だった。白くなってしまった髪、老いをはっきりと刻んだ頬や首筋、60くらいだろうかと思いながら、ハインリヒは、今日はきっちりとしてきた、手袋の右手を差し出す。
 男は、握手を返してから、にっこりと微笑んだ。
 家の中は、外から想像できる通りに、つやつやと輝く木の床と、太い木の柱と、今では、こんな家を建てられるのは、とんでもない金持ちだけだ。もっとも、金があっても、資材も職人も、見つけられないだろうと思いながら、ハインリヒは天井を、失礼にならないように、素早く見回す。
 2階へ続く階段の、手すりの辺りの細工の見事さに、視線を奪われ、思わず声を上げそうになってから、くすりと男が笑ったのが聞こえて、慌ててそちらへ視線を戻した。
 「元々、妻の家族の持ち物でね、私がハンガリーからここへやって来た時には、小さなアパートメントすら借りられなかったよ。」
 言い訳というよりは、冗談めかして、男が言った。つられてハインリヒが笑うと、ジェロニモもまた、笑顔でふたりを見下ろしていた。
 玄関で、ひとしきり視線と微笑みを交し合った後、男がさて、と呟いて、奥へ歩き出す。ジェロニモに促され、ハインリヒはその後を静かに追った。
 居間らしい、ソファや椅子や、小さなテーブルのある部屋を抜ける---そこでも、ハインリヒは思わず、部屋の天井や壁を見回した---と、裏庭に面した部屋にたどり着き、大きな窓が、天井から床まで部屋の壁いっぱいに広がり、陽の光が直接は当たらない位置に、白いピアノが置いてあった。
 思わず、息を飲んで足を止め、知らずに、頬が上気していた。
 ピアノだけではなく、さらに、窓からいちばん遠い壁際には、ずらりと大きな本棚が並び、どれも、沈んだ色に金の文字を刻んだ、手に取れば、ずしりと重い、アンティークとも言えそうな背表紙ばかりが並んでいる。
 宝の山だと、思わず喉の奥でつぶやいて、ハインリヒは、聞こえなかったかと、慌てて口をつぐむ。
 「本は、まだ他の部屋にもあるよ。ここのは、とりあえず好きに読んでいい。ピアノも、手入れはあまり良くないがね。」
 ピアノについては、謙遜に違いなかったけれど、ハインリヒは社交辞令さえ忘れて、自分の方へ振り返った男に向かって、言葉もないままだった。
 子どもでもあるまいしと、そう思っても、本棚の方へ寄って、背表紙に指を滑らせずにはいられず、なぞる本のタイトルは、どれも原語のままなのか、イタリア語もあれば、フランス語もあり、ハンガリー語はもちろん、ドイツ語も、ロシア語もあった。
 ざっと眺めると、哲学についての本が多いように思え、サイボーグに改造され、翻訳機を埋め込まれ、地球上のほとんどの言語を使えるようにされたことを、今この瞬間だけは、心の底から感謝する。
 男は、ハインリヒの、子どものように興奮しきった態度を、無礼とも思わない様子で、大きな体を億劫そうに動かして、ジェロニモの方へ首を伸ばした。
 「後は勝手にやってくれ。私はそろそろ講義の時間だ。4時には戻るよ。」
 ジェロニモがうなずくのと同時に、ハインリヒは、聞き取った言葉を、おうむ返しにした。
 「講義?」
 男が、またハインリヒに振り向いて、ゆっくりとうなずいた。
 「大学で、哲学を教えていてね。一応、教授と呼ばれているよ。もっとも、学生相手よりも、君と話をする方が面白そうだが。」
 最後の部分は、お世辞だったのか本気だったのか、思わずハインリヒは、また頬を染めて、うつむいた。
 男が、大きな体を揺すって部屋から消えると、ジェロニモが、おかしそうにうっすら笑って、ハインリヒの傍へやって来た。
 「一体、何者なんだ?」
 まだ、家の中のどこかにいる男に聞こえないように、声をひそめると、ジェロニモが、そんな必要もないのに上体を傾けて来て、脳内通信装置を使って、応えてくる。
 ------メイヤー教授。大学で、哲学教えてる。
 ジェロニモと、大学教授が結びつかず、怪訝な顔を返すと、ジェロニモがまた、ぼそりと声を続けた。
 「今は、大学行く仲間、たくさんいる。インディアンのこと、調べてる人間、たくさんいる。」
 なるほど、と思ってから、調べられる対象であるということを、仕方ないことだとは思いながら、ほんの少し、申し訳なく思った。
 ふたりで並んで、本棚に手を伸ばし、本を手に取り、ぱらぱらとページをめくる。
 ジェロニモは珍しく、そのまましゃべり続けた。
 「メイヤー教授、色んな人間と話したがる。ドイツから友達来る、言った、連れて来てもいいか、訊いた。」
 「ふたりで一体、どんな話をするのか、聞いてたいな。」
 茶化すように言うと、ジェロニモが、生真面目な横顔のまま、答えた。
 「メイヤー教授、どんな話でもする。笑わない。」
 哲学と精霊の話が、どう結びつくかはともかく、このふたりが、真面目にジェロニモの部族の風習について話し合っている光景を思い浮かべて、それはそれで面白そうだと思う。
 ギルモア博士は、人間の体を研究する学者だけれど、メイヤー教授のように、人そのものについて研究する学者と話をするのも、ひどく興味深いことのように思えた。
 自分だけではなくて、ピュンマやグレートとも、話をしたがるかもしれないと思って、ひとりでくすりと笑う。
 イタリア語の本を手に取って、こんな贅沢な空間にいられることの幸せを、まだ心の底からは信じられず、ここに連れて来てくれたのが、ジェロニモだと言うことはもっと信じ難く、ハインリヒは、横にいるジェロニモを見上げて、短くダンケ、と言った。
 うっすらと笑ったジェロニモは、無言で肩をすくめただけだった。


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