Comfortably Numb
ぽっかりと、何かの隙間に挟まってしまったような、珍しくまとまった休みの間の、取り立てて何もすることのない、退屈な夜だった。
特に読みたい本もない、テレビは嫌いだし、けれど音がないのが何となく淋しくて、割と気に入っているオペラのレコードを、丁寧な手つきでプレイヤーに乗
せた。
静かな、けれど力強い女性の声。その声を聞きながら、色気のないただのグラスに、白のワインを注ぐ。立ったまま一口あおってから、プレイヤーの前を通り
過ぎて、窓際へ寄った。
星は見えない。外は車の音で、存外騒がしい。この部屋は静かだ。話し掛ける相手もいないハインリヒの、たったひとりきりのための部屋だ。
仕事の合間に帰って来て、寝て、また出てゆく。荷物を置いているというだけの場所に過ぎないにせよ、ここはひとまず、ハインリヒが帰って来る部屋だ。
冷たい窓ガラスに、こつんと額を当てて、外を眺めたかったわけではなかったけれど、そうやってしばらく、視線を窓の外にさまよわせている。
暗い路地がいくつも見えて、弱々しい街灯の明かりが、申し訳程度に舗道を照らしている。その光のはかなさが、ひどく淋しげに見えて、淋しいと思った自分
に驚いて、ハインリヒはちょっと唇の端を歪めた。
とても久しぶりに、時間を持て余して、退屈なせいだ。次の仕事はもう少し先だ。たった今開けたばかりのワインを、慌てて飲み終わってしまう必要がない。
少しゆっくりできる時間を、あまりありがたいとも思えずに、また一口、ワインを飲んだ。
星も月も見えない。角度が悪いせいもあるし、空があまり明るくないせいもある。何もかもが、何となく暗い夜だ。夜が暗いのは当たり前じゃないかと、ひと
りの時にはごく自然に増えるひとり言めいてつぶやいてから、そういう意味じゃない、と胸の中で自分に向かって反駁する。
理由も思い当たらず、意味もなく、気が滅入る時はある。何となく浮き立たない気分を、どうすることもできずに、ただ好きな音楽の、やるせない旋律の中に
ひたり込んで、このまま戻って来たくはないと、そう思う時がある。
まるで、宇宙をひとつきりただよう、爆発した惑星の小さなかけらのように、どこにも繋がらず、どこへ行くともなく、ひとりきり、ふわふわと、足元もおぼ
つかない。生まれる時も死ぬ時も、ひとりきりだ。これはただ、そこらにごろごろ転がる、人たちが時折ふと感じる、不意に出るくしゃみや咳と同じような、ご
く平凡な孤独というものだ。
それを感じるからと言って、慌てることもない。きっと今、見たいと思うのに星が見えず、闇の中にすっかり空が溶け込んでしまって、自分がどこにいるとも
知れずに、不安になってしまっただけだ。
人恋しいのだと、そう素直に思って、会いたいと思う、あれこれの顔を思い浮かべた。けれどそのどれもしっくりと心の中に収まらず、そうして、ようやく、
最後まで取っておいた顔をひとつ、思い浮かべる。
いつの間にか、窓の外を眺めながら、カーテンを握り締めていた。
あちらは、今はまだ朝にならない時間だ。たとえ、そんな時間に電話で起こされたとしても、怒った声も出さずに相手をしてくれるだろう。そうとわかってい
るから、余計に電話など、掛けたくもない。
窓に映る、自分の白い顔を見て、ハインリヒはいっそう大きく唇を曲げた。心ここにあらずと言った、自分のこんな表情が大嫌いだ。空ろで、自分を見ている
くせに、何も見ていない。見たいものが見つからずに、ただ目の前に視線を据えているだけだ。見たいものはこんなものではなくて、けれど何を見たいのか、自
分でよくわからなくて、途方に暮れているのだと、表情には見えなくても、自分でわかる。
誰かと話をしたい、けれど、話なんかしたくない。気持ちがきちんと言葉で表せるなら、こんなに苦しまなくてもすむのだろうか。言葉にできないのか、その
醜さに耐えられそうにないから、言葉にしたくないのか、だから、口にしたいと思うくせに、口にしたい先が見当たらない振りをして、口にはしない言い訳にし
ているだけなのか。
あの男なら、ハインリヒが何を言おうと、軽蔑の気配すら浮かべずに、何もかも、黙って受け入れてくれるだろう。たとえ、
「昨日、ふざけて犬を殺した。」
そう言ったところで、あの男は眉も動かさずに、そうかと、ただ言うだけだろう。
犬なぞ殺す気もないのに、そんなことを考えている。
理由はない。ただ急に、自分の醜悪さに耐えられなくなっただけだ。吐き出すことのない言葉や、思い浮かべることすらおぞましい言葉や、そんなものすべ
て、何もかもまとめて、誰かにぶつけてしまいたくなることがある。自分を止めることをせずに、何もかも一切合財を、投げ出して晒して、どうだと、胸を張っ
てみたい---虚勢だ---気分になることがある。
押しとどめ、隠している自分を、衝動のままに暴き出してしまいたい。
ひとでなしで、人殺しで、武器まみれの機械の体をした、死に損ないの自分という存在を、手袋や長袖のシャツで隠さずに、全部晒してしまいたい。
自分の抱える秘密---大きなものも、小さなものも、すべて---に、時々こうして押し潰されそうになる。
一度吐いてしまった言葉は戻せない。そして、一度吐き出せば、次から次へとあふれて、止まらなくなるだろう。吐き出す言葉は、醜さを増すばかりだろうと
わかるから、絶対に口にはしない。そしてその言葉の重さに、自分で耐えられなくなるのだ。
そんなすべてを、あの男は黙って受け止めてくれるだろう。軽蔑の表情など浮かべずに、ただそれはそうだというだけのことだと、ハインリヒの吐き散らす醜
い言葉も何もかも、全部受け止めてくれると、ハインリヒは知っている。
そうして、その優しさが偽りのものではないとわかっているからこそ、あの男には言えないのだ。吐き出す何もかもを受け止めてもらえると、確信があるから
こそ、その優しさにすがることに、嫌悪が湧く。
いやあれは、きっとあの男の、隠している冷たさなのだと、そう思うことがある。黙って、どんな話も聞いてくれるのは、あれはきっと、他人に興味がないか
らなのだ。来る者は拒まない、同時に、去る者を追うこともしない。優しさに見えるあれは、無関心の別の形だ。
興味がないから、どんな話も聞くことができる。無関心だから、軽蔑など湧くはずもない。だから、言ってしまえばいいと、そそのかす声が、自分の中です
る。
あの男の、底のない優しさを、そんな風にねじ曲げて解釈するのもまた、ハインリヒの醜さの表れだ。そうではないと知っているのに、あの男の優しさは、ど
こまでも広がる空や海と同じに、限りもなく深いと知っているのに、それにすがってしまいたい自分と、それを恥と感じる自分とが、胸の内で戦っている。
話をしたい。声を聞くだけでもいい。人の心の機微に聡いあの男は、ハインリヒの声を聞いた瞬間に、浮き立たずに持て余しているこの気分を悟るだろう。元
気かと訊いて、どうしていると訊いてくれる。
何でもない、退屈過ぎて、どうしていいかわからなくなってるだけだと、無愛想に言う。声を聞きたくなった、離れていても繋がっているのだと、確かめた
かったと、本心は決して伝えない。それでもきっと、ハインリヒの声の調子で、あの男は、声のないハインリヒの言葉を、すべて聞き取るだろう。
そんなあの男の優しさが、今欲しかった。
それでも、声を聞けば、触れ合えない距離が悲しくなる。空は同じだ。どこへ行こうと繋がっている。けれど、時間の差のある距離が、今はとても淋しい。会
いたいのだと、素直にはなれない自分の強情さを、ハインリヒはうっそりとひとり笑った。
どうしても会いたいのだと素直にそう口にしたら、あの男はどうするだろう。一瞬言葉に詰まった後で、小さく苦笑いをこぼすだろうか。それとも、困ったよ
うに黙り込んで、どうやってそれは無理だと言おうかと、言葉を探す沈黙を伝えて来るだろうか。あるいは、少し考えた後で、いつなら会いに行けると、言って
くれるだろうか。
会いたいのは、話をしたいのは、ただひとりだ。他の誰でもない、世界にただひとりだ。
遠く隔たって、今会うことのできない、あの男だけだ。
そんな誰かのいることを、心のどこかでありがたいと思いながら、けれど同時に、今触れ合えないことを、歯噛みして悔しいと思う。
残っていたワインを、一気に喉の奥へ流し込んだ。冷たさと、鼻に抜けるアルコールの尖った香りに、軽くむせて、そのせいで、涙が目元ににじんだ振りをす
る。
ひとりきりの、こんな夜のせいだ。することもなく、何も思いつけず、明日の朝になれば、もっと気分も変わっているだろう。
もう寝てしまおうと思った。明日の朝、まだしばらく仕事がないようなら、思い切って電話をすればいい。声を聞きたくなったんだと、そう言って、笑い合え
ばいい。深刻な話をする必要はない。胸の内を、すべて打ち明けてしまう必要もない。
あの深い声にただ聞き入って、その声が、自分をいつも思っていてくれるのだということを確かめて、それに安心すればいい。
欲しいのはそれだけだ。
ジェロニモ、と月の見えない空に向かってつぶやいて、空のワイングラスを、気づかずに右手の中で握りしめている。キリ、と鋼鉄の指に、薄いガラスが淋し
げな音を立てた。
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