Desert Road
週末には、何となくみんなで、映画を見るならわしになっている。
張大人が、手でつまめる中華を振る舞い、中国茶をたっぷりとポットに作り、あるいは、フランソワーズがクッキーを焼いて、グレートが紅茶をいれる。
部屋を暗くして、まるで小さな映画館のような、そんな気分を味わいながら、様々な映画を見る。
誰かが眠ってしまうこともあれば、クレジットが流れ始めるまで、全員が身を乗り出して、一言も発さないままのこともある。
夜の早いギルモア博士は、たいてい映画が始まる頃には、イワンと一緒に、おやすみと言い残して部屋に去ってしまう。
みなで、部屋のそれぞれの位置におさまり、映画館のスクリーンとは、比べものにならないほど小さなテレビの画面を、食い入るように眺める。
今夜の映画は、砂漠が黄色い。カメラを斜めにしたり、人の体の一部ばかりを映したり、アメリカらしい砂漠の道に、突然現れるのは、ヨーロッパの---ドイツ語の---アクセントでしゃべる、厚化粧の太った中年女だった。
ふん、とソファの中で少しばかり背を伸ばし、ハインリヒは、彼女の台詞を追った。
彼女がたどり着くのは、とがった神経が外に向かって突き出しているような、背の高い、やせっぽっちの黒人女が切り回す、薄汚いモーテルだった。
アメリカを走ったことはないけれど、仕事でトラックを運転していると、こんな場所にたどり着くこともある。
何もない道を、ひたすら走り続けた後には、こんな、まともな食事も期待できそうにないところさえ、にっこりと微笑みながら足を踏み入れたい気分になる。
ジェットが、つまらなそうに後に体を伸ばして、小さくあくびをしたのが見えた。
フランソワーズは、ジョーの膝に手を乗せて、そのフランソワーズの方へ、ジョーは体を傾けている。
張大人は、キセル煙草をふかしながら、おもしろいと思っているのかいないのか、読み取れない細い目を、いっそう細めていた。
グレートとピュンマは、ハインリヒと同じほど興味深げに、物語の成り行きを見守っているように見えた。
部屋のすみ、テレビから少し離れた場所で、床の上に坐っているジェロニモは、こちらに背中を向けていて、表情は見えない。
画面では、モーテルの女主人の子どもたちが走り回り、白人と黒人が入り乱れ、モーテルのレストランで働いている青年はネイティブ・アメリカンで、オーストラリアから旅行中だという、若い男も顔を出す。
とっくに中年と通り過ぎている、まるでヒッピーの生き残りのような白人の男と、刺青師の、つんと鼻と胸を突き出しているような白人の女。
何もないモーテルの外側とは裏腹に、中では、色と喧噪があふれている。
まるで、俺たちみたいじゃないかと、そう思うのはおそらくハインリヒだけではないのだろう。
モーテルのレストランでコーヒーを飲んで、主人公の---ドイツ人の---太った女が、薄すぎると、顔をしかめる。
ハインリヒは、思わずそれを、くすりと声を立てて笑った。
女主人の長男は、ピアノを弾く。10代の半ばに見える少年の、鍵盤の手元に落とした真摯な視線とその横顔に、ハインリヒは、思わず自分を重ねて、見入っていた。
ジャスミンという、とてもチャーミングな名前が、まったく似合わないように見えていた中年女は、物語が進むにつれ、化粧を落とし、シンプルな服を着て、次第に可愛らしい素顔を現してゆく。
彼女に恋するヒッピーの生き残りは、老いらくの恋と言っても良さそうなのに、これも初々しく、彼女への想いを表現する。
ずいぶんと、夢にあふれた映画だなと思って、素直に好きだと言えない自分を、ハインリヒはこっそり笑った。
レストランで、ネイティブ・アメリカンの、黒い髪の長い青年が、いつものように、背の高いポットにコーヒーをいれている。大きなスプーンにコーヒーの粉をすくい、1杯2杯とフィルターに入れたところで、その手を宙で止めて、何か、考えている表情を見せる。それから、もう二盛り、コーヒーの粉を追加する。
その時の、青年の、照れたような、苦笑のような、口元に浮かんだ微笑みに視線を吸い寄せられて、思わず身を乗り出した時に、ジェロニモが、こちらに肩越しに振り向いた。
何の前触れもなく合わさった視線は、数瞬そのままで、それから、また何事もなかったように、ジェロニモが、こちらに向いていた横顔を前に戻した。
何となく、ふたりの間に通じ合った何かが、宙をふわふわと漂い、それにかぶさるように、女の声が主題歌を歌う。
砂漠で吹く風の音のような、そんな色合いの声は、耳の中ではなく、皮膚の内側に注ぎ込まれるようだった。
ハインリヒは、動かないジェロニモの背中を、意味もなくじっと見つめていた。
珍しく、フランソワーズよりも張大人よりも先に起きて、ハインリヒは、しんとしたキッチンで、寝乱れた髪のまま、やかんを火にかけた。
長袖のパジャマを、着替えてもいない。紅茶を飲んだら、また寝てしまおうかと、そんな自堕落なことを考えながら、不精ついでに、葉ではなく、ティーバッグで直接マグに紅茶をいれようかと、まだ半分寝ている頭のすみで、ぼんやりと考える。
大きくあくびをして、夕べ見た黄色い砂漠の歪んだ夢は、みんなで見た映画のせいだと思って、不意に、主題歌のメロディーが口をついて出た。
風の吹く砂漠の道の真ん中で、アップライトのピアノを弾いていた。楽譜はなく、右手は剥き出しのままで、手入れがいいとは言えない、少し汚れたピアノだったけれど、風の音を聞きながら、何か、即興で弾いていたような気がする。
右手を見下ろして、マグに放り込んだティーバッグに沸いたばかりの湯を注ぎながら、ハインリヒは小さく歌い続けていた。
あなたを呼んでいるの
わたしの声が聞こえる?
あなたを呼んでいるわ
あなたを呼んでいる
聞こえているんでしょう?
わたしがあなたを呼んでいるのが
喉の奥を震わせて歌うような、そんな真似はできない。それでも、覚えているメロディーと歌詞を、細く歌って、まだ眠っているみんなを起こさないように、静かに同じところを繰り返す。
紅茶が少し冷めるのを待ちながら、一番高い音を、やっと満足に出せるようになった時、ハインリヒの声と同じほどかすかな足音が、後ろからやって来た。
ぎょっとなって肩を縮め、歌っていた口元を掌で覆って振り向くと、ジェロニモが、少しばかりばつの悪そうな表情で、ハインリヒの隣りに立った。
おはようと、ふたりで言い合って、ハインリヒは歌っていたのを聞かれた恥ずかしさに、紅茶のマグを抱えて、さっさとキッチンから姿を消すことにする。
ジェロニモが気を悪くするかもと思ったけれど、根に持つような男ではないから、今だけのことだと、ハインリヒは、丸めた背中を、廊下へ向かって回した。
「コーヒー。」
その背中に、ジェロニモが声をかけた。
いかにも、もう部屋に戻ろうと、ずっと前から決めていたのだという風を装って、紅茶のマグの縁に唇を近づけながら、ハインリヒはジェロニモの声に足を止めた。
「薄すぎるなら、もっと濃くする。」
今はまだ空のコーヒーメーカーを指差して、ジェロニモが言った。
夕べの映画のことを言っているのだと、すぐに悟ってから、ドイツで飲むコーヒーよりも、ずっと薄いから、紅茶ばかり飲んでいるのかと、そう訊かれているのだと理解するまで、少し時間がかかった。
いや、元々紅茶は好きで飲んでいるのだと、そこまでは言わずに、首を振って見せる。
わかったのかわからないのか、ジェロニモはうなずいて、それから、あの映画の青年のように、うっすらと笑った。
「・・・今度、俺がコーヒーをいれる。」
たっぷりと濃い、香りだけで目が覚めそうな、そんなコーヒーを思い出しながら、ハインリヒは言ってみた。
ジェロニモの瞳がかすかに動いて、それは良いことだとでも言うように、あごでうなずく。
それに微笑みを返してから、ハインリヒはゆっくりとキッチンを出て行った。
映画の歌を、また細く口ずさんでいた。
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