Dripping Wet
明け方まで眠らずに、昼近くにやっと目を覚まして、もう互いに触れ合わずにはいられない気分を午後にも引きずったまま、髪を洗わせろと、突然ハインリヒが言う。シャワーは起き出した時に浴びて、その時に一度洗っていると言うのに、やっと乾いたその髪を、ハインリヒが触れながら洗わせろと言う。
ジェロニモは濃い眉を額のへ向かって軽く上げて、なぜと言う表情を隠さずに浮かべた。
「洗わせろ。」
唇の片端だけを持ち上げる笑い方で、重ねてハインリヒが言う。他の誰かに言われたなら、執拗にと、頭の中で付け加えたろう。
「君の好きにするといい。」
言い終わった瞬間、ハインリヒの唇がジェロニモの唇を、その語尾を吸い取るように塞いで来た。
何かの真似事でもしたいのか、ハインリヒはジェロニモを浴槽のへりへもたれ掛かるように、浴室の床に坐らせ、縁に首を乗せるように言い、浴槽の中へ頭を突き出す形に、そこでゆっくりと長い髪をほどく。底へ届く髪の先を軽く持ち上げて遊び、そうしながらずっと微笑んでいる。
上機嫌なのは間違いないけれど、ジェロニモは少々不安になっていた。
濡れてもいいように、上は裸だ。首の後ろや耳を探られて、胸の筋肉に緊張が走るのがはっきりと見えるだろう。
浴槽の固い縁に当たる後ろ頭が少し痛い。それでも、熱い湯が髪からじわりと染み込んで来るのが心地良く、髪を梳くハインリヒの指の動きをまぶたの裏で追いながら、ジェロニモはつい開き気味になる唇を軽く噛んだ。
ハインリヒは浴槽の縁に腰掛けて、体をねじってジェロニモの髪に触れている。シャワーヘッドを右手に持って、髪に湯を通すのは生身に見える左手だ。
こんなに長い時間が経った後でも、ハインリヒは右手で誰かに、あるいは何かに触れる時にはひどく気を使う。関節部分の合せ目にジェロニモの髪が引っ掛かるかもしれないのを気にしてか、そちらの手ではあまり乱暴に触れたりはしない。
とは言え、夢中になればそんな気遣いもどこかへ置いて、痛いほどジェロニモの髪を引っ張り、手の中に握り込む。そうされるのが、嫌いではないジェロニモだった。
互いに黙ったまま、髪を洗い洗われ、じきにシャンプーの香りがそこへ満ちる。湯のぬくもりの上へ、掌に出したばかりのシャンプーがひやりと重なる。ジェロニモは思わず肩を縮めて、それをハインリヒが上でくすりと笑った。
自分で洗う時には、少々絡もうが切れようが気にはしない。ハインリヒはそんなジェロニモのぞんざいさとは違って、あくまで優しくそっと手指を動かし、知らなければそれが機械や武器だとは信じられない繊細さで、ゆっくりとジェロニモの髪を扱ってゆく。
「痛くないか。」
指に絡むのを気にしながらか、ハインリヒが穏やかな声で訊いた。
いや、と目を閉じたまま短く応えて、ジェロニモはハインリヒの微細な指の動きに、ほとんど恍惚となりながら、床に投げ出していた足をさり気なく組んだ。
洗わせろと言われた時に、当然ながら想像したのは、一緒にシャワーを浴びることだったけれど、あえてこうして髪だけ──ほんとうに、髪だけ──洗っているのは、ハインリヒにとっては一種の前戯に違いなかった。
からかわれて、焦らされているのだと、ジェロニモは知っている。触れられる端から体温が上がり、今刺青が出ていないのはただ奇跡だった。3分後に、刺青だらけでないと言う保証はないけれど。
「案外濡れるな。」
肘までまくり上げたシャツの袖を気にして、ハインリヒがぼやく。たっぷりとジェロニモの髪に塗った泡を今度はしごき落としながら、自分の手指の泡も一緒に振り落として、シャワーヘッドをごろんと浴槽の底へ置き、さっとシャツをまくり上げて首から抜いた。
夜の間に、散々見つめて、触れて、時々噛みもした肌が、突然露わにされる。挙句、もう浴槽の縁には坐らず、
「こっちの方が楽だ。」
と言いながらジェロニモの前へやって来て腰をまたぎ、わざわざ覆いかぶさるようにして、浴槽の中へ腕を伸ばす。
鼻先に、右肩の装甲と人工皮膚の継ぎ目が触れそうに近づいて来て、目を閉じるタイミングを外してしまい、今はただ髪を洗われているだけなのだと、ジェロニモは胸の中で自分に向かって言い聞かせた。
この姿勢には覚えがあり過ぎる。腕を伸ばしてハインリヒの腰を抱き寄せて、まだ泡だらけの髪でここの床を濡らす自分を想像しながら、もう後先を考えるのもふと面倒になった。
髪に掛かる湯の熱さに現実に引き戻されて、床の上で両方の拳を握りしめて、ハインリヒに触れることには耐えながら、けれど自分の髪に触れるハインリヒの指先と、目の前を覆うハインリヒの胸や腹の皮膚の白さから意識がそらせずに、額から、顔と喉を通って腹まで一直線に、刺青の赤い線がすでに色濃く浮き出始める。刺青の線の走る様が、自分で見なくても、わずかなハインリヒの瞳の動きに見て取れた。
こんな風に堪え性のない自分を、ハインリヒは内心では笑っているのかもしれない。悪い意味ではなく、それでも可笑しそうに、自分の唇のわずかな上がり方ひとつに一喜一憂するジェロニモの心の動きを、ハインリヒは愉しんているのかもしれない。
それを屈辱と感じることはなく、自分はどうしようもなくこの男に溺れているのだと、ただ改めて思い知るだけだ。
泡をすすぎ落とす指先が、さっきよりも少し強くジェロニモの髪を引っ張り、そのせいで伸びた喉が、何度か意味もなく上下した。
そこに歯を立てたいと思っているのだろうと、下唇を舌先で湿したハインリヒの、頬に差したわずかな赤みで悟って、溺れているのは決して自分だけではないし、溺れたいと思っているのはこの男も同じなのだと、ジェロニモはやっと握っていた拳をやや開いた。
水の音が止まる。ハインリヒがジェロニモの髪をまとめてから絞り、垂れる雫を切ろうとした。
「もういい。」
洗っただけでは髪にきしみが残る。そう言い返そうとしたハインリヒを、ジェロニモは突然抱き寄せてそのまま抱え上げ、力任せに浴槽の中へ放り込んだ。
「おい!」
がつんと派手な音がして、痛みと抗議の声を上げるハインリヒの上へ、ジェロニモはそのままのし掛かってゆく。
ジェロニモひとりでも狭い浴槽の中は、ふたり一緒では手足も伸ばせない。
濡れた髪が肩や首にまといつき、そこからまだ滴る雫がハインリヒを濡らす。
「君の番だ。」
髪を洗うと、言いはしなかった。ジェロニモはただハインリヒを抱き寄せて、唇を塞いで黙らせ、刺青だらけの自分の体で、ハインリヒの全身を覆った。
ハインリヒの右手がジェロニモの髪を掴み取る。握りしめて、髪と一緒に手が濡れる。滴りが、ふたりの全身へこぼれ落ちてゆく。
触れ合っていなければ、生きた心地がしない。呼吸とは互いの唇の間を行き交うものだし、感じるのは互いの人工心臓の鼓動だった。人工血液の流れさえ分け合うように、近く躯を寄せ合って、こすれて血の色を上げるハインリヒの皮膚のその赤さは、まるでジェロニモの刺青の色を写したようだ。
ハインリヒが体の位置をずらし、浴槽の縁へ自分の頭を載せた。そこで伸びて晒された喉へ、ジェロニモはやわらかく歯を立てた。
夜がいつの間にか明けてしまったように、このまま午後も終わってしまうだろう。いつの間にか湿ってしまったハインリヒの髪へ指先をもぐり込ませながら、髪をきちんと乾かす暇はあるだろうかと、自分の髪の湿りを首筋に感じながら、ジェロニモは思った。