Fingernails To Claws



 リビングで本を読んでいると、いきなり目の前から本が消えた。
 本が宙に浮いたそこには、ジェロニモが立っていて、普段の彼には珍しいそんな行為に、ハインリヒは思わず目を丸くする。
 「中、ばっかり、体、悪い。外、行く。」
 開いていたページに、手近にあった小さな紙切れをはさむことを忘れずに、ジェロニモは、ハインリヒを見下ろしたまま、ぱたんと音を立てて本を閉じた。
 空になった手と、ジェロニモを交互に見て、ハインリヒは言葉もなかった。
 ひょいと、いつものように車椅子から抱き上げられ、片腕にしっかりと抱えられる。ハインリヒが落ちそうにならないことを確かめてから、ジェロニモは、ゆっくりした足取りでリビングを出た。
 「はい、いってらっしゃい。」
 フランソワーズが、にっこりと笑って、ジェロニモに向かって、大きなバスケットを差し出した。
 その隣りで張大人が、にこにこと手を振っている。
 「ワンタンスープも入ってるアル。楽しむヨロシ。」
 どうやら、自分の知らないところで、何か勝手に進行していたらしいと思い当たって、ハインリヒは、それでも反論せず、ジェロニモの腕の中で、おとなしくしていることにした。
 ジェロニモは、片手で器用にバスケットを開け、さっきハインリヒから取り上げた本を、そこに入れた。
 準備完了、そんな表情でハインリヒに軽くうなずいて、ジェロニモは、目の前のふたりに軽く手を振って---ハインリヒは、そうするには腕が足りずに、じゃあ、と小さく言うことにした---、ゆっくりと玄関に向かう。


 外は、いい天気だった。
 そろそろ昼近く、日差しは暖かく、風はない。
 ギルモア邸の前から東へ向かい、ジェロニモは、ほとんど人気のない森の中へ、ゆっくりと足を進めていた。
 落ちないように心配する必要はなかったけれど、それでもジェロニモの首に、左腕をしっかりと巻いて、ゆるやかに流れる風景を眺める。
 見上げると、木々の葉に小さく裂かれた青い空の断片が、まぶしい光を降りこぼしている。
 あの日、戦闘中の森の中で、右手足を吹き飛ばされた日、横たわった地面から見上げた空と、よく似ていた。不思議と、それを不快には思わない。
 たやすく、森や空の気配に溶け込んでしまうジェロニモに、こうして抱えて運ばれながら、いかにも機械じみた自分さえ、ジェロニモの一部として、森の空気にするりと入り込んでしまっているような、そんな気がする。
 頭上で、鳥が飛び、鳴いた。
 ぱしりと、時折、足元で、踏まれた枯れ枝が音を立てる。
 ゆっくりと20分も歩いた頃、視界が開け、そこに、小さな野原が現れた。
 真ん中より少し右側に、小さな木---それでも、枝の下に、ジェロニモがちゃんと立てるほどは、高い---が一本きり生えている。
 ハインリヒは、思わず息を飲んだ。
 「・・・こんなところが、あったのか。」
 思わず、ひとり言のつもりでつぶやくと、ジェロニモが、無言のままうなずいた。
 「外、出る。太陽、浴びる。体、喜ぶ。」
 その木に向かってまた歩き出し、ささやかな日陰の下で、ジェロニモは、ハインリヒを下ろした。
 木に寄りかかれる位置に、バスケットから取り出した大ぶりの毛布を敷き、そこにハインリヒを坐らせた。
 バスケットから、まるで手品のように、次々と皿やフォークや、様々な容器を取り出す。魔法瓶をふたつと、プラスティックのカップをいくつか並べて、また、ハインリヒの方を見た。
 「紅茶。スープ。」
 魔法瓶を指差して、言う。
 「・・・ワンタンスープが、いいな。」
 もう、遠慮もなく、ハインリヒは答えた。
 湯気の立つスープを注いだカップを手渡され、ジェロニモは、紅茶を自分のカップに注いだ。
 広々とした緑の空間に、空が青い。そう言えば、外の世界はこんなに明るかったのだと、上を見上げて、ハインリヒは改めて思った。
 大きな手で、ジェロニモが容器を開け、皿に中身を出す。
 張大人の作ったらしいシュウマイが、いく種類か、小さなサイズの春巻き、それから餃子。手でつまんで食べられる大きさなのは、ハインリヒが、片手で食べられるようにという気遣いに違いなかった。
 さっそく、カニシュウマイに手を伸ばす。
 まだほのかに温かいそれを、ゆっくりと咀嚼して、ハインリヒは、子どものように、少し油のついた指先を舐めた。
 ジェロニモが、かすかに笑みを浮かべて、そんなハインリヒを見ている。
 昔、もう、覚えてすらいない昔、家族で、ピクニックに行ったことがある。ちょうど、こんなふうに。
 サンドイッチや飲み物を詰めて、車で、街から少し離れたところへ。
 草の上に寝転がって、深く深く空気を吸い込む。思い出したように、サンドイッチをつまんで、そして、空を仰いで昼寝をする。
 両親がいた。ハインリヒは、まだ子どもだった。
 生身の、人間だった頃。
 春巻きに、醤油と辛子をつけて、口の中に放り込む。ジェロニモが、紙ナプキンを手渡してくれた。
 スープを一口、行儀悪く音を立てて、すする。
 目の前で、まるでキャンディくらいの大きさに見えてしまう、シュウマイをつまむジェロニモを、ハインリヒは、少しだけ罪悪感を混ぜて、眺めた。
 悪夢の後、揺り起こされて、ジェロニモがそこにいた。
 ベッドには戻らず、床の上で、夜明けまで抱き合っていた。涙は乾いても、恐怖は去らず、がたがたと震え続ける肩を、ジェロニモが、辛抱強く撫で続けていた。
 自分は、機械として壊れ、廃棄されるのだろうか。それとも、人間として、死ぬのだろうか。
 ジェロニモの腕の中で、ずっと考えていた。
 決して口にはせず、そんな問いを、馬鹿馬鹿しいと思いながら、それでも、とり憑かれたように、自分の中で、問い続けていた。
 機械なのか、人間なのか。
 どちらでもない、と別の声がする。
 体は、廃棄される。でも、心は、人間として、死ぬのさ。
 声は、あの、死神の声に似ていた。
 心は、いつ、どうやって死ぬんだ?
 馬鹿にしたように、声が答える。
 さあな、錆びた体の中で、いつまでもそのままでいるのかもしれない。何十年も、何百年も。
 やっぱりそうなのかと、ハインリヒは思った。
 人間らしい死を剥ぎ取られた機械の体は、人間らしいままの心を抱えて、機械の死を横たわる。
 機械の死。緩慢な死。廃棄の後の、ゆるやかな腐敗。それでも、土に還ることはなく、ゆっくりと形を崩しながら、いずれは鉄屑に成り果てる。
 そうか、とハインリヒは思った。
 醜悪な姿を晒す、死ですらない死。それが、サイボーグに与えられた、罰にも似た最期。
 罰?
 何の?
 俺たちが、何をした?
 それともそれは、科学に驕った人間たちへの、罰なのだろうか。
 人間の科学を、具現化してしまった故に、ハインリヒたちが被る、罰なのだろうか。
 そんなことを考えながら、ジェロニモの腕の中で、眠れないまま夜明けを迎えた。
 手足のない体。手足の修理を待つ体。
 俺は、機械だ。
 明るい日差しの中で、ハインリヒは、まるで人間のように、太陽を楽しみながら、仲間との時間を楽しみながら、ものを食べることを楽しみながら、そんな、人間らしい行為を、虚しいと思った。
 人間でも、ないのに。
 ジェロニモが、物思いに沈むハインリヒを、じっと見ていた。


 皿がきれいに空になると、デザートに、クルミの餡の入った中国菓子が次に現れた。
 木にもたれ、膝の間にハインリヒを坐らせて、椅子の代わりになりながら、ジェロニモは、その菓子をつまんで、ハインリヒに差し出した。
 「紅茶。」
 まだ熱い、ミルクのたっぷり入った紅茶も、鼻先に差し出される。それから、リビングで読みかけていた本が、やって来た。
 膝に本を置いて、片手でカップを持つと、残念ながら菓子を持つ手がない。仕方なく、まるで子どものように、ジェロニモの手に、そのまま噛みつくことにした。
 くすりと、彼にしては珍しく、ジェロニモが、その仕草に笑い声をもらす。
 ジェロニモの胸に背中を合わせ、足を伸ばす。
 こうして、世話をかけるうちに、ハインリヒは、すっかりジェロニモに対する、よけいな遠慮を失くしてしまっていた。今、こうして体を触れ合わせているように、心も、いつの間にか、隔てを失くしている。
 あの、悪夢を見た夜以来、特に。
 よけいなことは一切言わず、心を読んで、神経にさわらずに、行動する。まるで、空気のように。切り取られた森や空のように、風景に溶け込んで、いつもそこにいる。
 機械になって以来、人間らしさの部分が、醜悪さと滑稽さを増した自分とは、まるで逆だと、ハインリヒは思った。
 それは、ジェロニモの、インディアンの血のせいなのだろうか。
 自然と語り合い、自然に包まれ、自然とともに過ごす。同じ機械の体を持ちながら、ジェロニモの人間らしさは、少しもそのことで損なわれていないように、ハインリヒには思えた。
 だから、ジェットとは違う意味で、ジェロニモに魅かれるのだろうかと、ふと思う。
 まるで、失われた、人間らしさの半身を、恋うように。
 また、ジェロニモが、菓子を口元に差し出した。
 ぱくりとそれに食いついて、普段、そうとは意識せずに身にまとっている、ぴりぴりした神経のとがりが、すっかり消えてしまっていることに、ハインリヒはふと気づく。
 空から、暖かな太陽にぬくめられ、背中からは、ジェロニモの体温が、自分を包んでいた。
 自分の、冷たい機械の体を。
 紅茶を飲み干して、空のカップをそこに置いた。本を閉じ、それから、ジェロニモの胸の中に、体を伸ばした。
 空を見上げ、目を閉じた。
 また、涙が流れた。
 明るい太陽の下で、何の理由もなく、涙があふれた。
 悲しさが胸を満たしていたけれど、その哀しさがどこから来たのか、ハインリヒにもわからなかった。
 ジェロニモの両腕が、胸の前に回る。
 抱きしめられたのだと気づいて、その腕に、手を添えた。
 腕が滑り、大きな硬い掌が、頬の涙を拭った。
 拭われても、涙は後から後からあふれて、止まらない。
 子どものようにしゃくり上げて、ジェロニモの胸の中で、ハインリヒは、軽く体をねじった。
 泣き顔を、その大きな胸に埋めて隠そうとしたけれど、ジェロニモの腕が、それを止めた。
 「泣く、いいこと。」
 短く言われ、ハインリヒは、また、ジェロニモの腕の中に体を伸ばす。
 自分が、小さくなったように感じながら、こみ上げてくる不安と、自分がひとりではない安堵との両方で、またジェロニモの腕にすがりつく。
 ふと、髪に、優しく接吻された。
 「泣く、いいこと。」
 もう一度、ジェロニモが言った。


戻る