Fly Away

 良く晴れた日の午後、雲ひとつ見当たらない青い空が広がったその日、昼食が終わった後の居間が、やけに騒がしかった。
 ジェットとグレートとジェロニモが、何事か防護服を着て、裏庭の森を抜けて海の方へ行こうと相談している。
 コーヒーのお代わりのために階下へ降りて来たハインリヒは、声につられて顔を差し入れ、みんなの姿に驚いた。
 「何かあったのか。」
 グレートが肩をすくめて、おどけた仕草をして見せた。
 「この御仁が、空を飛べる最重量を試したいんだとさ。」
とジェットを指差して言う。
 「少なくとも、ジェロニモくらいは軽々運べるようにしてもらったんだ。」
 応えてジェットが、自分の爪先を指し示した。
 なるほど、それでこの顔ぶれかと、ハインリヒはジェロニモにちょっと視線を流し、
 「一緒に海に落ちるなよ。」
 ジェットに言えば、一瞬で得意満面な表情を浮かべて、
 「もうピュンマが先に海に行ってる。」
 なるほど、準備万端と言うわけだ。
 今度はハインリヒが肩をすくめ、
 「まあ、せいぜい頑張れ。」
 励ますよりは揶揄する口調で、注いだばかりのコーヒーを片手に、騒がしい居間をひとり後にした。


 自分の部屋に戻って、読みかけの本を開いてから、フランソワーズはイワンを連れて散歩に出掛け、ジョーもそれについて行ったに違いないし、張大人はきっと夕食の買い物だろうと気づいて、そうして、心の中で指を折って仲間の数を数えてから、自分がここにひとりであることにやっと気づいた。
 なんだ、俺ひとりか。
 しんとしたギルモア邸で、普段ならこの静けさを心ゆくまで楽しめるのに、今日は何となく本を読む心が、孤独だと言う気持ちの方へ傾いて、イワンの散歩はいつ終わるのだろうかと考えたり、ジェットの実験は後どのくらいだろうかと考えたり、落ち着かないまま本には結局集中できず、ほとんど口をつけていないコーヒーを冷めるままにして、取り残されたと言う気分に背中を押されるように、ハインリヒは部屋を出た。
 下へ降り、キッチンの裏口から庭へ出て、そこを突っ切って森へ入る。ジェロニモが、毎日小さな動物や植物の様子を見にパトロールする、早足なら5分ほどで抜けられる小さな森だ。そこを抜けてもう少し進むと、眼下に海の見える崖に出る。そこへいるだろうと見当をつけて、脳内通信機でわざわざ確かめることもせず、ハインリヒは少し背を丸めて歩き続けた。
 秋と冬の間の、まだ厚い上着はいらない、けれど汗ばむこともなくなった、ちょうどいい季節だ。森の木はほとんどが常緑樹で色は変わらないけれど、それでも見上げれば、夏の間には目に痛いほど鮮やかだった緑色が、今はほんの少し穏やかさを増している。
 多分、主にはジェロニモがつけた道をたどって、ハインリヒは森を抜けた。
 透かすように前方を見れば、小さく赤い人の姿が見えて、大きさからして、間違いなく崖に立っているのはジェロニモだった。
 そこから空へ視線を移すと、はるか海上に遠く、きらりと光る、何か素早く動くものが見え、あれがきっとジェットだろうと、ハインリヒは足を早めた。
 ありがたいことに、この辺りまでギルモア邸に含められた私有地になっていて、防護服を着てうろうろしていても、誰かに見咎められることはない。
 卒倒するほど地価の高い日本で、一体イワンがどうやってこの土地を手に入れた──少なくとも、書類上はイワンの祖父なっているとか言う、ギルモア博士の名義だ──のか、疑問に思いつつも、答えを知るのが恐ろしくて、誰かが尋ねたこともない。
 今は街までの道のどこかにいて、ベビーカーの中できっとすやすや眠っているのだろうイワンのことを考えて、ハインリヒはまた肩をすくめた。
 砂利を踏む足音に気づいたのか、ジェロニモがこちらを振り向いた。
 「来たのか。」
 「ひとりも退屈なんでね。」
 完全には嘘ではない答え方をすると、それを文字通りに受け取ったのかどうか、ジェロニモがハインリヒに向かって微笑む。
 何をどんな風に言っても、常にほんとうのところを見透かされているようで、ハインリヒはさっきまでの孤独感を思い出し、わずかの間居心地の悪い思いをひとり味わった。
 ジェットの、ジェット音がこちらに近づいて来る。ハインリヒはジェロニモのそばに立って、一緒に空を見上げた。
 「おまえさんも、もう一緒に飛んだのか。」
 青い空に、煙の筋が薄く渡るのを見たまま、ジェロニモがうなずく。
 「少しだけ。少し重い。」
 空を飛ぶジェットは、尾を引いて空を滑ってゆく彗星のようだ。なめらかに飛ぶ小さな光の軌跡を、煙が細く薄くたどってゆく。
 「海に落ちたわけじゃないだろうな。」
 崖を舐める波を覗き込むには、崖の端がそこからは少しばかり遠かった。ピュンマはどこにいるのか、泳いでる姿はここからは見当たらない。
 「少し上がって、すぐ降りた。ジェット、まだ少し無理。」
 降りたと言いながら、今いるこの崖を指差す。
 ジェロニモを抱えて、軽々と飛び回ると言うわけには行かなかったらしい。ハインリヒを抱えて飛び回ったことは何度もあるけれど、ジェロニモとなると、体の大きさもまったく違うから、そもそも抱き上げて飛ぶと言うわけには行かないのだろう。
 ミサイルやマシンガンなど、距離のある攻撃に適したハインリヒが、ジェットに連れられて空へ飛び上がる利点は言うまでもない。けれど、腕力を使う、むしろ接近しなければ攻撃にはならないジェロニモを、わざわざ空へ持ち上げる必要性は、あまりないように思えた。
 空を滑る光の速度が急に落ちた。まだこちらに戻って来る様子はなく、今度はのんびりと、まるで風船のように、ふわふわと空に浮かんでいる。
 光の点が、今は赤い輪郭をはっきりと現して、その隣りには、これものんびりを羽を動かす、白い大きな鳥が見えた。
 「あれはグレートか。」
 ハインリヒが訊くと、ジェロニモがうなずいた。
 グレートなら、鳥に変身してジェットに付き合える。空を飛ぶジェットは、飛びながらひとりではないのだと、ハインリヒは、ちょっとだけ空に向かって喉を伸ばした。
 それぞれの力は、自分だけのものだ。力を合わせてと言うのは、戦略上だけのことではなく、結局は孤独の為せる業かもしれないと、ふと考える。自分のできることを、他のみんなのために。一緒に、力を合わせて。そうして様々なことを乗り越えて来たのは、最後には自分が生き残るためだとしても、それでも、自分だけが生き残るためではなかったろう。
 みんなで。みんなと一緒に生き残るために。あるいは、最少の犠牲で、皆が生き延びられるように。
 不意に、胃の裏の辺りに張りついてしまって動かない小さな、けれど深い孤独の気配を、ハインリヒはまるで確かめるように、みぞおちの辺りを右手で撫でた。
 誰も、ひとりでは生きられない。
 俺は、ひとりで生きたくなんぞない。
 素直な自分の心の内の声を聞いて、ハインリヒは、見上げていた空からジェロニモへ視線を移し、ジェロニモがこちらに気づかないうちに、こっそりひとりで微笑んだ。
 「ジェットがおまえさんを運べないなら、俺が運ぶさ。」
 そう言うと、驚いた色を浮かべた後で、照れたようにジェロニモが笑う。つられて笑い返して、今度こそこちらへゆっくりと近づいて来るジェットとグレートに、ふたりは一緒に手を振る。
 「しかし残念だな、ジェットがおまさんを持ち上げられたら、一緒に空を飛べたのに。」
 一緒に、と言うのが、ジェットやグレートを指すのか、自分と一緒にと言う意味なのか、ハインリヒは付け加えるのをやめた。こちらに向いたジェロニモの微笑みが、ハインリヒの言いたいことはきちんとわかっていると言っているように思えたから、余計なことを言うのはやめた。
 ジェットの傍らの鳥──グレート──が、黄色いくちばしでにっこりと笑い、羽を揺らしてこちらに手を振る。誰かが見たら、仰天しそうな眺めだった。
 ちょうどその下辺りの水面が突然盛り上がり、ピュンマが姿を現した。頭上のふたりに向かって手を振り、そうして、この崖下を目指して泳いで来る。水面を叩く腕が赤く、後ろになびくマフラーの黄色が、空の青さにうっすら緑色の影を帯びる。
 皆が、こちらへ戻って来る。ジェロニモとハインリヒは、崖の上でそれを待った。
 「別に、空を飛べなくても、いい。」
 泳ぐピュンマを目で追いながら、静かな声が言った。
 自分ができることをすればいい。たとえば今こうして、戻って来る仲間を、ここに立って待っているように。
 「・・・そうだな。」
 応えて、ハインリヒはまた肩を小さくすくめた。
 悪いことじゃない。地面を踏みしめて、自分の足で進めれば、それでいい。
 ふたり揃わない肩を並べて、空と海を見ている。
 ジェットと鳥のグレートの姿が、もう掴めるほど近くに来ていた。
 ひとりじゃないと、ハインリヒは、空と海に見える仲間の姿を見て、それから、隣りにいるジェロニモをちらりと見てから、また思った。

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