The Graffiti

 何をぼんやりしていたのか、ガソリンが空に近いことに、大きな街を通り過ぎてから気づいた。
 距離は同じだけれど、手間の掛かる今回の仕事だったから、思ったよりも疲れているのかもしれないと思いながら、ハインリヒは次に通る町の大きさを思い出そうとする。
 そうして、その町にはいくつか小さな運送会社──家族でだけ回しているようなところだ──があることも一緒に思い出して、そこまで行けば、大型トラックの給油所もあるはずと思いつく。
 その町へ着くまでに大した時間は掛からず、町の中で少し迷った以外には、町中のどこへ行くにも20分も掛からなさそうな、それでも町並みを見れば、そこそこに大きな町だった。
 笑顔も特になく、無愛想なままだけれど、充分に親切に、探している場所への行き方を丁寧に教えてくれる町の人間に、ハインリヒ感謝しつつ違和感を覚えずにはいられない。
 町の中が、妙にすさんだ空気に満ちているのが、人たちの素朴な様子と不釣り合いに、示された方向へ向かうにつれ町の外側へ向かうのか、澱んだような町中の息苦しさから逃れながら、急に緑の増えた風景に、ハインリヒは知らずに目を細めている。
 緑の中に浮き上がるように、その辺りは小さな工場や車の修理工場や何かの作業場のような建物が、くすんだ色の肩を寄せ合い、いかにもさびれた風に立ち並んでいる。
 人の姿はあまりなく、小さなトラックがいくつか並んだ前庭を見つけた隣りに、ハインリヒのトラックがやっと入れそうな給油所があった。
 見るものと言って特にはない風景を、他に見るものもなく、ハインリヒはぼんやりと眺める。生気の感じられない空気に、ごく自然に唇の端が下がった。
 そうして、隣りの、大きくはないトラックの並んだ駐車場を見て、忙しいはずの今頃──現にハインリヒは、ここひと月ほとんど休みがなかった──トラックが暇そうにしているというのは、あまり景気のいい話ではないと、うっかり丸まっていた背中を意識して伸ばしてから、そこからゆっくりと視線を外した。
 こんな小さな町こそ、不況の影響はより大きいのかもしれない。
 町中の空気の悪さはそのせいかと思って、ガソリンがトラックのタンクに流れ込む音に耳を傾けて、気づいてしまったそのことから、意識をそらそうとする。
 仕事の途中で偶然立ち寄る羽目になったこの町で、自分がよそ者なだけではなく、この町全部の敵になったような気がした。
 自分のしている仕事は、どこかの誰か──例えば、この町の誰か、あそこに止まっているトラックの運転手──から奪われたものなのかもしれないと、考えても仕方のないことを考え始める。ハインリヒは自分の手元に視線を落としたまま、そんなことを考える自分を嗤うことにした。
 誰かが勝つために、誰かが負けなければならない。世界ができるだけ潤うために、勝者よりもむしろ、敗者の方が慎重に選ばれる。
 傲慢に、その敗者を選ぼうとした祖国の過去と、そのことによって、敗者の烙印を永遠に押される羽目になった自分たちのことを、どんな時も、誰かが必ずそれが世界の──あるいは、"自分"たちの──ためだと信じていたことの滑稽さと一緒に、笑ってしまおうとする喉の奥に、苦さだけがこみ上げて来る。
 生身ではなくなった後も、そうした苦さは決して忘れないことこそ、何より滑稽だった。
 ガソリンの匂いの混じる空気は、否応なしに自分の体の内部のことを思い起こさせる。歯車が回り、色とりどりのコードが絡まり、軽くて丈夫な金属で支えられた、機械の体。自分が今乗ってるトラックの方が、中身はきっとよほど人間らしく見えるだろう。
 見た目よりずっと長く生きているハインリヒが経験したことのある惨めな時期は、何もこれが初めてではない。不況という言葉はいつだって身近にあったし、いつだって貧しい人間たちはいた。
 けれど、その貧しさは、その前の時よりも少しずつ陰惨さを増しているように、ハインリヒには思えた。
 惨めさが増し、そこで人は生き延びるために尊厳を捨てて卑しさに身を売って、生活の貧しさは、人の心も貧しくする。以前よりもずっと、人の心こそがまず貧しくなっているように、ハインリヒには感じられた。
 それでも、自分のような人間──人間?──に、微笑みかけてくれる誰かがいる間は、きっとまだ救いがあるのだろう。
 救い、と思ってから、心の端に何かひらめいたものがあったけれど、それを影を追うことはせずに、ハインリヒはガソリンを止めて、給油のホースを元に戻した。
 金を払うために体の向きを変えた時に、トラックの駐車場の後ろにある会社らしい建物の、さらに後ろに、レンガの壁がかすかに見えた。
 どうやら、この辺りでは一際古い建物なのか、丁寧に積み上げられた煉瓦のあちこちの端が、すでに朽ちかけているのが見える。
 まるでその静かな崩壊の様に抗うように、白いペンキがぺったりと、赤茶のざらついた風合いに、まるきり不似合いな線を描いていた。
 街中を飛ぶようにさまよっては、どこかに絵の描ける壁を探す無法者──あるいは、芸術家──が、ここにもいるらしい。
 彼らの気概を、ハインリヒは必ずしも不快には思ってはいないけれど、他人の家のドアに、ただ塗料を投げつけるようなその行為を、好意を持って受け入れているわけでもなかった。
 自己主張なら、他人に迷惑を押しつけるものではないと、どれほど描かれた絵を気に入ろうといつも心の片隅で思う。
 ふと視界に入ったその線の連なりに、細めた目を凝らす。
 壁いっぱいに散らばったその線の描く形を見極めようと、ハインリヒは無意識にあごを引いて視界を広げようとした。
 やたらと曲線が重なり、重なった部分の線の交わりにも、きっと何か意味があるのだろう。残念ながら、ハインリヒにそれを読み取ることはできず、それはハインリヒ自身のせいと言うよりも、描き手の技量のせいに思えた。
 それでも、じっと眺めているうちに、目が何となく形をとらえ、描いた人間がそう見て欲しいと思ったのかどうか、何か人の顔のようなものが見え始める。
 ああ、目かと、そう思った瞬間、壁にべったりと塗られた白い線に、陰影が生まれ表情が浮かび、そうして、それは煉瓦の色合いのせいだったのか、たちまち見知った顔に変化した。
 赤みの入った、浅黒い肌、そこへ刻み込まれた白い線、そうして、その中でひときわ澄んだ色を浮かべる、濃い茶色の瞳。その瞳はいつも、静かすぎる表情を浮かべて、その底に、この世界へ向ける憤りを秘めているように見える。
 ジェロニモの顔だ。
 そう思えば、もう目が離せず、ハインリヒは鼻や口の位置を確かめ、耳の流線を加え、そこにさらに、あの奇矯な髪の形をきちんと乗せて、視界の中にすっかりジェロニモの顔を収めてしまった。
 壁に描かれたジェロニモの顔。久しく直には会っていない、大事な友人──と、心の中ではそう思う──の顔。
 忙し過ぎて、家に戻っても留守電のメッセージも確かめないまま、倒れるように自分のベッドで、久しぶりのまともな眠りを貪る。それが精一杯だった。目が覚めればまたトラックに飛び乗って、読みかけの本をまた置いて来てしまったことを思い出すのは、ふたつ目の町に、荷物を下ろして次へ向かう途中でだ。
 この町を出る前に、どこかでポストカードを買って、郵便ポストを探そうと心に決める。
 幸いに、住所録は荷物の中に入っている。もっとも、書き出せば、指先がきちんと覚えている住所だった。元気だと、ただひと言書き記せばいい。
 少し休んだ方がいいと、そんな声が聞こえた気がした。
 ここで待っていてくれたのだろうか。ハインリヒをいたわるために、ハインリヒの足を少し引き止めるために、ここでじっと待っていてくれたのだろうか。
 この仕事が終わったら、少しの間休みを取ろう。冷蔵庫に、料理ができる程度の食料を詰めて、読みかけの本をゆっくりと読んで、部屋の空気をきちんと入れ替えて掃除もしよう。洗濯が終わったら、お茶のついでにソファで昼寝をしてもいい。
 それから、電話をしようと思った。ジェロニモの声を聞くために、元気だと伝えるために、そして、言葉にはせずに、ありがとうと言うために。この町で出会ったこの絵のことが、改めて電話をするいい口実になる。休みを取って、穏やかに落ち着いた気持ちで、ジェロニモに自分の声を聞かせて、ジェロニモの深くて優しい声に耳を傾けよう。
 何よりも、自分自身のために。
 壁の絵に向かって微笑んで、ハインリヒはやっと足を前に出した。
 来た時よりも軽くなった足取りで、自分のトラックを振り返りながら、その向こうへ見える青い空にも、ついでのように微笑んで見せた。

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