Hand On Heart
少しばかりメンテナンスが複雑になるからと、外された右腕はまだ元に戻らないままで、ほとんど首の付け根から胸が縦に半分、えぐり取られたように、着ている服は全部そこがだらりとぶら下がって、だから珍しく、外出が必要な時は生地の固いGジャンを羽織っている。不便なことは間違いない。張大人とフランソワーズが気を使って、食事は片手だけでできるようにしてくれるし、他のことはすべてジェロニモがぴったりと傍にいて面倒を見てくれるけれど、それでも、シャツのボタンひとつ自分でとめられないと言うのは単純に業腹だ。
2週間くらいじゃよ。申し訳なさそうにそう言ったギルモアの言葉を信じて、ハインリヒは、1日を読書と散歩で過ごしている。本をいちいち置かなければ、ジェロニモが淹れてくれた紅茶も飲めないのが、やはり業腹だった。
不機嫌顔でばかりいるわけにも行かないから、ひとりになるために散歩に出る。たまには気が向いて、そのまま街に出てしまうこともあった。それでも大半は、人目を避けて裏の森へ行き、迷わない程度にあちこち歩き回って、時々ひとり言を声に出しながら──主には、右腕がないことの愚痴と文句だ──、乱暴に歩くハインリヒの足音に驚いて小さな動物たちが躯け去って行くのを、驚かせてしまったと後悔しながら見送る。
散歩から戻ると、ジェロニモがいつもキッチンで出迎えてくれる。こちらを向いて、お帰りと小さく言いながら、いつも微笑んでいる。散歩から戻ったハインリヒが、それでも多少は機嫌の治った風に見えるのか、どこか安堵したような、嬉しそうな、そんな笑みを浮かべてハインリヒを迎えて、それから紅茶を淹れてくれる。その紅茶を待ちながら、また読みかけの本へ戻る。
ハインリヒは、そうやって自分の右腕が戻って来る日を数えて、時間をやり過ごしている。
できることとできないことを、別々の場所に、頭の中で書き連ねるのにそろそろ飽き始めている。
シャワーを浴びるために服を脱ぐのを、手伝うジェロニモの手を黙って止めた時に、様々な辛抱が切れた音をはっきり聞いた。
ハインリヒは、そのままの位置で手を止めて、次はどうしたらいいのかと自分を窺っているジェロニモの肩を、後ろに向かって強く押した。
3度押した先にベッドがあって、腰掛けられる位置へ来ると、最後にもっと強く押す。どさりとベッドの端へ腰を落としたジェロニモに、まずは片膝でのし掛かってゆく。
いつもは、ジェロニモにベッドに運ばれ、ジェロニモの手で何もかも脱がされる。今夜は、そうしたくなかった。自分でできないことだらけに嫌気が差して、こんなことくらい、誰かの手を借りる必要もないと、むやみに証明したくて仕方なかった。
ハインリヒの、迷いはなくても決して器用には動かない左手の先を読んで、ジェロニモはハインリヒの腰を抱え込んで、完全にベッドに上に上がった。
シャツのボタンを外そうとすれば、ハインリヒの好きにさせて、ボタンには触れない。シャツの端をただ軽く引っ張って、さり気なくハインリヒの手を助けるだけだ。
ベルトを解くのは、意外と簡単だった。けれどジーンズの前立てには、シャツのボタン以上に苦労する。生地の固さのせいで、ほとんど指先には添って来ず、悪戦苦闘の末にハインリヒの額に汗が浮かび始めると、さすがにジェロニモが苦笑を浮かべて体をそっと起こした。
暴れ回る小さな動物でもなだめるように、ジェロニモの両腕に抱きしめられて、数瞬憮然と唇をとがらせた後、ハインリヒは片腕でジェロニモを抱き返した。
それがようやく、少しばかりは諦めたという合図で、それでも、服を脱ぐジェロニモを形ばかりは手伝って、自分の服も、何とか自分で脱ごうとはしてみた。
片腕では、揺れるベッドの上ではうまくバランスも取れない。ジェロニモは、片手でハインリヒを支えて、慣れた仕草で服を剥いだ。そうするたび、ハインリヒの左手がとても良い助けになると、表情に言わせるのを忘れない。
負けたのだとは決して思わずに、ハインリヒは降参だと照れ笑いを薄く浮かべて、残りは全部ジェロニモの手に委ねた。
まるで能無しのお荷物だと、自分のことをそう思っていた──残念ながら、事実ではある──のに、少しばかり見方を変えて、上げ膳据え膳だと思った途端に、気が楽になった。
忌々しいことに変わりはなくても、深刻にならずに気持ちが軽くなるなら、明るい方へ目を向けた方がいい。
ジェロニモが、ハインリヒの左手を取った。今はない右手ほどはうまく使えないその手を、下腹に導いて、触れさせる。自分の掌も重ねて、そこへ触れることよりも、むしろふたりの掌が触れ合うことの方が目的のように、ハインリヒの不器用な触れ方には一切何も言わず、こうだと示すこともまったくせず、ただそこで、ふたり分の指先が、絡まるように重なり合っていた。
触れるのをハインリヒの左手に任せて、それはもちろんいつもより拙(つたな)くて、それでも、ジーンズのボタンを外すよりはずっと上手く行っていた。
息を飲む音がずっと深くなり、今度はジェロニモの額に汗が浮き始めた。
自分の左手に、そろそろ落第点をつけようかどうしようか迷っているハインリヒを、ジェロニモが不意に自分の膝の上にすくい上げた。
後ろへ反った背中にジェロニモの大きな掌が当たり、ずっと近くに抱き寄せられたと思ったら、ずるずるとシーツの上を滑って、ヘッドボードに背中が当たる位置まで移動させられた。
背中とヘッドボードの間に、太い腕がするりと入り込んで、それから、下から突き上げる形に突然躯が繋がる。
馴染んだやり方ではあっても、慣れた姿勢ではない。自分の体の重さがコントロールできずに、不安定な体勢を、ハインリヒはジェロニモにしがみついて支えようとした。
両脚を縮め、曲げた膝の間にジェロニモの腰を挟み込み、それから、左腕は目の前の首に巻きつけた。ジェロニモでなければ、そうやって締め付ければ痛めつけかねな強さだった。
ベッドが、ひどい音を立てる。ふたり分の体重はすでに過負荷だったし、この上揺らせば、いつ足が折れてもおかしくないほど、ベッドが悲鳴を上げている。
両腕が揃っていれば、とハインリヒは思った。声を耐えながら、両腕ともあれば、もう少しうまく自分の体を支えられるのにと、ジェロニモの首に必死でしがみついて、ただ揺すぶり上げられるのに躯を添わせるのに精一杯だ。
そう思いながら、どう必死になっても、ジェロニモへすべてのし掛かる体の重みのせいで、繋がる躯がいつもより深い。馴染みのない姿勢のせいで、添う位置も角度も違う。
怪我の功名と、文字通りそのままが思い浮かんで、深刻さのかけらもない自分のことを、ハインリヒは内心で笑った。
ジェロニモの腹にこすられて、自分のそれはわざわざ触れる必要もない。躯の近さが、背骨から脳天へ突き抜けてゆく。
今は弾力のある、ほとんどゴム状の人工皮膚に簡易に覆われた右胸の辺りから、揺れるたび、カラカラと音がするような気がした。小さな部品が、振動のせいで緩んで外れて、人工皮膚の下で転がり続けているような、そんな気がした。
強く押さえつければ、複雑に組み合わさった回路や歯車が、皮膚の上にくっきりと輪郭を現す。そこへ、首筋から唇を滑らせて、ジェロニモがそっと唇を押し当てた。舌先が、コードの流れや小さな部品の形をはっきりととらえた感触に、ハインリヒは身震いで応えた。
気がつけば、ないはずの右腕を動かして、両腕でジェロニモを抱きしめようとしている。
左腕だけでも構わなかった。けれど、両腕ならもっといい。両手とも揃えば、もっとうまくジェロニモに触れられる。それでも今、その右腕をハインリヒは持たない。代わりに、ジェロニモが、これ以上ないほど近くハインリヒを抱きしめていた。
片腕だけでできることもあれば、両腕が必要なこともある。少なくともこれは、ひとりきりではできないことだ。それに、ジェロニモが自分の両腕──だけではなく、全身で──を差し出して付き合ってくれることに感謝しながら、少なくとも今は五体満足なジェロニモに嫉妬して、ハインリヒは素直に目の前の首筋に噛みついた。
ふと、片腕のジェロニモを想像した。バランスの悪い自分の体と違って、なぜか欠けていてもジェロニモはいつものように揺るぐ様子もなく、あらゆることを片腕のままやってしまいそうな、そんな気がした。
たとえ自分でできることであっても、ジェロニモは多分、ハインリヒがそうしたいと言うなら、様々な手伝いをさせてくれるだろう。この大きな指先で、一体どうやって扱うのかと思うような小さなボタンを、ハインリヒに任せて、自分ならもっとうまくできることでも、きっとハインリヒにやらせてくれるだろう。
できることとできないことを、素直に受け入れるのは、ハインリヒにはひどく難しいことだった。改造されてしまった自分と折り合うために、山ほどの屈託と鬱屈を飲み込んで、それでも相変わらず、例えば右腕のない自分は受け入れがたいのだ。
何度も洗われてすっかり体に馴染んで、生地の柔らかくなっているネルのシャツの右腕が、ひらひらと平らに揺れている。ジェロニモは、そんなことには気づいてもいない風に微笑んでいる。強がりや虚勢や、そんなものは微塵もなく、ないならそれはただそうだと言うだけのことだと、左手でシャツのボタンを外し、フォークを使い、助けが必要ならそれを求め、ジェロニモならそうするだろう。卑屈さなどなく、こちらにも感じさせず、できることはできると言い、できないことはできないと言う。ただそれだけだ。
たとえ片腕になっても、ジェロニモは軽々とハインリヒを抱き上げるだろうし、心臓の重なるほど近く抱きしめてくれるだろう。同じことだ。だからハインリヒへも、気の毒にと言う視線を滑らせたりはしない。
他人は、自分を映す鏡だ。自分を憐れむことは、他人を憐れむことだ。他人への慈しみはあっても、憐憫はないジェロニモを、自分はどういう風に映し返しているのだろう。
片腕がないのは、悲しいことではない。ただ、淋しいことだ。だからこんな風に、抱きしめて抱き返してくれる誰かが目の前にいるのは、自分を憐れまないために必要なことなのだと思った。
自分で自分を抱きしめられないから、抱き返してくれることを望んで誰かを抱きしめる。両腕であろうと片腕であろうと、あるいはいっそ腕なんかなくても構わない、誰かが自分を抱いてくれるなら、それは自分がその誰かを抱きしめていると言うことだ。
体を伸ばして、腕を一度掌まで滑らせた後で、ハインリヒはその腕を改めてジェロニモの首に巻きつけ直した。前よりももっと近く、けれど優しく。ハインリヒの心を読み取ったように、背中に回ったジェロニモの腕にも、わずかに、穏やかに力が入った。
頬同士が触れ合い、そうして、ジェロニモが微笑んだ気配が伝わって来る。それに応えたように、ハインリヒも微笑んでいた。重なった微笑みが、ふたりの口辺で、いっそう深くなった。