Hold You Holding Me



 ふと、口にしてみたくなった。
 どれほど親密さを分け合おうと、口数の少なさは変わらないふたりだったから、たとえば、同じ枕に頭を並べて、つい舌先が滑らかになるということもなく、見つめ合うことや、腕を伸ばし合うことが、それを補って余りあるとでも言うように、相変わらず、おしゃべりというものをしないふたりだった。
 知っていたつもりで、久しく忘れていた、躯で語るということを、汗に濡れた人工皮膚の下で思い出しながら、奇妙な充足感と満足感が、いつもよりもいっそう口を重くする。
 語るべきことは、すでに伝えてしまったような、そんな気分になってしまう。
 それは恐らく、互いに分かり合ってしまっている、ということなのだろう。
 確かに、時間だけは、遠くへ過ぎ去っている。言葉を通さずに、互いのことを識るには、充分な時間の長さだった。
 こうなったしまった後さえ、甘さというものの、一向に芽生えてこない間柄ではあったけれど、それはおそらく、ふたりが頼り合う場所が、常に戦いの場であるせいなのかもしれない。
 まるで、ひとらしさの残骸を持ち寄って、一緒に抱え込んで、大事に大事に、守ろうとしているようにも思えた。
 けれど、ひとらしさにこだわっているのは、実のところ自分だけのことで、あちらは---ジェロニモは---何がどうなろうと、それはそれと、自身をむやみに否定することもなく、無茶な肯定もせずに、何もかもを在ることとして、ゆったりと飲み込んでいるように、ハインリヒには思える。
 だから、訊いてみたくなった。
 なあ、と声を掛けると、闇ににじんだ顔が、こちらにゆっくりと向いた。
 まだ眠そうには見えず、そちらに、ずっと肩を滑らせて、ハインリヒは、いつもの普通の声を出した。
 「なあ。」
 また呼び掛けると、目が細まる。そこに視線を当てて、ハインリヒは、訊こうと思っていたことを、口にする前に、もう一度心の中で反芻する。
 ジェロニモと抱き合うと、自分がひどく小さく思える。
 育ち切ってしまっている大人の体が、小さいわけもないけれど、人並み外れて大きなジェロニモの前では、ハインリヒもまるで子どものようで、だから、手足を丸めて、その大きな胸の中におさまってしまうと、憶えているはずもない、母親の体の中を思い出す。
 長い腕にくるまれて、心臓の音を近くに寄せて、ふと、自分の体が生身に還ったような、そんな錯覚すら覚える。
 誰もが、時には、誰かに抱きしめられたいと思うのだろう。それは、欲情ではなくて、ただ肩や背中に回る腕に、昔、確かにそこにあった、体温にも似た安らぎを、思い出したいだけなのだ。
 けれど、大人になってしまえば---そして、ハインリヒは、サイボーグだったから---、そんなことを迂闊に口にする機会もなく、下手な誤解を招かないことが分別だとでも言うように、むっつりと口を閉じて、抱きしめて欲しいだけだとは、そんな素振りも見せはしない。
 だから、ジェロニモの腕の中に背中を丸めて、そこで憩えることを、この上もなく恵まれたことだと思いながら、自分だけが、その恩恵に預かっているのだということが、時折、ひどく心苦しい。
 おまえさんはどうなんだ。
 そうやって、率直に、問い質してみたかった。
 その大きな体を、誰かに抱きしめて欲しいと、思う時はないのかと。
 子どものように、手足を丸めて、そこから先には何もなく、ただ、抱きしめてくれるだけの腕と胸を、必要としているのだと、感じることはないのかと。
 ジェロニモには、短すぎる腕と、小さすぎる胸と、自分の体を眺め下ろして、ハインリヒは、苛立ちに唇をとがらせる。自分の体では、足りない。必要なのは、すっぽりと包み込める体だ。
 躯を重ねることに繋がらない、ただ、抱きしめて、抱きしめられるということ。
 それを欲しているのは、自分だけなのだろうか。
 呼び掛けた後、何も言えなくなって、ハインリヒは、代わりのように、ジェロニモの頬に手を伸ばした。
 親指を、頬を中心に縦横に走る、白い線に沿って滑らせ、そこから何かが伝わってくるのを待つように、ハインリヒは、続く言葉を探しながら、親指を動かし続けていた。
 ジェロニモが、まるで喉を撫でられた猫のように、目を細め、少しだけ肩をすくめる。
 それに励まされたように、ハインリヒは、体の下から抜き出した右腕も伸ばして、まるで壊れものを扱うように、ジェロニモの頭を、自分の胸に抱き寄せた。
 乱れたシーツの上でずらした体のせいで、ベッドがぎしりときしむ。その音に、ほんの少し驚いて、肩を縮める。心臓の動きが、急に速くなったのは、そのせいで、ジェロニモを抱きしめているせいではないのだと、自分に言い聞かせる。
 鎖骨の下辺りで、ジェロニモが、戸惑ったように、上目にこちらを見ようとしているのが、瞼の動きでわかる。ゆっくりとした瞬きの後、ジェロニモがそこで目を閉じたのを感じて、ハインリヒは、聞こえないように、そっと深い息を吐いた。
 ジェロニモが、どれほど背中を丸めて、手足を縮めても、ハインリヒの胸の中に、すっぽりとおさまるはずもなかったけれど、少なくとも、拒まれなかったことに勇気づけられて、ハインリヒは、両腕にもう少し力を込める。
 ジェロニモの腕が、ハインリヒの腰の辺りに乗った。
 そうやって、抱き合って眠ることを、ひどく人間くさいことだと思って、まるで口づけるように、ジェロニモの頭に、唇を押し当てた。
 それは、ハインリヒの自己満足でしかなかったけれど、真意はきっと伝わっているはずだと、それが、ジェロニモへの甘えなのだとは気づかないまま、ハインリヒはうっすらと微笑んだ。
 抱きしめて、抱きしめられて、眠るための呼吸がふたつ、ゆっくりと重なって行った。


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