I Don't Know Anything



 みぃと、足元で声がした。
 肩を回して足元を見下ろしても、どこに何がいて、鳴き声を上げているのかよく見えず、驚かさないようにゆっくりと、床に向かってしゃがみ込む。
 小さな猫が、とことこと、ジェロニモの真正面に姿を現した。
 赤ん坊というほど小さくはないけれど、生まれて4、5ヶ月というところか、体の長い、やせた猫だった。
 目と耳ばかり大きく、薄いグレーの地に、なすったように、薄茶色のぶちが広がっている。首輪はないけれど、野良猫とも限らない。自分を見下ろすジェロニモを臆しもせずに見返して、みゃあと、まだ牙の小さい口を開ける。
 頭を撫でようと、大きな手をそっと伸ばすと、驚いたように、首をすくめ、逃げるような素振りを見せたので、伸ばした手を宙で止めて、また、ただ見つめ合うだけにした。
 猫は、手の届かない位置にまで、あとずさろうかどうか、迷うように首を振って、それから、ジェロニモが、伸ばしていた大きな手を、床近くにまた下ろしたのを見て、完全には警戒を解かない様子で、そこにとどまった。
 治安がどうのと、気にしたこともないから、昼間は時々、家のドアを開けたままにしておくことがある。きっとそれを見つけて、中に入って来たのだろうと思いながら、猫が気に入るような何も、ここにはないことを、ほんの少し申し訳なく思う。
 猫がまた、みぃと鳴いた。
 腹を空かせているのだろうか。それとも、どこか柔らかなところに寝そべりたくて、中に入って来たのだろうか。
 まだ警戒したまま、けれど自分をじっと見上げる猫と目を合わせ、ジェロニモは、うっすらと笑って見せる。
 今度は、もう少し口を大きく開けて、みゅうと鳴くと、濡れて光る鼻先を、こちらに向かって持ち上げる。
 それに向かって、じれったいほどゆっくりと、手を持ち上げて、指先を差し出した。
 大きな、太い指先の匂いを嗅いで、猫が目を細める。金色に見えるほど淡い、緑色の瞳は、濡れて、きらきらと輝いていた。
 おどかさないように、注意しながら、指先で鼻に触れる。それから、額に伸ばして、頭と首の後ろを撫でてやると、猫は、さらに警戒を解いて、掌に向かって、首を伸ばしてきた。
 撫でていた手を下ろすと、しゃがんだ膝に、丸めた背をすりつけてきて、尻尾を伸ばしたり丸めたりしながら、足元を歩き回る。そうしながら、思わせぶりに、大きな瞳で見上げて、切なそうな表情を見せる。
 なつかれているのだと思えば、悪い気はしない。
 こうやって、人を乗せるのが猫の手だと知っていて、けれど逆らえるわけもなかった。
 ジェロニモは、時間をかけて、床からゆっくりと立ち上がり、猫が足元から逃げないのを確かめて、またゆっくりと肩を回した。
 キッチンの戸棚を開けて、滅多と使わないけれど、買い置きのある缶詰類の中から、目当てのものを見つける。
 大きな手に取れば、小さく見えるツナの缶を、キッチンのカウンターに置いて、缶切りで、キリキリと上の部分を開ける。
 その音を聞いた途端に、猫が、みゅうみゅうとうるさく鳴き始め、ジェロニモの足元を、体をすりつけながら歩き回るだけではなく、伸び上がり、前足で、催促するように、ジーンズのふくらはぎを引っかく。
 一体、どれほど食べるだろうかと思いながら、とりあえず1/3ほどを小皿に出すと、山の大きさが頼りなく、思い切って、半分強を缶からかき出した。
 ツナの浸っていた汁も、その山に注いでしまって、皿を床に置いてやると、さっきの警戒心は一体どこへやら、さっそく鼻先を突っ込んでくる。
 みゃうみゃうと、うるさく声を立てながら、まるでブルドーザーのように、ツナの山を崩してゆく。
 それを下目に眺めてから、残ったツナの処分のためと、少し遅い昼食のために、簡単にサンドイッチを作ることにした。
 ジェロニモの掌に比べれば、それの半分ほどしかない食パンに、バターを薄く塗り、残りのツナを半分ずつ乗せ、塩と胡椒を軽く振って、小さなサンドイッチを、ふたつ作る。
 きちんと皿に乗せて、パンくずが床に落ちないように、皿を腹の辺りに支えて、猫がツナを食べるそのすぐ傍に立ったまま、行儀悪くサンドイッチにかぶりつく。
 猫が、下で忙しくツナをかき込んでいるのとは対照的に、ゆっくりとパンとツナを咀嚼して、よく動く、小さな頭と大きな耳を、眺めながら薄く笑う。
 皿の外に、ツナをこぼしながら、それも必死で追い駆けて、夢中になって食べている。
 やはり、野良猫なのだろうかと思って、自分を見上げ、汚れた鼻や口元を、小さな舌で舐めている猫を見下ろした。
 前足で顔を洗い始めた猫のために、ツナのきれいに消えた皿を片付け、さらに、別の皿に、ミルクをほんの少し注いでやる。
 顔の前に運んでやると、また必死の形相で、皿を持ったジェロニモの手に、催促するように前足をかけ、床に置く前から、さっさと鼻先を突っ込み始める。
 ミルクをこぼさないように気をつけながら皿を置いてやると、ミルクは、あっという間になくなった。
 丁寧に、皿のすみずみまで舐め、ミルクに濡れたひげと、口の周りを舐め、ようやく満足したらしい猫が、ゆっくりと伸びをしたのを見定めて、ジェロニモは、猫が汚した皿と、空になった自分の皿を、ゆるく流れる水の下で、きれいに洗った。
 濡れた手を拭きながら振り返ると、猫の姿はもうそこにはなく、空腹が満たされて、もう出て行ってしまったのかと、知らずに肩が落ちる。
 手を拭いたタオルを、元の位置に戻して、いつもよりさらに、足音を落としてリビングの方へ行くと、ソファの上で、毛づくろい中の猫がいた。
 薄い灰色に、なすったような茶色のぶちの毛を、ジェロニモのことなど、気にもかけない風に、手足を大きく伸ばして舐め、まるで、もう何年も前から、この家に、自分と一緒に住んでいるのだと、一瞬錯覚しそうになる。
 そのソファに、そっと近づいて、コーヒーテーブルから、読みかけの本を取り上げながら、猫が逃げないことを確かめて、その傍に、ゆっくりと腰を下ろす。
 猫は、不思議そうにジェロニモを見上げ、また、みいと鳴いてから、体を丸めて、ソファに寝そべった。
 揃えた前足にあごを乗せ、目を閉じ、こちらに丸めた背中を向けて、そこで本を読みたいなら、勝手に読めばいいと、そんな風に言っているように見えた。
 猫の許可を得たらしいと、ジェロニモは、膝の上に本を開き、右手を、猫の背にそっと乗せた。
 掌に触れる、骨張った背骨と、少しごわごわした毛並みに、ほんの少しだけ心を痛めながら、ページの上の字を追う。
 ひとりと1匹は、そうやって、その日の午後を過ごした。


 部屋に入ってくる光の量が減り、そろそろソファから立ち上がろうかと思い始めていた。
 買い置きのツナ缶は、もう1缶残っている。ミルクも、まだある。明日の朝、街に出て、猫用の缶詰を買って来ようと心に決めた時、猫が起き上がって、大きくあくびをした。
 ジェロニモの方へ、肩越しに振り返って、一度みゃうと鳴いてから、とんと床に降りる。
 そのまま、尻尾を高く上げて、表のドアの方へ歩いてゆく。
 また振り返り、みゃうと鳴いて、前足で、ドアの方を指し示した。
 読んでいた本を置き、猫の方へ歩いてゆく。
 小さな前足で、ドアを引っかいているのを見て、出て行くのだと悟った。
 何か、言うべきだと思ったのに、猫の、奇妙に意志の強そうな瞳の色に押され、ジェロニモは、無言のまま、ドアを開けてやる。
 猫は、するりとドアから滑り出して、跳ねるように、歩き去ってゆく。
 振り向くかと思ったのに、猫は、小さな体を、音もなく滑らせて、前庭を抜けて、どこへともなく立ち去った。
 また、来る。
 消えてゆく猫に向かって、声には出さず、そう言って、ジェロニモは、その小さな姿を、いつまでも見送っていた。
 振り返った部屋の中は、小さな猫が、ほんの数時間過ごしただけだというのに、今は奇妙に静かで、やけに空っぽに見えた。
 やはり、明日は街に出て、猫用の缶詰を買って来ようと思って、それから、ツナの缶も、いくつか買い置きすることにしようと思う。
 猫の、薄い灰色の毛の手触りを思い出して、ふと、仲間の顔をひとつ、思い浮かべる。
 彼もまた、あまり物音も立てず、静かに部屋にいるくせに、その部屋を、満たしてしまう人だった。
 遊びに来ないかと誘ったら、また、古いトランクに、本をたくさん詰めて、ここにやって来るだろうかと、思って、薄く笑う。
 猫の缶詰と、ツナの缶詰と、それから、本を読む時には紅茶を欠かさない彼のために、紅茶の葉も探すことに決めた。
 ドイツに住む、古い友人に、電話をかけるために、もう一度だけ外を眺めてから、ジェロニモはゆっくりとドアを閉めた。


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