見つめていたい

 ふたりきりになれたチャンスに、気配を忍ばせてひっそりと抱き合う。夢中になれば立てる物音の大きさに、時々互いの肩をつついて、声を抑えるためには、唇を重ねてしまうのがいちばん手っ取り早かった。
 終わってしまっても時間を気にしながら、回した腕をゆるめるタイミングを測り損ねた振りで、自分たちのどちらか、あるいは両方を探し回る足音や声がないままなら、後1分だけ、後10数える間と、そうやって時間を引き延ばしてゆく。
 今日は、ついにイワンの声がした。ジェロニモを呼んでいる。フランソワーズは出掛けていて、ギルモア博士はきっといつものように地下室にこもっているに違いない。
 ジェロニモが、イワンの声を耳の奥に直に聞き取って、はっとしたように肩を上げる。突然できた小さなシーツの隙間に、冷たい風が入り込んで来て、同じようにイワンの泣く声を聞き取ったハインリヒも、ようやく我に返る。
 「行く。」
 こうなれば潔いジェロニモは、それでも静かな動きでベッドから滑り落ちるように離れ、ドアから続くここまでの床に、何かの跡のように転々と落ちている互いの衣服を、ハインリヒには背を向けて集め、自分の分とハインリヒの分をさり気なく寄り分けた。
 まだ薄い毛布にくるまったまま、ハインリヒはジェロニモの、岩のように盛り上がった大きな背中を見ている。
 腕が伸びて何かするたび、肩胛骨が動く。筋肉の形がはっきりと現れ、その下の装甲の厚さと堅さが自分の人工皮膚に残す感触を、もう少しの間だけ、手元に引き寄せたままでいた。
 ジェロニモの、一体どこで探すのかと思う大きさの服が、ふわりと空気の中を泳ぐ。
 仮で夜のように薄暗くした部屋の中で、どこか隠微に湿った空気を、ジェロニモが服を身に着ける仕草で揺らしてゆく。
 服の裾や端(はじ)が体に添い、うつむいて伸びたうなじと、少し外側に張った肘で、シャツのボタンをとめているのだとわかった。
 少しずつ覆われてゆくジェロニモの、浅黒い膚の大きな体。さっきまで、ほとんど毛布のように自分を包み込んでいた体。
 脱げば、いっそう大きさの際立つ体だった。
 何度も何度も水をくぐって、わずかにこすれた布地が白っぽく薄くなっているジーンズが、これも、巨木の枝のような両脚を覆う。
 シャツの裾をジーンズの中に押し込む仕草を見ているのが、ハインリヒは好きだった。
 服を脱ぐ時も着る時も、ジェロニモの手指はいつも丁寧に動き、服それ自体を大事に扱うように、ボタンが取れ掛かっているのを、見たことさえない。
 そうやって動くジェロニモの指先は、自分に触れるそれを思わせる。同じように、優しさを込めて触れられる自分の、ひとらしいぬくもりはない体が、ジェロニモの膚に触れてぬくまるその服と同じように、ジェロニモと重なってあたためられてゆく。
 ハインリヒは、ジェロニモが服を着るのをそうやって眺めるのが、口には出さず好きだった。
 数分も掛けずに身支度をして、ジェロニモがもう一度ベッドへ近づいて来る。
 「行く。」
 今度もきっぱりと、けれどすまないと言う気持ちを語尾に含めて、ジェロニモが同じことを言った。
 ハインリヒは上体だけ起こして、伸ばされて来た掌に素直に自分の頬を預け、触れるだけの口づけを、今だけのさよならのために上目にねだる。
 次は、今夜かもしれないし、来年かもしれなかった。
 唇が離れる間際に、追いすがるように、ふと喉が伸びる。自分を見下ろすジェロニモの、濃い茶色の瞳に映る自分の表情は、薄暗さのせいにして見なかった。
 一瞬の数分の一、ジェロニモがハインリヒを見つめたまま、視線をそらさない。
 薄闇の中、サイボーグの目でなくても、輪郭すらわかる白い膚。
 普段は首まできっちりと覆って、手すらあまり人目には晒さない。ほとんど常に半分は剥き出しのままの、鉛色の金属部分のせいだ。
 人工とは言え、生身の頃を忠実に再現されているのだろうと思える皮膚の色と感触と、まるで真逆のその装甲部分と、ハインリヒは、恥じるとか憎むと言うほど強い感情ではなく、それでも受け入れているとも好んでいるとも言い難い気持ちで、もう長い長い間共存している。
 いかにも機械めいたその体を、ハインリヒは当然ながらあまり外に出すことはせず、人工皮膚ですべてを覆ったとしても、機械の体に変わりはないと言うわけか、どちらにせよハインリヒの裸をこんな風に眺められるのは、ジェロニモの秘密の特権と言えた。
 タートルネックの薄いセーターを首から抜くと、前髪が乱れて額に散る。それをうるさげに、右手の指先で跳ね上げる時の、銀糸のような髪の間から見える、いかにも忌々しそうな彼の表情を盗み見るのが、ジェロニモは好きだった。
 仕立てのしっかりした革靴は、脱げば転がって固いけれど柔らかい音を立て、脱いだ靴下が行方不明にならないように、その靴の中にきちんと入れておくハインリヒの律儀さは、いつだって微笑みを誘う。
 時々で、剥き出しだったり人工皮膚に覆われていたりする爪先。足の甲。歩く時の足指の動きのなめらかさには、いつだって驚く。
 裸になったハインリヒは、文字通り剥き出しになって、どこか不安定な危うさを漂わせて、自分が触れて抱きしめていいものかと一瞬の間迷うのも、いつものことだった。
 自分の前で服を脱ぐハインリヒを眺めて、ジェロニモは、次の瞬間には抱き合っているに違いないと言うのに、どうしてかそうなることを、いまだ完全に信じられずにいる。
 自分と抱き合うために、自分が触れることを許して、ハインリヒが服を脱ぐ、それが、いまだ時折信じられなくなる。
 ハインリヒが服を脱ぐのを眺めるたび、自分は何か、とても巨大で尊いものに許されているのだと思う。
 実際にハインリヒに触れる一瞬前に、次の瞬間のより大きな幸福の、そのあまりの深さに、恐れすら湧いて、これはもしかして、ただ幸福な、ただの夢だと、頭の後ろで考える。
 そう考えたのは、それでもほんの、ひと呼吸分の間だけだった。
 また後で。言いながらハインリヒが右手を差し出し、ジェロニモはその指先を軽く握った。
 手が完全に離れる瞬間まで、指先は名残り惜しげに互いに向かって伸ばされ、ドアを閉める直前に振り返った時、ハインリヒはベッドの上から、真っ直ぐジェロニモを見送っていた。
 ドアの閉まる隙間から、ジェロニモはハインリヒに微笑み掛けることをやめずに、ハインリヒの右手をまだ握ったままのように、掌の形を崩さないままだった。

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