合鍵
もう、荷造りはすんでいた。慣れてしまったものだ。ものの10分もあれば、もう部屋を飛び出せるようになっている。
国境を越えて行き来する仕事なら、見入りも良かったし、仕事も多かった。けれど、パスポートのやり取りが面倒で、何より、イワンが仲間たちのためにあれこれといじくっている情報に、何か手落ちがあったらという心配が拭えずに、ハインリヒは滅多と国境を越える仕事を請け負わない。
ひとつには、その類いの仕事は、家を離れている時間が長い、ということがあった。
ひとり暮らしのこの部屋が、特に恋しいというわけではなかったけれど、それでもここはハインリヒの家だったし、何かあれば、帰ってくるところだった。
仕事の合間の休みは、3日から1週間くらいが多いので、冷蔵庫の中は腐らないものしか置かないようにしている。大丈夫なら冷凍庫に放り込んで、後は何とかなるだろうと、高をくくることにしている。
取られて困るものもない、簡素な部屋だ。格別治安が良いというわけでもないけれど、誰かが殺されたという話も、滅多と聞かない辺りだった。それでも、一応は窓の鍵を全部確認して、留守番電話の赤いランプをちらりと見てから、キッチンのそばに置いてある小さな丸いテーブルに、数分腰を下ろす。
用意してあったペンを取り上げて、これも一緒に置いておいた小さな紙切れに手を添えて、さて、今度の書き出しは何にしようかと、わずかの間眉を寄せた。
ジェロニモへと、最初に書くのはいつも変わらない。悩んだ挙句に、結局書くのは同じことだ。
元気かと尋ねて、元気だと告げて、それから、この仕事の予定を書く。いつからいつまで仕事で留守にする、帰ってくるのは何日の何時頃、これは連絡のつく電話番号等々。それから、少し行を開けて、ハインリヒと自分の名前を素っ気なく記した下に、今日の日付を書いておく。腕時計を見て、何時何分かもだ。
書き上げた書き置きを、両手に持って、すかすように眺めて、短い用件だけの内容を、必ず3度は読み返す。
そうやって、出て行く時間を引き延ばしているのだと、ハインリヒはまだ気づかない振りを続けている。
万が一のためだ。ジェロニモが、何かの気まぐれで、ハインリヒへは言わずに、ドイツへ足を伸ばす気になった時のためだ。
あのジェロニモが、突然連絡もなしに尋ねてくるとは考えにくいけれど、それでも、もしかしてと思わずにはいられずに、ハインリヒはいつも仕事で出掛ける前に、こうしてジェロニモ宛の書き置きを残してゆく。
ドアを入って中を眺め回せば、すぐに見つかるこのテーブルの上だ。
あるいは、ジェロニモではない、招かれざる他の誰かがこのメモを目にすれば、ハインリヒの予定を知って、ゆっくりとひと仕事---強盗だとか---できるというものだ。
その可能性を考えてから、ハインリヒはひとり苦笑をもらした。
ジェロニモが、ここへやって来る。ドアをノックして、返事がないので、合鍵で開けて、中へ入る。ハインリヒの名を呼びながら静かに中に入って、すぐに人の気配がないことに気づくだろう。見回せば、テーブルにこんなものが置いてある。そっと取り上げて、読んで、わずかの差で見逃したなら、きっとひどく残念がる。じきに戻ってくるとわかったなら、きっとうっすら微笑んで、ハインリヒを待つことに決める。
わざわざ残してある連絡先に、電話をしてくる。
会いに来た。
帰るまで待っててくれ。そこにいてくれ。俺の部屋に、泊まってくれてても構わない。
わかった。待ってる。
きっとそれだけの、短いやり取りだ。
荷物を置いて、まずは冷蔵庫を覗く。何もない。鍵だけはしっかり持って、部屋を出てゆく。近所の地理には詳しくはないけれど、道行く人に尋ねながら、食料品店を探す。いちばん最初に見つけるのは、きっとあの、中近東系の店だろう。
何を買うだろうか。パンとミルクと、サンドイッチ用のハムとチーズ。運が良ければ、サラダ用の野菜くらいは置いてあることもある。数日分の昼食くらいはまかなえるように、きっとたどたどしくドイツ語でやり取りしながら、小さな買い物袋をひとつ持って、店を出る。
歩いて来た道をゆっくりと戻って、急ぐわけでもないから、あちこちを眺めて、ハインリヒのアパートメントへ戻る。
あそこの角を曲がったところの路地にいる猫たちに、ジェロニモは気づくだろうか。お世辞にも毛並みが良いとも、愛想が良いとも言えない猫たちは、けれどジェロニモには、何か親愛の素振りのようなものを見せるかもしれない。ジェロニモはきっと、足を止めて、道路にしゃがみ込んで、彼らの歓迎を受け取るに違いない。
それから、隣家の猫だ。あの、目つきの悪い大きな猫は、ジェロニモの大きさに驚いて、庭から外へは出て来ないかもしれない。歓迎の意を示すまでには、もしかしたら数日掛かるかもしれない。けれどジェロニモは、そんなことさえきっと楽しんでくれるだろう。
サンドイッチとミルクで腹を満たしたら、きっと急に長旅の疲れに襲われて、どこか遠慮がちに、背中を丸めてシャワーを浴びる。ハインリヒの石鹸を使い、ハインリヒのタオルを使う。
それから、どこで寝るか迷うに違いない。
ハインリヒがいつもひとりで寝ているシングルサイズのベッドに、何の迷いもなく横たわれるような、そんな男ではないから、きっと居間のソファを眺めて、けれどふたり掛けのそれはあまりに小さくて、仕方がないいっそ床に寝るかと、真剣に考えるに違いないのだ。
シャワーのぬくもりが消えた頃に、遠慮がちに心を決める。後で謝ることにして、ベッドを使わせてもらおう。飛行機の小さな座席に押し込められて10時間以上の旅だったから、今夜はせめて、手足と背筋を伸ばして寝たい。だから、悪いがベッドを使わせてもらおう。
シーツも枕も、出掛ける前に替えているから清潔だ。ホテル並みとまでは行かなくても、そこそこ居心地は悪くない、はずだ。きっと。
ハインリヒの枕に頭を乗せて、眠るための位置を整えて、毛布をかぶる。おやすみと、声に出して言ってくれるだろう。ジェロニモは、そういう男だ。
ハインリヒは、腕の時計をもう一度見た。もう出ないと、仕事に遅れてしまう。
書き置きを、きちんとテーブルの中央に置いて、ハインリヒは名残り惜しげに立ち上がった。
そんなことは起こらないと、わかってはいても、いつだって考えずにはいられない。最後に会った時に交換した合鍵が、いつか役に立つ時が来るはずだと、思わずにはいられない。いつでも、好きな時に、互いのところへ訪ねて行けるように。滅多とふたりで会うことの、かなわないふたりだったから。
ここへ戻って来るまで、そうやって、ジェロニモがいるかもしれない自分の部屋のことを考えて、ひと時楽しめる。ジェロニモが触れているかもしれない、この部屋のあれこれを想像して、帰るまでの時間を楽しむことができる。そうすれば、ここへ戻って来るのが、楽しみになるからだ。
ひとりきりの部屋に、ジェロニモがいるかもしれない、自分を待っていてくれるかもしれないと、考える。ただいまと開けたドアの向こうに、ジェロニモの姿があることを想像する。それだけで、ひどく幸せな気分になれるハインリヒだった。
仕事で疲れて戻って来れば、ハインリヒを迎えるのは、ただの空っぽの部屋だ。人の気配がないことに、やっぱりと思いながら、かすかに失望して、中に入って、カバンも下ろさずに、テーブルから手も触れられない書き置きを取り上げる。自分で読んで、自分を笑ってから、片手でくしゃりと丸める。くずかごに放ってから、やれやれと荷物を置くのだ。
それでも、こうしてメモを残して行かずにはいられない。
いつか、仕事のためではなく荷造りをして、飛行機に飛び乗ってしまおうかと思う。何も告げず、誰にも言わず、南の、平たく乾いた地にいるあの男に、会いに行こうと考える。
住所を頼りに家を探し当て、ノックなんかせずに、いきなり鍵を使って開けてしまえばいい。案外と、留守だというのにドアは開いたままかもしれない。
どんなところに、どんな家に、どんな風に暮らしているのか、まだ見たことはない。
会いたいと、また思った。
書き置きを、右手の指でそっと触って、それから、ハインリヒはようやくカバンを取り上げて肩を回す。
ドアを開けながら、あごの先だけで振り返り、行って来ると、小さな声で言った。
鍵を閉めるキーホールダーには、ジェロニモの合鍵がぶら下がっている。それに視線を当ててから、上着のポケットへ入れる。じゃらんと鳴るそれを、ポケットの中で握りしめて、ハインリヒは大きな歩幅で歩き出した。
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