Long Day Gone
見慣れた風景だと言うのに、どうしてか、時間が、凍りついたような気がした。
顔から血の気が引き、胸が、きりきりと痛んだ。泣くだろうと、思って、泣きたいでもなく、泣いてしまうでもなく、ただ、瞬きをすると同じほどの自然さで、涙が、こぼれそうになった。
言葉を探した。どんな気分なのだろうかと、どんな気持ちなのだろうと、理解するために、言葉を探した。
冷たい右手で、セーターの胸の前をつかみ、まるで、そこにある、見えない痛みをえぐり取ろうとするかのように、マシンガンの指先を、鋼鉄の胸に食い込ませる。
機械は、痛みを感じない。けれど、サイボーグには、痛覚がある。
痛みは、けれど、痛覚を通して、脳にたどり着いているわけではなく、内側の、生身のままの、弱くて脆くて、柔らかな心のどこかに発生していた。
切ないのだと、そう気づいて、ハインリヒは、涙をこぼしていた。
フランソワーズが、イワンを抱いて、ミルクをやっていた。
普通の赤ん坊のように、18時間寝ては、目を覚ますというわけではなく、月の半分を寝たままで過ごし、残りの半分は覚醒したままでいるイワンの、フランソワーズに抱かれて、ミルクを飲む姿は、珍しくはないけれど、意外と、思うほど目にはしない。
見た目だけなら、若い母親と、その赤ん坊なのだろうけれど、イワンは見た目通りの、無力な赤ん坊ではなく、中身はおそらく、仲間の誰よりも老成している。多分、すでに老人である、ギルモア博士よりも。
イワンは、母親のことを、覚えているのだろうか。抱かれただろう腕を、覚えているのだろうか。
改造され、不自然に肥大させられ、爛熟した思考を、赤ん坊の体に取り残されたまま、イワンの頭の中には、ただの赤ん坊としての記憶は、残っているのだろうか。
ただの赤ん坊でないイワンに、少なくとも許されているのは、フランソワーズの庇護だった。
母親ではない。けれど少なくとも、それに似た形と、匂いと、声と、仕草の、暖かな体。その腕と胸に抱かれて、赤ん坊として、護られることを、当然のこととして、与えられる。
ぬくもり、とハインリヒは思った。
泣いてしまってから、イワンを、うらやましいと思ったのだと、気づいた。
そう言えば、おそらく、イワンは苦笑いしながら、オタガイサマダネとでも言うのだろう。
抱きしめられること、あやされること、甘やかされること、護られること、それだけが、イワンが許されていることだから。
一人前とは、決して認められない赤ん坊の姿のままで、生きることを強いられている彼が、人目には晒せない、機械の体をした自分よりも、ましな人生を生きていると、比べることすらばからしいのだと知っていながら、ハインリヒは、抱かれる腕のある、赤ん坊の姿をしたイワンを、うらやましいと思った。
オタガイサマダヨ。
大人の人の形をしていて、けれど、触れて、見れば、人でないことはすぐにわかる。普通の生活に、不自由はないとしても、それ以上のことは、求められない。
限りなく生身に近い体で、そうふるまう必要もなく、ただの赤ん坊なのだと、誰もが思う。けれど、無力なまま、ひとりで生きることはできない。
フランソワーズに抱かれているイワンを、うらやんだ自分を、ひどく下らないと思いながら、ハインリヒは、その場を立ち去るために、くるりと肩を回す。
そうして、気配もなく、自分の後ろにいた大きな体に、あやうくぶつかりそうになる。
拭うことを忘れた、涙の跡の残る頬を、ジェロニモが、静かな瞳で見下ろしていた。
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ドアを開けると、同じ静かな瞳が、見下ろしていた。
見つめ合って、けれど、どちらも口を開かず、ハインリヒは、何も言わずに、入れと、目顔で促した。
濃い、澄んだ茶色の瞳は、穏やかで、包み込むように優しげだけれど、真っ直ぐに、ハインリヒの心の奥底まで、射抜く光を含んでいる。
ハインリヒは、肩を軽く上げて、仏頂面を崩さないまま、ジェロニモの視線を受け止めかねて、ちらりと視線を流す。
叱られて、ふてくされている子どものようだと、自分のことを思った。
言い訳は、いくらでも思いつけそうなのに、何を言っても、どうせ言い訳だと見破られてしまうのだとわかっているから、ハインリヒは何も言えず、ジェロニモも、自分からは決して口を開かない。
出て行ってくれと言えば、入って来た時と同じ静かさで、またドアの向うへ消えるのだろう。
出て行ってほしくなど、なかった。わざわざ、来てくれてありがとうと、素直に言えればいいのにと、思った。
口を開く代わりに、気がつくと、右手を伸ばして、ジェロニモのシャツを、握りしめていた。
母親の膝を、覚えている。
柔らかな、生身の体。そこに乗りかかる、小さくて薄い、少年の体。
年よりも幼く振舞いながら、親指を口に運んで、それを、穏やかにたしなめられた。
見上げれば、笑顔がそこにあり、失うことなど、思いもよらないぬくもりがあった。
少年は、大人になり、そして、生身の体を失った。
人のぬくもりは、もう、手の届かないものになり、誰かの膝に抱かれたことは、遠い遠い記憶になった。
どれほど永く、生きようと、ぬくもりの記憶は、増えることはない。ただ、少しずつ、確実に、遠く薄れる過去になる。
積み上がる過去の重さに、時折、ひとりで、怯える。
手を引かれ、ふたりで、床に坐り込んだ。
まるで、小さな子どものように、ジェロニモの胸におさまってしまいながら、ハインリヒは、ぶ厚い胸の奥から聞こえる、人工心臓の鼓動に、耳をすませた。
この大きな胸と、太い腕は、そう言えば、いつもイワンを抱いているのだと思う。
イワンは、こんな音を聞いているのかと、そう思った。
硬い、ぬくもりのない体を、そっと抱いてくれながら、ジェロニモは、いつものように、一言も言わず、ただ、ハインリヒの銀の髪の中で、指先だけが優しく動いた。
ひとりが、淋しくて、痛くて、だから、イワンにさえ嫉妬したのだと、そう素直に口にすれば、傷つくのは自分自身だったから、森の化身のような、この男の、無言の優しさに甘えることにした。
人ではなくなっても、心は生身のまま、人との関わりを求める。けれど、人としてはもう、人と関わることは許されないから、黙って、耐えるしかなかった。
人ではなくなっても、人としての弱さは、失われることはなく、戦う機械としての外側が、強固になればなるほど、生身の心は、柔らかな弱さを抱え込んだままでいる。
その弱さを、受け入れることが恐ろしく、痛みにすら、気づかないふりをして、けれど、無理が時折、心からあふれ出す。
ジェロニモの胸に、額をすりつけた。
小さな子どもに返ってしまったよう---まだ、生身だった頃---に、ハインリヒは、目を閉じて、ジェロニモのシャツをまた握りしめながら、もっと近く、体を寄せた。
武器を抱えた、重い体を、ジェロニモは軽々と受け止めて、ハインリヒに巻いた腕を、ほんの少しだけ、締めた。
鼓動を聞きながら、その奥で、もっとかすかな、機械の動く音がする。
人には戻れない。
生身のぬくもりはない。
それでも、抱き合う腕と、触れ合える体だけは、まだある。
明日は、イワンを抱いて、どこかへ散歩へ行こうと、そう思った。
ジェロニモの胸に、ぴったりと耳をつけて、鼓動を数えながら、ハインリヒは、まるで眠るように目を閉じた。
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