メンテナンス
手を取られて、そのまま腕を全部預けた。ハインリヒの手を引き寄せて、ジェロニモはそっと二の腕の辺りから磨き始める。肘の辺りに空いた手を軽く添えて、それは床を磨くようでも、何か木の彫りものを磨くようでもなく、あくまでそれが誰かの体の一部なのだと、常に意識した動きで、ハインリヒの鉛色の腕を丁寧に磨き始める。腕の外側は、特にメンテナンスの必要はなかった。それでも、体の他の部分と馴染むにつれて、接ぎ目がきしむような感触があったり、できれば水がころころと弾けて流れてくれた方が具合が良かったり、そんなわけで、たまにうっすらと、ごく少量の機械油──彼ら用に、特別に配合されたものだ──を表面に塗り込む。
きちんと染み込むとも思えない腕の表面に、それでもほとんど膜も残さないかすかさで、塗り込まれた機械油はすぐに匂いも消えて、少なくともしばらくの間、動きが滑らかになったように感じるのと、水を浴びるとさっと水滴が弾けて消えてしまうのとで、それなりに効果はあるのだと知れる。
滅多と人工皮膚を全身にかぶせることをしないハインリヒには、特にこの作業が必要で、最初の頃はほとんど意地を張って自分でやっていたのだけれど、うまく見えなかったり手が届かなかったり、いちいち鏡の前で自分の姿を確かめながらやるのが業腹になって、こんな時にはこんな面倒なことを、何も言わずに黙ってやってくれるジェロニモの手に委ねることになった。
ハインリヒは、機械油を塗られることには常に腹を立てているようなところがあるけれど、この機械油それ自体の匂いは嫌いではなかった。オイルを染み込ませた木綿の布が自分の腕──機械の腕──を滑り、その時だけはっきりと鼻先を打つその匂いを、ハインリヒはどちらかと言えば気に入っていると言えた。
あまり人に見せない体を晒して、明らかに生身ではない腕を他人の手に預けて、ジェロニモは視線をそこへ落としたまま、ほとんど一心不乱に見える様子で、時折、ハインリヒの腕ではなくて、腕の先にたまたまハインリヒがいるのだと、そんな風に感じているのではないかと思う時がある。
自分が、腕だけの存在になったように、あるいはそれは、ジェロニモの思いやりの表れなのかもしれなかったけれど、腕ばかり見てなくてもいいじゃないかと、普段は首筋さえ見られるのを嫌がるくせに、そう思う。わざと目をそらされていると、そう感じるのは自分の卑屈さのせいだとわかっているのに、自分の意地の悪さに嫌気が差しながら、自分の腕を磨き続けているジェロニモの、額の辺りに目を凝らしていた。
肩から始まって、二の腕の内側と裏側へ触れる時には、ジェロニモは坐っている位置を少し変えた。ハインリヒを動かすよりも、自分が動いた方が早いからだ。そんなことひとつびとつ、長い間に互いの性格が知れると、ある日突然当然だとは思わなくなる。手際良く作業を終わらせようとするからではなく、それがハインリヒへの気遣いなのだと気づいたのは、一体何がきっかけだったろうか。
ほとんど力を入れずに、まるで投げ出すようにジェロニモに腕を預けて、丁寧に扱われる自分の腕を目の前で眺めながら、ハインリヒは、腕が自分の一部なのか、自分が腕の添えものなのか、ジェロニモにとってはどちらなのだろうかと、また考え始める。
関節のある肘の辺りは特に慎重に、丁寧に、決してやり過ぎはせずに、けれどきちんとオイルが行き渡るように、ジェロニモの指先が、装甲の接ぎ目の部分をなぞりながら、その後をオイルの染み込んだ布が追い駆けてゆく。布がたどった後は、かすかに照りを残して、くすみを1枚分取り払ったように、鉛色が明るくなる。
丁寧ではあっても、手馴れているようでも、ある種の熟練工の見せるショーのような手際もなく、ジェロニモの指先は淡々と動いて、ハインリヒの腕を磨いてゆく。時々、指先が迷い、ほとんど微笑ましくさえある不器用な仕草で布の当たる位置を変えて、少しずつオイルを塗り広げてゆく。その手つきすべてが、ハインリヒには好ましい眺めだった。
手首の辺りは、もっと丁寧だった。巨(おお)きなジェロニモの手の中に収まると、ハインリヒの手首は薄く小さく見える。実際には、たとえばフランソワーズの指では、回り切らないかもしれないくらいだと言うのに。そこをいっそう慎重に磨いて、まるで脈を取る医者のような手つきで、ジェロニモの指先が滑ってゆく。
掌は、凹凸に沿って布が動いて行き、ジェロニモの指先だけが見えたり、あるいは掌全部が布の下に隠れてしまったり、指の付け根の、生身ならふっくらと盛り上がっている辺りへは、まるで慰撫するような感触が走って、それから、指の間へ布が入り込んでゆく。
銃身に当たるハインリヒの指全部にも、丁寧にオイルが塗り込まれてゆく。これも関節の部分にはいっそう細やかな仕草で、ジェロニモの指が触れてそこを撫でて、まるで武器ではなく、生まれたてのけものの子でも扱うような優しさで、ジェロニモの視線もどこか穏やかに見えた。
先端の、弾の出て来る部分には、ジェロニモの指先は少々大き過ぎる。だからと言って他の道具を使うことはせずに、軽く束ねた布の端をそっと押し込んで、汚れがないか確かめながら、そこへはいちばん長くとどまっていた。
そこから手の甲の部分へ戻るのに、本来なら爪のある場所を、ほんとうに爪でもあるように、くるりと丸く布が触れる。まるで、見たことがないはずのハインリヒの生身の腕を知っているかのように、今触れているのはマシンガンの腕ではなく、ただの人間の腕だとでも言うように、あるはずもない爪の形が、触れているジェロニモの指先の下に、はっきりと見える気さえした。
もう、生身だった自分の体を思い出せない。完璧に再現されているはず──武器庫だと言うことを除けば──の今の体が、ほんとうにそのままなのかどうか、もう自信がない。これはこれ、あれはあれと、はっきりと割り切れるようになるまで、ずいぶんと時間が掛かった。こんな風に、誰かに触れさせることができるようになったのも、それほど前のことではない。
ジェロニモのために腕を動かすと、機械油の匂いがまた鼻先に立った。この匂いにすら腹を立てていたことがあったのを、今は笑って思い出すことができる。
今は。
思うと同時に、唇が動いていた。ハインリヒの手に向かってうつむいているジェロニモには、それは見えなかった。声には出さずに、ハインリヒはもう一度唇だけを動かした。
まるで捧げ持つように、ジェロニモがハインリヒの手に触れている。その形は、敬意を表すような、あるいはある種の親しみを表すような、そんな仕草にそっくりだった。
そんな意味はまるでないはずなのに、なぜか不意に、ジェロニモのその仕草に心を打たれたように思って、ハインリヒは左の掌を自分の左胸に置いた。人工心臓が、規則正しく動いている。すべてはにせものではあっても、それは全部、ハインリヒの生身の体を模したものだ。この音も、生身だった頃と同じだろうかと、ハインリヒは思った。
もうすぐ、腕を磨く作業が終わる。顔を上げて、自分に腕を返してくれるジェロニモに、ありがとうと言う準備をするために、ハインリヒは心の中で何度も何度も感謝の言葉を繰り返した。