Mark

 仕事の合間の、ほんのわずかの休日、やっと少しのんびりできると、何もせずに本を読む。
 紅茶だけはたっぷりと淹れて、本を読む時は食べることは滅多にしないから、サイドテーブルに乗っているのは紅茶のマグだけだ。
 日本ならそれで家賃が高くなるだろう日当たりだけはいいこの部屋で、ソファにだらりと坐って、時々だらしなく足を組んで、組む足を交互に替え、時間に追われることもなく、ほんとうの暇つぶしのために、並んだ文字を目で追い駆けることをただ愉しむ。ページを繰り、物語が先へ進み、何度読んだかわからないと言うのに、読むたび何か新しい思いつきが沸いて、時々ひとりでくすりと笑いをこぼす。
 紅茶は少しずつぬるくなってゆくけれど、それも特には気にならず、またひと口ふた口飲んで、ページを繰る。場面が変わったところで、心の中でだけひと息ついた。
 人の少なくなる昼間だ、アパートメントの建物の中は静かで、人が歩く気配も滅多とない。窓の外はそれでも、見下ろせば通行人や車の行き来がある。けれどそこからは心を外して、ハインリヒは読書に、ゆるゆると没頭していた。
 必要に迫られての読書ではなく、だから気楽に、ゆっくりと文字を追う。時々、同じ文章を、頭の中で違う風に音読して、この場ではどんな風に朗読するのがいちばん相応しいかと、そんな読み方もしてみる。
 つい1文に夢中になり過ぎて、話の筋から頭が離れて、慌てもせず自己嫌悪もなく、数ページ戻ってまた読み返す。よくわからない外国語の名前も、出て来るたびに頭の中で繰り返し音読する。すらりと一度で発音できたら、ハインリヒの勝ちだ。
 勝つと、自然に唇がほころびる。ほころびたことに照れて、また少し笑う。そうしてまた、本を読むことへ心を戻す。
 そんなつもりはなかったのに、紅茶を飲むペースが上がっていたらしい。持ち上げたマグがほとんど空のことに気づいて、ハインリヒはちょっとだけ唇を尖らせた。
 本を置いて、紅茶をもう一杯淹れよう。もう冷めても構わないから、いっそティーポットで淹れるか。考えながらマグをひとまずテーブルに戻して、そうして、指先に栞を探す。使い馴染んで、くったりとして、元の茶色から飴色に変わってしまった部分もある、皮の栞だ。切りっ放しのそれには、上部に開けた小さな穴に、丁寧に細いリボンが通してある。
 随分前のクリスマスに、日本でジェロニモがくれたものだ。
 テーブルの上にはない。置いた憶えも、本を取って来た時に、一緒に持って来た憶えもない。
 読んでいるページに指先を挟んで、ハインリヒは本と一緒に立ち上がった。紅茶のマグもついでに取り上げて、まずは台所へ行く。テーブルの表面が、汚れていたり濡れていたりしないことを確かめてから、なるべくシンクから離れた位置へ本を置き、とりあえず読み掛けのページに、乾いていてきれいな布巾の端を挟んでおく。
 湯を沸かし、そして、ベッドのある部屋へ行った。
 ベッドの傍の小さな引き出し──兼小さな本棚──の中に、目当ての栞はあった。仕事に持って行った本を、夕べ読み終わり、栞をそこへしまったのだ。
 意識して右手でそれを取り上げ、顔の高さまで持ち上げた。指でつまんだところから、くたりと後ろへ折れている。何の皮なのか、訊いたことがない。獣の臭いは薄く、加工のために使ったらしいクリームか何かの香りが、まだ残っている。
 本を読みながら、栞を持ち歩く習慣はなく、いつも読み掛けになれば、手近な紙や何か平たいもの──時には、ペンなど──を即席に挟んでいたのだけれど、適当なものが見つからない時にはうっかり癇癪を起こし掛け、自分のその短気さも、実のところジェロニモからこれを渡されるまで、まったく自覚していなかった。
 もらって以来、本を持ち歩く時には必ず一緒に持ち出しているし、失くさないように気をつけている。これだけのことで、読書はハインリヒにとって、より特別な楽しみになった。
 皮の栞を手に台所へ戻る。湯はもう沸き始めていて、手早く紅茶の用意をし、葉が開くのを待つ間に、さっき挟んだ布巾を取り出して、本の中にきちんと栞を挟み込んだ。
 マグを温める手間は省いて、もうわざわざソファから立ち上がらなくて済むように、皿と布巾とティーポットとマグと本とミルクピッチャーと、何もかもまとめて抱えて、台所からコーヒーテーブルへ、一度きりで全部運んだ。
 ソファへ坐り、また読書へ戻る。
 紅茶はたっぷりと湯気を立て、少し待たないと飲めそうにない。
 膝に置いた本を、栞のリボンを指先でつまんで、そこから開く。開いて、まず目に入った皮の色と端の少しざらついた部分に、なぜかじっと目を凝らした。字を追い始めるよりも、栞ばかりが視界いっぱいになって、ハインリヒはしばらくそのまま、膝の上に本を開いたきり動かなかった。
 彼の気配がある。床に坐り込み、ハインリヒの足を片腕の輪に抱え込んで、今ちょうど本が乗っている辺りに頭を乗せて、奇妙にくつろいだ風のジェロニモが、はっきりとそこに見える。
 自分の左側の床に、ジェロニモの姿を見て、ハインリヒは、本から視線をずらしたまま、栞の端は視界の隅に引っ掛けたままだった。
 彼の、ぶ厚い肩に掌を置く。首筋へ滑らせて顎に触れ、頬を撫でてから、指先だけで刺青の線をなぞった。頬骨からまぶたを上がり、頭頂部へ達して、ジェロニモは嫌がりもせず、くすぐったがる様子もなく、目を閉じてハインリヒの指へ顔を傾け、ハインリヒの指の動きが落ち着くと、また頭を膝の上に戻した。
 ソファとコーヒーテーブルの間のごく狭い空間に、ジェロニモは足を折りたたんで体の近くへ引き寄せ、決して窮屈そうではなく、思いがけず安らいだ様子でいる。
 ハインリヒは、そのジェロニモの頭を撫でた。きれいに剃り上げられた頭。指先を差し入れれば、そこだけ丁寧に残された髪は案外とひんやりとして、皮膚と同じほどなめらなか感触を伝えて来る。色を彫り込まれた刺青は、触れただけではそこにそんな線があるとは知れず、彼がどういう人間なのか、わかりやすく示した髪の形とその刺青を、手の中に感じながら、ハインリヒは深呼吸と一緒に長く瞬きをひとつした。
 開いたままの本と並ぶ彼のその頭に向かって、ハインリヒはゆっくりと体を倒す。様々な、口にはしない言葉の代わりに、気持ちだけを込めて、ジェロニモの刺青に唇を重ねた。まぶたの近くまでそのまま線をたどり、そして、頬の線には、小さく口づけを落とした。
 その線には、かすかな凹凸と、そして何か染料の匂いがあるような気がして、唇に触れさせながら、それを探ろうとする。栞の皮の匂いと、どこか似てはいないだろうかと、まるでこの栞が、ジェロニモの一部であると信じているように、ハインリヒはジェロニモの幻に、唇を落としたままでいる。
 次に会った時には、刺青に触らせてもらおうと思った。掌と指先と唇と舌で、その線の感触を確かめて、そこへ流し込まれた染料の香りも、記憶に刻み込もうと思った。
 ジェロニモが、自分の肩にあるハインリヒの手をつかんで来る。優しく触れて来るその指先のぬくもりは、幻とも思えなかった。
 ハインリヒは、自分の方を振り向かないジェロニモの、首筋辺りに視線を当てて、ふっとそよ風に揺れる草の葉のように微笑んだ。
 幻に手を預けたまま、やっと読み掛けの本へ視線を向ける。栞を正面から見つめた途端、ジェロニモが、空気に溶けるように消え去った。
 紅茶はまだ熱いままだ。
 ジェロニモに触れていた左手を、すぐにはどこへやる気にならず、ハインリヒは栞をページの上に置いたまま、右手の指先で、栞の端をしばらくなぞり続けていた。

☆ 再びのネタ振り、どうもありがとうございました!
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