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30の感情に関する一文字の御題1@6倍数の御題

 森のパトロールから帰って来て、今日はことさら寒かったのか、裏庭からキッチンへ入って来ても、ジェロニモの周りにはまだ冷たい空気が漂っていた。
 「熱いコーヒーでも淹れた方が良さそうだな。」
 その赤くなった頬と、色の少し褪せている唇を見て、ハインリヒは珍しく親身に心配そうに言う。
 ジェロニモが戻って来る時間に合わせて、読み掛けの本を抱えてリビングにいたのに、その本は今はキッチンのカウンターの隅へ放り出されて、ハインリヒはうろうろとコーヒーメーカーの方を振り返っている。
 ジェロニモはまだ首に巻いたマフラーも取らず、とりあえずは合わせた手の間に息を吹き込みながら、指先をこすり合わせていた。
 「外はそんなに寒いのか。」
 ぶ厚い肩をすくめて、それは一体どういう意味なのか、どこか切なげな表情でそこから裏口を眺めて、ジェロニモはもう一度ハインリヒに向かって肩をすくめて見せた。
 「動物たち、もっと寒い。」
 「・・・まあ、俺たちはこの程度で野宿しても何ともないが。」
 北極のどこかを、防護服だけで歩き回っても平気なサイボーグのふたりは、束の間ばつの悪い気持ちを一緒に味わって、まるでそれを償おうとするように、ハインリヒは目の前のジェロニモに1歩近づくと、顔の前に合わされたその手を自分の方へ引き寄せた。
 ハインリヒの手は、片方は人工皮膚にきちんと覆われていたけれど、もう片方の手はマシンガンが剥き出しのままだった。それでも、冷え切ったジェロニモの手よりはあたたかいだろうと、ハインリヒは合わせたジェロニモの両手を自分の掌の間に挟み、さっきからジェロニモがそうしているように、自分もそこへはあっと息を吐きかけた。
 ジェロニモの巨きな手は、ハインリヒの手でもすっぽりとは覆えない。はみ出す指先や手首近くの掌のために、包み込む方向を変えながら、ハインリヒは奇妙な必死さでジェロニモの手をあたためようとした。
 「昔、子どもの頃だ。ピアノを弾いてた時に、レッスンの前や発表会の前や、指先をあっためておかなきゃならなかったんだ。」
 ぽつりと、薄い薄い笑みを口辺に知らずに浮かべて、ハインリヒは話し始める。ジェロニモの、まだ冷たい指先に視線を当てて、見ているのは何かもっと遠くのどこかのような、そんな表情を瞳に浮かべて、ハインリヒのつぶやきはほとんどひとり言のようだ。
 「一緒にレッスンを受ける友達だったり、そこにいる誰でもいいんだ、こうやって手を取られて、指先をあたためてもらうんだ。夏の暑い時でも関係ない、とにかくピアノを弾く前には、こうして誰かに指先をあたためてもらう。」
 掌の位置をずらして、ハインリヒはジェロニモの両手の指先だけを全部、自分の掌の間に覆い込んだ。そうして、一度言葉を止めて、そこにまたはあっと息を吐きかける。ジェロニモは黙ってされるまま、視線は特には合わさないけれど、ハインリヒが見ている自分の手に、一緒に視線を落としている。
 「まれに、ほんとうにまれに、ぽつんとひとりの時もないでもない。そんな時はしょうがない、息を吐きかけたり膝の間に挟んだり、自分で必死にあっためるんだ。でもそれは、誰かにあっためてもらうほどはうまく行かない。そんな日は指が上手く動かなくて、必ず先生に怒られた。指をあっためておくのは、ほんとうに大変だったんだ。」
 苦労話なのに、口調は懐かしげで、そしてどこか楽しげだ。ジェロニモはそれを正確に聞き取って、ハインリヒの笑みを写したように、唇の端を淡く上げる。
 ジェロニモの手をあたためながら、ハインリヒは、あの頃自分の手と指をあたためてくれた、数知れない掌の感触を思い出していた。歳の頃の同じ子どもの手は、ただひたすらに柔らかく、大きさが足りない分は子ども特有の高い体温が補ってくれた。母親の手。あるいは誰かの母親の手。かすかな湿り、ぬくもりは足りないことがあったけれど、その柔らかさに、包まれた手はいつも溶けそうだった。優しく包み込んで、そして言葉と視線で、絶え間ない励ましを贈ってくれる。年嵩の男たちの手。ぶ厚く固く、時にはひどく荒れていて、掌の内側はたいてい乾いていた。手を包むついでに抱き寄せて、ひげのあごをごりごりと押しつけてこちらをからかうのも彼らだった。様々な手。自分の手を、いつも必死であたためてくれた、あの手たち。
 下にしている自分の右手に、ハインリヒはするりと視線を移す。マシンガンの指先、撃った後は触れれば火傷するほど熱くなる、武器になってしまった手。もう、ピアノを弾くことはない手だ。だからもう、あたためてもらう必要もない。
 それでも今、こうしてジェロニモの冷たい手をあたためるために、包み込んで撫でさすって、これも悪くはない。ピアノを弾く以外の使い道を、こうして与えられている。
 あの大変さを懐かしく思った。指をあたためてくれる誰かを探す苦労を、もうしなくてもいい。それは確かにとても淋しいことだ。けれど、今ではハインリヒは色んなことを学んでいる。ピアノを弾かないと言う生き方も世の中には存在して、そしてそれは、思ったほどは悪くはないと言うことだ。
 例えば今こうして、ジェロニモの手をあたためているのも、悪くはない自分の手の使い道だ。
 ピアノがすべてだった自分を、今では微笑ましく思い返せる。辛さや悔しさは時間の長さの中に透き通され、自分の他の顔を発見しながら、人は一面だけで存在する必要はないのだと、ゆっくりと学んでゆく。数限りない表情、思い、好悪、愉快と不愉快、人とは案外と混沌とした、とらえどころのないものだ。
 純然とした意味の上で、人ではなくなってから、ハインリヒはそのことを学んだ。ピアノを弾けなくなってから、それを諦めたからではなく、ピアノを弾かない自分をそれなりにいとおしい存在だと思いついた瞬間に、これはこれでいいのだと、勢い立つこともなく、ごく自然にそう感じていた。
 言い聞かせる必要はない。自分を納得したり説得したりする必要もない。太陽が東から昇るのだと、それと同じように、ただそれはそういうことだと感じればいいだけだった。
 流せない涙を、海にもなるほど飲み込んだ後で、ハインリヒの何もかもを、慰めや同情の言葉は使わずにただ受け入れてくれたのはこの男だった。森の空気をまとい、何もかも在るがままを受け入れるこの男の背中を眺めて、ハインリヒは、嘆くことも嘆くのをやめることも、どちらも同じほど大事なのだと気づかされた。
 身を投げ出して嘆くならそうすればいい。黙って耐えるならそうすればいい。どちらも間違いではない。そうしたいと思った時にそうすればいい。どちらが間違っているわけではない。どちらか片方が必ず正しいわけではない。間違ったと思った自分を、殺したいほど憎む必要はない。間違いはただ、正せば済むことだ。あるいは、その間違いすら受け入れて、そんなこともあったと笑えればいい。
 この世の、何もかもが等しく正しく、等しく正しくはない。ジェロニモは、語らず、そうやって生きている。
 ピアノを弾けない自分を、憎む必要はない。ピアノを弾いていた自分を、ただいとおしめばいい。
 なあ、そうだろう。
 ハインリヒはようやくジェロニモの手を離し、けれどまだ指先は軽くつかんだまま、また自分の後ろを振り返った。
 「コーヒーを淹れよう。熱いやつだ。」
 ジェロニモがうなずく。片手だけハインリヒから取り返して、やっとマフラーを外しに掛かる。外から持ち込んだ空気は、もう部屋の中であたためられて跡形もない。
 指先だけをまだ絡めたまま、コーヒーメーカーへ向かってハインリヒは体の向きを変える。一緒にジェロニモの腕も引かれ、ふたりは揃ってカウンターへ足を向けた。

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