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30の感情に関する一文字の御題1@6倍数の御題

 どるふぃん号ナラマダ残ッテルヨ。イワンがそう言った。覚えているよりもいっそう大人びて、その不気味さを十分に自覚した表情が、だからこそ痛々しく見えることすら悟っている表情で、自分で口からおしゃぶりを外し、イワンはハインリヒを、そのドルフィン号へテレポートしてくれた。
 脳の回線は開いたままにしておいてくれと言われたのでそうして、実感を取り戻した自分の体を確かめてから、ハインリヒは意味もなく右手の手首を左手で撫でて、そうしてドルフィン号の中を歩き出す。
 記憶のままだ。空気が淀んでいる。どこか人気のない海岸の、ひっそりと穿たれた洞窟の奥へ隠されたものか、中も小さな窓から見える外も暗い。かすかに潮の香りと水音がする。
 ここに最後にいたのはいつだったろう。もう改造するよりもすっかり新しく組み立てた方が早いと、このドルフィン号は打ち捨てられ、ドルフィン号と言う名は、それきりになった。
 まるで歩き慣れた路地でも歩く風に、ハインリヒは丈の短いライダースジャケットのポケットに無理に両手を入れ、肩と肘を張るように、やや背中を丸め気味に足を運んだ。
 動くたび、空気の中に細かな埃が舞う。時々肩の方へ口元を近づけて、その埃を吸い込まないようにしながら、ハインリヒはゆっくりと首を回して、壁や天井を眺めた。
 ごく自然に操縦室へ足が向かい、人間で言うなら脳へ当たるそこへ立てば、もう何年か何十年か振りのその眺めに、無意識に唇の端が上がる。久しぶりだなと、まるでドルフィン号に話し掛けるように、小さく声が出ていた。
 最後に座った誰かが立ち上がった時のまま勝手な方向へ向いた席々、革に似せたその表面はひび割れ、うっっすらと積もった埃が見える。ハインリヒは構わずに、いつも自分が座っていた、中心のその席にどさりと腰を下ろす。だらしなく足を投げ出すと、それぞれの席に皆の顔が浮かぶ。ピュンマとジョー、グレートと張々湖、フランソワーズとジェット、イワンとギルモア博士は、ハインリヒの背後に、ジェロニモと一緒にいた。
 そうして、まるでハインリヒの頭の中を読んだように、ジェロニモのことを考えてその方を振り返った途端に、当の本人がそこに姿を現した。
 「ジェロニモ。」
 テレポートの直後には必ずそうなるように、肉体と精神がばらばらになったような感覚が素早く元のひとつのそれに戻る時に襲われる、淡い目眩の感触を振り落とすためにか、ジェロニモは頭の片側を押さえて首を振り、それから、目を細めてハインリヒを見た。
 「イワンか。」
 簡略に問われて、寡黙な大男がうなずく。まだ足元がやや危ういまま、ハインリヒへ1歩寄って来た。
 ハインリヒは席から立ち上がり、ジェロニモより早く足を動かして、自分からそちらへ寄る。
 おまえさんも、と唇を動かして、その先は言葉を消した。ドルフィン号が見たくてやって来たのかと、わざわざ訊く必要もないように思えた。
 今度はズボンのポケットへ両手の指先を差し入れ、さっきよりは幾分リラックスした様子でジェロニモに向き合い、覚えているよりもいっそう頑なそうに結ばれたその唇の線を眺める。ハインリヒはやや顔を傾けて、そんなジェロニモに向かって微笑み掛けた。
 「髪が伸びたな。」
 今は下半分を刈り上げ、上部は後ろで結べるほど長いジェロニモの、今も艶やかに黒い髪へあごをしゃくる。
 変わったのは髪型だけではなかった。顔に刻まれていた白い線もない。戦闘状態になり、体温が一定上に上昇しなければ、あの刺青は見えない。しかもそれは、今では赤い線になって体中にも浮き上がる。あの頃は涙のようにも見えたジェロニモの刺青は、今は正しく、熱く沸き立った血の色で現れる。
 改造や改良を穏便に拒んで、このドルフィン号と同じように、役立たずの過去の遺物になった自分とは違う。ギルモア博士やイワン、そしてフランソワーズの傍らに居続けることを選び、そのために自分の体を改造の犠牲に差し出したジェロニモの今の姿は、まるでハインリヒを責めているようにも見えた。
 「何年振りだ。」
 微笑みを消さないままのハインリヒに、やっとジェロニモの唇の端もややゆるみ、問いには軽く肩をすくめただけで応えると、顔の右側に、突然うっすらと赤みが差す。薄いその赤は、じきに顔全体に走り始め、形だけはハインリヒも見慣れた、あの刺青が浮き上がる。
 「戦闘中にだけ、見えるんじゃないのか。」
 ハインリヒは、思わずジェロニモの頬に右手を伸ばした。手袋のない剥き出しの、マシンガンの指先を、以前はふたりでいれば必ずそうしていたように、ハインリヒは親しみの無意識にこもる手つきで、ジェロニモの頬に触れさせた。
 まるで電撃でも当たったように、びくりとジェロニモのぶ厚い肩が上下する。相変わらず雲つくような大男の、記憶よりもさらに厚さを増している体が、ハインリヒの指先のひと触れで、たちまち硬張っていた表情もどこかに置いて、はにかみのような恥じらいのような、そして顔の刺青はいっそう濃さを増す。今では炎のように真っ赤に、その浅黒い膚の上に、鮮やかな色を走らせていた。
 こんな、触れるほど間近で、このジェロニモの刺青の新しい色を見たのは初めてだった。ハインリヒは触れたまま、その赤い線から目が離せず、その濃さと鮮やかさに視線を奪われて、長い間自分しか知らなかったろうこの男の、秘めた情熱のその熱さを、人工皮膚の下に思い出していた。
 まじまじと見つめられて、心底照れたようにジェロニモが視線を外す。そのついでのように、ハインリヒの掌へ向かって顔を傾け、その指先を見つめるために、濃い茶色の瞳がそちらへ動いた。
 「俺のは何も変わっちゃいない。」
 皮肉を込めて、ハインリヒが微笑のまま言う。
 ジェロニモは黙ってハインリヒへ視線を戻し、同時に、ハインリヒの手に、自分の掌を重ねた。
 「おまえさんと違って、俺はとっくに過去の遺物だ。まだ使いものにはなるが、いつこのドルフィン号みたいに、もういらないと、埃をかぶるだけの置物になるかわからない。」
 皮肉だけではなく、淋しさのこもったハインリヒの口調に、ジェロニモの瞳が強く光る。
 「残念ながら、兵器は使われて初めて存在意義を持つ。平和な時に、武器だの兵器だのは無用の長物どころか単なるおぞましい目障りな邪魔ものだ。今までの俺がそうだった。俺はまったく変わっちゃいないさジェロニモ。自分の体を忌み嫌いながら、世界の邪魔ものになるのはもっと嫌なんだ。マシンガンをぶっ放してると血が沸く。俺は、骨の髄まで戦争兵器なんだ。」
 「おれも兵器だ。おれも、そう改造された。おれもおまえと同じだ。」
 「違うさ。」
 こちらを切りつけるような否定の調子は、けれどハインリヒ自身をもっと深く切り裂いている。それを、仲間の誰よりもよく知っているジェロニモは、自分から遠ざかろうとしたハインリヒの手を、しっかりと握って離さなかった。
 「おまえさんはイワンをあやせるが、俺はそうじゃない。フランソワーズもギルモア博士も、おまえを近寄せるが俺は違う。俺はそういう存在じゃないんだ。おまえさんと違ってな。」
 翻訳機を通さずにハインリヒの使う英語は、ジェットのそれのようなむやみな円みはなく、グレートのそれのような心地好い雨の湿りのようなまろみもなく、生真面目に丁寧に書いた紙の上の文字を思わせる。以前よりも舌先に馴染んでいるその響きを、ジェロニモは快く聴いている。
 愉快な会話ではない。いつもそうだ。何もかもが憶えているまま、以前ふたりの間で止まった時間を今ここで再び走らせるためのように、ハインリヒは昔言ったそのままを繰り返し、ジェロニモも、それにまたまったく同じように応えている。
 ひとは、それほど変わってしまえるものではないのだ。様々な変化を互いの間に置きながら、結局のところ、いつの間にか背を向ける羽目になってしまったあの時と、今この瞬間に、それほど変化があるわけではない。
 髪が伸び、刺青の色が変わり、ジェロニモのその、分かりやすい変化と引き比べて、ハインリヒは変化を拒んだ自分の頑なさ──卑怯だと、ハインリヒ自身は理解しているのだと、ジェロニモは知っている──を、否定的にとらえている。すべてを負わせて自分は逃げたのだと、ハインリヒは自分の選択をそう理解している。
 違う、とジェロニモは思った。ひとはただ、自分のできることを選びやるだけに過ぎない。ジェロニモは、大事な仲間を守り続けるためにさらなる改造を受け入れ、一方ハインリヒは、自分自身を大事にしてそれを拒んだと言うだけの話だ。
 大事だと思ったものが、その時に違っただけのことだ。ジェロニモが守りたかった仲間のひとりに、もちろんハインリヒは含まれていたけれど、ハインリヒは自分の選択を仲間への背信と、ある意味では正しく理解して、ひとり別の道を歩くことを選んだ。
 忘れたことはなかった。考えない日はなかった。互いに、大事なものを抱えて、その時最善と思った道を進んだだけだった。それだけのことだった。
 やっと、思い、考えるだけの日々が終わるのだと、重なった掌の内側で、ふたりだけに通じる空気の熱さが、人工皮膚の表面すら焦がしそうに、ハインリヒはようやく観念したように、ジェロニモの巨きな手の、長い指の間に、自分のマシンガンの指先を滑り込ませ、強く握り込んで来る。
 こんなにも変わってしまった。こんなにも変わらずにいる。こんなにも長い時間の後に、それでもこうしてまた、向き合うことを選んだふたりだった。
 会いたかった。言い訳も説明も必要ない。ただそれだけだった。
 ジェロニモの肩の辺りに額を預け、ハインリヒは肺から絞り出すように息を吐く。こんな風に体を寄せて呼吸をしていれば、体の中の武器のことは忘れられる。戦わない兵器はただ目障りなだけだ。けれど武器でないハインリヒは、ただ息をしていると言うだけで、この世界に生きて在ることができる。ジェロニモが抱いているハインリヒは、兵器ではなく、ただのひとだ。そう在れるハインリヒだった。
 背中に、ジェロニモの掌が乗る。軽く押され、上着の革がきゅっと音を立て、ハインリヒはその音を背骨越しに聞いた。それが合図のように、ジェロニモの肩へ空いた腕を伸ばし、首筋に掌を滑らせる。そのまま、短い髪の、刈り立ての芝生のような爽やかな柔らかさを指先に味わいながら、うなじの上でくくったその髪の束を、ハインリヒはやや乱暴にほどいた。
 ハインリヒの不作法を咎めもせず、はらりと首に落ちて来た自分の髪の重さに気づいてもいないように、ジェロニモは、ハインリヒの頬へ唇を落としてから、ハインリヒの青白い唇へ、自分の唇を滑らせて来る。
 一緒に、同時に、同じ時間、言い合わせたようにふたりは息を止めた。
 呼吸が再開した時には、唇の重なりはずれ、また元に戻り、滑り、重なるたびに唇は開いて、そこで通い合い混じり合う呼吸がいっそう深くなる。
 ハインリヒは手探りでジェロニモのうなじから後ろ髪をすくい上げ、手の中につかみ、そして指先にすべて絡め取ろうとした。
 以前は、指を滑り込ませはしても、絡める長さなどなかったジェロニモの髪の、重くしたたかに金属の指の根元を締めつけて来る、しなやかな艶と湿りだった。
 シャツと革のジャケット越しの膚が熱い。今は体にも赤く浮き出るジェロニモの刺青が、その形と輪郭のまま、ハインリヒの皮膚を焼いていた。
 脳の回線は開いたままだ。かすかに、ふたりと繋がったままのイワンの気配がある。ふっと目を閉じたイワンの姿が脳裏に見え、こうやってまた仲間が元通りに集うのを、嫌がるはずもないイワンの、小さな策謀だったと思い至っても、ふたりはもう、互いを探る手を止めはしなかった。

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