Metal Heart



 哺乳瓶のミルクを、全部きれいに飲んで、イワンは、背中を軽く撫でられる前に、自分でげっぷをした。
 それを見て、フランソワーズがくすりと笑い、目の前で、腰をかがめているジェロニモに、空になった哺乳瓶を手渡す。
 ジェロニモは、にこりともせずにそれを受け取り、黙ってキッチンへ消える。
 水の流れる音とともに、かたん、ばたんと、何かを開け閉めする音---食器洗い機の扉だ---が聞こえ、哺乳瓶を片付けるだけではないのか、ジェロニモはしばらく戻っては来ず、まだ何か、他の物音が続いている。
 イワンは、もう一度小さなげっぷをして、フランソワーズの顔をしかめさせ、もぐもぐとおしゃぶりを動かした。
 「おなかはもういっぱいかしら、イワン?」
 "モウ1本欲シイケド、我慢シタホウガ良サソウダネ。"
 強調するように、小さくて肉づきのよい指を、1本だけ立てて、まるでねだるように言う。
 頭の中に直接聞こえる幼い声に、フランソワーズは、だめだめ、というように首を振り、膝に抱いたイワンの、ミルクでいっぱいになったばかりのはずの小さな腹を、優しく撫で始めた。
 小さく、子守歌ではなかったけれど、子どもの頃に耳で覚えた歌を、口ずさむと、イワンが、前髪の奥の目を、気持ち良さげに閉じる。
 そうしているうちに、キッチンの物音は止み、その代わりに、ジェロニモではない別の誰かがキッチンへ入って来たのか、二言三言、素っ気のない会話を、フランソワーズの耳が聞き取った。
 ああ、アルベルトだわ。
 俺の分もあるかと、低い声が言う。キッチンを背にしていて、見えないけれど、それに向かって、ジェロニモが、無言でうなずいたのだろうと思う。
 ジェロニモが、紅茶をいれている---主には、フランソワーズのために---のだと気づいて、相変わらず小さく歌を歌いながら、フランソワーズは、背後の、キッチンとリビングを仕切る壁を振り返る。
 フランソワーズの特殊な眼に、カウンターの傍に立つ、ふたりの姿が見えた。
 穏やかに微笑んでいるふたりの間には、淡いばら色のティーコージをかぶせられた、ティーポットがあった。
 用意されたマグカップは3つで、ミルクが足りるかしらと、フランソワーズは、冷蔵庫の中を透視しようとして、それはジェロニモが心配してくれるだろうと、途中でやめる。
 フランソワーズのためだから、フランソワーズの紅茶に、まずはフランソワーズの好みに注いで、それから多分、アルベルトのマグカップへ、足りなければ、自分の分は、ミルクを入れずに飲んでしまうのがジェロニモだった。
 イワンのミルクをつくって、それを、いつもちょうどいい温度にできるのも、ジェロニモだった。
 ミルクがなくなってしまったら、アルベルトに、ついでに買い物を頼もうと、心のすみにメモをする。
 紅茶の葉の開くのを待っているのか、ふたりは、まだその場で、穏やかに微笑みあったままで、フランソワーズは、キッチンをのぞくのをやめ、膝の上で、うとうとしかけているイワンに、優しい視線を戻した。
 フランソワーズの歌に合わせて、イワンの頭が時々揺れる。丸くふくれた胃は、フランソワーズの掌の下で、イワンがさっき飲んだミルクと同じほど暖かかった。
 足音が、軽く入り乱れてリビングへやって来るのに、フランソワーズは歌うのをやめ、顔を上げて、そちらへ視線を動かす。
 湯気の立つカップをふたつ持っているのは、そう予想した通り、やはりジェロニモだった。
 部屋の半分ほどを埋めてしまいそうな大きな体を、方を少し丸め気味に、今は隣りに立つアルベルトに沿わせて、ジェロニモが、片方---少し大きな方---のマグをフランソワーズに差し出す。
 イワンの腹から手を外し、そのマグに向かって伸ばすと、
 「ありがとう。」
と、にっこりフランソワーズは言った。
 「いいご身分だな、姫君の膝の上か。」
 アルベルトが、紅茶を一口すすって、茶化すように言う。
 うとうとしているのだとばかり思っていたイワンが、アルベルトの方へ首を回すと、もぐもぐとおしゃぶりを動かした。
 "キミニ譲ッテモイイケド、じょーガ何テ言ウカナ。"
 「イワン!」
 アルベルトが何か言い返すよりも早く、フランソワーズは、頬を真っ赤に染めて、声を上げた。
 イワンをにらむフランソワーズを眺めてから、イワンに向かって大袈裟に顔をしかめて、また、大きく音を立てて紅茶をすする。アルベルトは、そうしてから、隣りのジェロニモを見上げて、かなわねえなとでも言うように、肩をすくめて見せる。
 ジェロニモが、それに笑いを返して、わずかに首を振って見せた。
 ふたりのやり取りを、紅茶の湯気越しに眺めて、フランソワーズは、滅多に見ることのない、アルベルトのくつろいだ様子と、ジェロニモのやわらいだ口元の線を、少しばかり不思議に思いながら、やっと最初の一口を、音を立てずにすする。
 丸く、下の上を転がる紅茶の香りと、それを包むミルクの甘味に、冷蔵庫の中身のことを思い出して、フランソワーズは、アルベルトの方へ、肩を斜めに傾けているジェロニモに向かって、訊いた。
 「ミルクは、もうなくなっちゃったかしら。」
 フランソワーズの方へ、瞳だけ動かして、ジェロニモが短く答える。
 「まだ、ある。でも、ほんの少し。」
 わかったわ、と目顔でうなずいて、また紅茶を一口飲んだ。
 イワンが、突然、ジェロニモに向かって片方の腕を伸ばした。
 こんな時には、テレパシーを使わずに、普通の赤ん坊の仕草で、抱いてくれとねだる。
 せっかく膝の上にいるのに、どういうつもりかしらと、フランソワーズは、こっそりと唇を突き出した。
 アルベルトに向かって傾けていた肩をまっすぐに戻し、ジェロニモが、自分のマグをアルベルトに手渡すと、そうして、イワンのために両手を空ける。フランソワーズの膝からイワンを抱き取り、いつものように肩に乗せる。
 それを目で追っていたアルベルトが、イワンに向かってかすかに眉を寄せたのを、フランソワーズは見逃さずに、そして怪訝に思う。
 "買イ物ノりすとヲ作ルラナイト、オ店ガ閉マッチャウヨ、ふらんそわーず。"
 そちらに気を奪われていたフランソワーズに、イワンが、ジェロニモの肩から突然そう言った。
 我に返って、それから、イワンには珍しい気の回し方だと思いながら、小さな戸惑いを消せないまま、フランソワーズは、やっとソファから立ち上がった。
 「アルベルト、買い物に行って来てくれるかしら。」
 まだ、両手にマグを抱えたままのアルベルトが、ああとうなずいたのを見て、フランソワーズは、3人をそこに残して、ひとりでキッチンへ行った。
 冷蔵庫を開ける前に、手の中の紅茶をもう一口すすって、マグをカウンターに置きながら、他に必要なものはないかと、キッチンのあちこちに目を凝らす。
 やはりミルク以外には、特に何にも思い当たらず、もう一度だけ、形のいいあごに指先を当てて、ぐるりとキッチンの中に視線を回して、フランソワーズは、またリビングへ戻った。
 ミルクをお願いと、そう口を開きかけて、リビングへ入った途端に、アルベルトの首の後ろに、指を差し入れているジェロニモを見て、フランソワーズは思わず口をつくんだ。
 アルベルトのシャツの、襟の後ろから飛び出していたタグを、ジェロニモが中へ押し込んでいただけなのだと悟って、それでも何か、見てはいけないものを見てしまったような気がして、不意にどきりとした胸を、慌てて押さえる。
 アルベルトが、くすぐったそうに肩をゆすって、やめろよと、ちっとも本気ではなさそうに、またなごんだ口元で、ジェロニモに向かって、笑いかけた。
 それから、やっとそこに立ったままでいるフランソワーズに気づいて、そのやわらかな笑みの浮かんだ唇のままで、買い物のことを訊く。
 「ミルクがなくなりそうだから、それだけよ。」
 声が、ほんの少し、震えていた。
 アルベルトが、じゃあと、ジェロニモに向かってあごをしゃくると、ジェロニモもうなずいて、ふたりで---イワンは、ジェロニモに抱かれたままだった---そろって、フランソワーズの傍へやって来る。
 「行ってくる。」
 そう言って、先にリビングを出たアルベルトを追って、ジェロニモも、イワンをフランソワーズに渡して、静かにリビングを出て行った。
 玄関まで続いてゆく、ふたり分の足音と、小さくささやき交わすふたりの声と、閉まったドアの向こうに、それらがきちんと消えてしまってから、フランソワーズは、腕の中のイワンを、少しだけ途方に暮れたように見下ろした。
 「ねえ、イワン・・・」
 歯切れ悪く途切れた語尾を、すくい上げるように、イワンが応えた。
 "心配シナクテモ、キミノ思ッテル通リダヨ、ふらんそわーず。"
 間髪入れずにそう返され、フランソワーズは、ジョーとのことを指摘された時のように、頬を真っ赤に染めた。むしろ、自分たちのこと以上に、戸惑う気持ちが、強くわき上がる。
 ああやって、並んで立ったふたりの、間の距離の奇妙な近々しさと、相手に見せる笑顔と、それから、あの、互いに触れ合うことへのためらいのなさと、どれも、フランソワーズ自身に、覚えのあることだった。
 "ぴゅんまトぐれーとハ知ッテルカラ、秘密ダト思ワナクテモ大丈夫ダヨ。"
 心を読めるイワンには、何も隠せない。ひとりで秘密を抱え込む、苦しさから解放されて、フランソワーズは、ふうっと、あきらめに似た意味合いのため息をこぼした。それから、その場で、くるりと踊るように肩を回した。
 「口止め料に、もう1本ミルクはいかが、ねぼすけ王子さま。」
 イワンが、フランソワーズの腕の中で、うれしそうに笑う。
 「ジェロニモのあたためてくれたミルクの方が、きっとおいしいでしょうけど。」
 "あるべるとノキゲンガ悪クナルカラ、じぇろにもノみるくハ我慢スル。"
 誰かが、隣りにいることの幸せを、ふと思った。腕を伸ばせば、いつでもそこにある、ジョーの肩の暖かさを思い出して、自分を傲慢だと知っていて、フランソワーズは、どんな形であれあのふたりが幸せなら、それがいちばんいいと思う。
 いつ、どうして、そんなことになってしまったのか、訊いたら、ふたりは答えてくれるだろうか。
 アルベルトは、真っ赤になって、むっと口をつぐんでしまうように思えたけれど、ジェロニモなら、優しく微笑んで、言葉短かに、ぽつりぽつりと、詳細は抜かしたままで、語ってくれるような気がする。
 ふたりが肩を並べて、店の棚からミルクを取り上げるところを想像して、フランソワーズはくすりと笑った。イワンも、それを読み取ったように、くすくすと一緒に笑った。
 戸惑いは、フランソワーズの胸から消えていた。
 後で、イワンが眠ってくれたら、ジョーを探して、コーヒーをいれようと、フランソワーズは思った。



唯那さまへ捧ぐ。

* 2004年2月イベントにて無料配布 *
* サイト再録にあたり、加筆修正 *

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