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月とコーヒー

 キッチンのいちばんしっかりとした張大人の仮住まいに、皆が食事に集まった夜、ひとり先に立って食器を簡単に片付けた後に、食後のコーヒーを淹れたのはジェロニモだった。
 もっとも、全員がコーヒーを飲むわけではなく、グレートは紅茶だし、イワンはほんの少しだけハチミツを入れたミルクだし、そしてコーヒーと言っても好みの濃さが違うので、全員にきちんと気配りをして、ジェロニモは出したマグのひとつひとつに、違う量の砂糖とクリーム、あるいはミルクを入れてゆく。
 グレートの、濃い目に淹れた紅茶にはミルクだけ注ぎ、葉を蒸らす時間はきちんと砂時計で測った。
 ピュンマとフランソワーズのコーヒーは大体同じくらいの濃さで、ジョーは出されたものに文句は言わないので、このふたりと同じコーヒーを出す。ピュンマはクリームだけ、フランソワーズはクリームと砂糖、ジョーは砂糖はフランソワーズの半分だけれど、牛乳をクリームの倍入れる。
 張大人は中国茶ではなく、ストレートの紅茶だ。ただしグレートよりは少し弱い方が好みだ。
 ジェットのコーヒーは、ピュンマたちと同じものに後で少しだけ湯を足す。それにできるだけたくさんのクリームと砂糖。それでは色のついた砂糖湯だとジェロニモは思うけれど、ジェットはそれでいいと言う。
 ギルモアはいちばん濃いコーヒーを、何も入れずに飲む。ただし量は少なく。
 グレートの紅茶は、薄手の、取っ手が優雅な線を描くティーカップにそっと注ぐ。張大人も、同じ揃いのカップを使う。
 フランソワーズとジョーの小ぶりのマグは、特に揃いと言うわけではないけれど、並べば一緒に買ったのだろうと思う、何となく形の似通った一対だ。
 ピュンマとギルモアとジェットのマグは、普段使いにする類いの、ただ白い丈夫なやつだ。ピュンマのには8分目まで、ギルモアのには半分程度、ジェットのそれには縁まであふれそうになみなみと注ぐ。
 皆のコーヒーや紅茶を用意しながら、片腕にワンを抱いて哺乳瓶でハチミツ入りのミルクを飲むのを監督して、キミハ器用ダナアとイワンが半ば呆れたように話し掛けて来るのに、ああと愛想のない相槌を打ち、仲間たちがそれぞれ家の中へ適当に散らばって行った後で、ジェロニモはようやく自分の分のコーヒーに手を着ける。
 イワンは半分ほどミルクを飲み終わり、続きは張大人の柔らかな腹で半ば眠り掛けながら飲みたいのか、ふわりとジェロニモの腕から浮いて、ジャアネとどこかへ消えてゆく。
 ああ、とまた愛想のない返事を送って、ジェロニモは自分の手元へ視線を戻した。
 言葉数は少ないけれど、実はコーヒーの好みに相当うるさいハインリヒの分が、いちばん気を使う。少なくとも、使うカップにまで一家言あるグレートよりは多少ましかと思いながら、ジェロニモはハインリヒのための1杯を慎重に淹れた。
 マグはピュンマたちのと同じものを、入れるのはクリームだけだ。ジェロニモ自身のコーヒーもまったく同じに注いで、けれどジェロニモが使うマグは少し変わった形をしていて、これはフランソワーズがわざわざ手に入れて来てくれたものだ。
 ふたりで散歩に出掛けて、ジョーが市場で見掛けたのだそうだ。持ち手のない、日本の湯のみを大きくしたような形をジョーが面白がり、普通のマグでは取っ手に指先を入れられないことのあるジェロニモのことをフランソワーズがその時思い出して、これなら持つのに苦労がないだろうと、わざわざ買って来てくれたのだ。
 ビールマグじゃないかと、見てすぐにグレートとハインリヒが声を揃えた。なるほど、酒を飲むものかとジェロニモはただ思って、それでコーヒーを飲むのはいかにもジェロニモらしいと先のふたりが声を立てて笑い、そんなつもりじゃなかったのよとフランソワーズが頬を赤らめ、ジェロニモがそんなことは気にしない、ありがとうと言う前に、ジョーがフランソワーズの肩を抱き寄せて、大丈夫だよジェロニモはそんなことは気にしないよと言った。
 相変わらずのふたりをちらりと見て、ほんのわずかの間胸がうずいたのを、ハインリヒに見咎められたらしいのに、ジェロニモは気づいて慌てて視線を他へさまよわせた。
 そのビールマグを持ち、もう一方の手にはハインリヒのコーヒーを携えて、ジェロニモは家の裏へゆく。わずかな庭に低い囲いが回り、隣人が誰かは知らないけれど夜には静かなそこで、無造作に置かれた庭用の椅子に腰を下ろして、ハインリヒが本を読んでいた。
 まばらな街灯の明かりもろく届かない場所で、月明かりだけで小さな文字が読めるのはターゲットアイのおかげだ。肩越しにマグを差し出すと、ああ、と鉛色の右手が伸びて来る。
 「イワンとギルモア博士は今夜はここに泊まるんだろう。」
 「グレートもだそうだ。」
 誰に対しても素っ気のない同じ言い方で答えながら、ジェロニモはハインリヒの左隣りに腰を下ろす。ドアの前に組み合わされた石の段差が、カーゴパンツの生地を通して冷たい。けれど両手に抱えたマグは熱く、白く上がる湯気越しに見える他の家の窓の明かりに、ジェロニモはすかすように目を細めた。
 そうする視界の端に、ハインリヒが口元へマグを運ぶ仕草をきちんと引っ掛けて、ひと口飲んでかすかに頬へ浮かべる表情に満足の色が通り過ぎたのを確かめてから、ジェロニモはやっと自分のそれへ唇を寄せた。
 家の中から、時々笑い声がもれ聞こえて来る。主にグレートのそれと張大人のそれだ。ギルモアの枯れて細い声もまれに混じる。ジョーとフランソワーズの声は、もっとひそやかで、他の声と隔たっていた。ふたりは長居はしない。ジェロニモがわざと少なめに注いだコーヒーをぬるくなる前に飲み干して、じきに姿を消すだろう。
 ふたりの姿がないことに気づいて舌打ちをして、コーヒーを飲み残したまま次にジェットが姿を消す。そのジェットのマグを自分のと一緒に片付けて、ピュンマがお休みと言って去る。
 ジェロニモはハインリヒがコーヒーを飲み終わった後で、キッチンを完全にきれいにしてから立ち去る。その頃にはギルモアはもうベッドに入っていて、イワンを寝かしつけるのは今夜は多分グレートだ。
 ハインリヒはどうするのかと、ジェロニモは思った。思って、まったく別のことを訊いた。
 「何を読んでるんだ。」
 5秒間(ま)が空き、次のページを繰ってから、
 「夏目漱石。」
 ぶっきらぼうと言うのではなく、簡潔にハインリヒが答える。
 その答えを聞いてから、ジェロニモはもう一度、湯気越しの目の前の風景に向かって目を細めた。
 「・・・月が綺麗だと今私が言ったら、君は笑うか。」
 またページを繰る音が、今度はやけに大きく聞こえた。
 ジェロニモの淹れたコーヒーをまたひと口飲んでから、ハインリヒが本から目を離さずに言う。
 「おまえさんが言わなきゃ、俺が言うさ。」
 掌に乗りそうなかっきりとした沈黙が、ふたりの周囲を辺りから切り取り、他の音をすべて吸い込んでしまったように思えた。その後で、ふたりは同時にコーヒーを飲んだ。
 両手に挟むように抱えたマグはまだ熱く、けれどそれのせいではなく、首筋と頬にうっすらと刺青の緋(あか)が浮き上がる。体温の上昇を自覚して、ジェロニモは刺青よりもずっと淡い赤を頬に刷いた。
 フランソワーズとジョーとジェットとピュンマの声が、足音たちと一緒に動く。抑えた騒がしさが家の表へ向かって移動し、裏庭のふたりから隔たってゆく。その気配へ肩越しに振り返ってから、もう立ち上がってキッチンへ戻り、片付けを完全に終わらせる潮だと、ジェロニモはまだそうする気にはなれずに思って、視線を戻しながらハインリヒを眺めた。
 コーヒーはまだ半分ほど残っている。ハインリヒのもそうだろう。ここが自分の住処なら、もう1杯どうだと引き止められるのに、ここではそういうわけにも行かない。
 ジェロニモは渋々立ち上がるために後ろへ手をつき、軽く腰を持ち上げた。
 「──明日の朝も、おまえさんの淹れたコーヒーが飲みたいんだが。」
 ジェロニモはそこで体の動きを止め、やや下からハインリヒを見上げた。ハインリヒは澄ました表情で読書を続けていて、けれど視線の端でジェロニモの表情を窺って、答えを待っている様子が見て取れた。
 「・・・また私が淹れるのは、不公平だと思うが。」
 立ち上がる動作に紛れて、ジェロニモはハインリヒを見ずにそう言った。
 「おまえさんが明日の朝淹れてくれたら、明日の夜は俺が淹れる。」
 ハインリヒは相変わらず本から視線を外さない。この男なりの、照れ隠しの仕草だと、ジェロニモは思った。
 もう家の中へ爪先を向けて、
 「君が淹れてくれるなら、紅茶の方がいい。」
 ハインリヒの淹れるコーヒーは、ジェロニモには少しばかり濃過ぎる。その味に、ジェロニモはまだ慣れ戻ってはいない。
 ハインリヒが肩をすくめて、また次のページを繰った。
 「了解(ラジャー)。」
 家の中へ体半分戻りながら、ジェロニモはもう一度ハインリヒをちらりと見た。上へずらした視線の先に、楕円の月が見える。
 明日の夜も、月はきっと綺麗だろう。一緒に紅茶を飲みながら、また月を見上げて、月が綺麗だと先に言うのはどちらだろう。
 砂糖を入れない濃いコーヒーが、なぜか舌の上に甘かった。

☆ ある日のワンドロに無理矢理参加、そしてこちらへのオマージュ。
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