午睡
珍しく、長々とソファの上で体を伸ばして、ジェロニモが眠っていた。はみ出した左肩から、腕は床に落ちて、左足も座面からずり落ちている。歯列が覗くか覗かないかくらいにうっすらと開いた唇から、かすかに寝息が聞こえて来る。
ハインリヒはそれを見つけた途端に一度そこで足を止め、それから気配を消して、そっとジェロニモの傍へ寄った。
どうしようとはみ出す巨きな体で、ソファはほとんどひしゃげそうになっている。上体を前へ折って、上から覗き込んだジェロニモは、近々と寄ったハインリヒの気配にも目を覚まさず、後ろで束ねた髪が押されて少し乱れていた。
ゆっくりと上下する腹の上には、読み掛けでそこに開いてうつ伏せに置いたままの本。ハインリヒは、それを見咎めると、本の背表紙に乗せられたジェロニモの手を、何とかわずかに持ち上げて、そこから本を抜き出した。
本の重みがなくなったせいかどうか、ジェロニモはそれから落ちていた左腕を持ち上げて肩を起こし、ソファの背へ向かって軽く寝返りを打つ。起こしたかと、ちょっと肩を縮めて、ハインリヒはジェロニモの眠りがそのまま続くのをしばらくの間見守った。
開いたページへは、コーヒーテーブルの上にあった、使っていないコースターを挟み、音をさせないように本をそこへ置く。ふと見た表紙に、壁があった当時のベルリンでの暮らしについてと副題があって、けれど著者の名前はドイツ語ではなく、ハインリヒはちょっと興味をそそられて本の表紙を剥き出しの右手で撫でた。
GSG-9の生徒たちの中には、壁のことを実際には知らない若い連中もいる。そこにそんなものが在ったのだと、家族の話や写真でだけ知っていて、それに隔てられて暮らしていた同じ国の人間たちの生活を、彼らはもう想像することしかできない。
本に触れている右手に、まだ生身だった頃に触れた壁の硬さと冷たさが甦り、ハインリヒはひと時過去へ心を戻す。まるで、世界の果てのようだった、あの壁。そこから向こう側へ行けば、すべてがばら色の素晴らしい生活が待っているのだと思っていた。
そしてその向こう側とやらへ実際に来てみれば、手に入れるはずだった自由は奪い去られ、それは永遠にハインリヒの手の中から消滅した。そして壁も壊され、消え、今ではそんなものが在ったことすら知らない人間たちで、今では国中──東西統一ドイツ──あふれ返っている。
時間の流れは誰にも止められない。たとえハインリヒたちが、改造された体で時間の中へ立ち尽くしているのだとしても、それでも傍らを時間はさっさと通り過ぎてゆく。自分たちの変化を置き去りにして、世界は随分と変わってしまった。
ハインリヒはやっと本から視線を外し、また、眠っているジェロニモへ向き直る。
髪を長く伸ばし、顔の刺青を消し、この男も変わってしまった。名乗られなければ一瞬そうと分からないほど、つるりとあの白い線の消えたジェロニモの顔は別人のようで、それでも濃い茶色の瞳の穏やかさも、滅多と余計なおしゃべりで開くこともない唇も、よく見れば昔と同じままだ。
見開いた瞳に映る自分の姿が見えるほど近々と顔を寄せ合って、装甲にかぶせた人工皮膚をこすり合わせて、サイボーグ同士がそうして抱き合うことの不毛さに、あの頃はまだ気づかない振りをしていられた。まるで生身の人間同士のように、そうできることに夢中になって、自分たちはやはり人間なのだと、生身の体でなくてもいいのだと、その発見を滑稽なほど重くとらえて、今ならそれは何も特別なことではなく、ひととひとがただ出逢って魅かれ合っただけのことなのだと分かる。
そう思えるようになった自分も、ジェロニモと同じほど変わってしまったのだ。見掛けだけでなく、この中身がだ。時間の流れと一緒に、変質してゆく自分の内側をじっと眺めて、いつか、変わらない外見に騙されたように、そこから大きく隔たってしまった自分の本質に、こんなに親(ちか)しくなってしまったジェロニモならすぐに気づくだろうと思った。こんなはずではなかったと、そう失望される前に、離れてしまうのが一番だと思った。
俺は、おまえさんが考えてるような男じゃない。
過去に背を向けて、そのくせそこから一歩も動けないほど過去に囚われて、だから目の前を過ぎてゆく時間に取り残されて、そのことをさらに恨む。凍った時間の中で、恐ろしいほどひとりきりだと思った。
伸ばされた手を、一度は取ったのに、それを振りほどいたのは自分だ。あちらではなく、こちらへ進むと、今度こそ背を向けた過去と訣別して、自分の選んだ道を進むのだと、そう決心したあの時の自分を、ハインリヒはそれを新たに抱き始めた強さの証拠だと信じた。
それが、逃げることなのだとしても、それでも自分はどこかへ向かって進んでいるのだと、信じていたのは一体いつまでだったろう。壁は完全に過去のこととなり、過去のこととして語られ、それはすでに歴史と呼ばれるものになってしまっていた。壁の前に、今も立ち尽くしているハインリヒもまた、固定され、様々勝手に語られる、過去の歴史の一部となっていた。
俺は、こんなもののために、大事なものを捨てて来たのか。
ハインリヒにとっては現在(いま)であることすべて、過去へと追いやられる。それは重たいのに捨てることはできない荷物のように、ハインリヒの足元へうずたかく積み上がって、それを、何の価値もないがらくたのように語られることに、心底虫唾が走った。
だから、今があるのは過去があるからだと、情報ばかりが溺れるほど溢れているくせにあらゆることがぶつぶつと断ち切られてただのひと塊まりの断片にされるこの世の中で、ひとり叫んでみたいと思った。大声で、自分は、あの壁に触れ、拳で叩き、そしてあそこから抜け出そうした──実際に、抜け出しはした──愚かでも真摯だった人間のひとりだと、世界に向かって叫んでみたいと思った。
あの壁はリアルだ。ただの文字や写真ではなく、ただの石くれではなく、地面に残るかすかな跡ではなく、目の前にそびえ立っていたあの壁は、ハインリヒにとっては永遠にリアルだ。
だから、と思う。せめて、あれに直に触れたのだと言う記憶を、記録としての過去ではなく現実のこととして共有し合える仲間のところへ戻りたいと、ハインリヒは心の片隅で思った。
あの壁のために、一体何が起こったのか、一体誰がどう苦しんで、そして苦しんだまま名もなく死んで行ったのか、あの壁には、墓すらない人々の顔のひとつびとつが見えない線で刻まれていたのだと、ハインリヒは知っている。そして、思い出とともに死んで行った、死んでゆく人たちの屍すら越えて、風化してゆく過去に必死にひとり抗っている。
死ぬことが恐ろしいのではなく、何より恐ろしいのは、忘れ去られてしまうことだった。忘れ去られ、なかったことになってしまう、ハインリヒはそのことを恐れている。
改造され、一体これからどれほど生き続けるのか想像もつかないまま、その果てもなく思える生には、多分意味があるのだろう。人たちが忘れてしまっても、ハインリヒは憶えている。忘れることはない。たとえ最後のひとりが死に絶えても、ハインリヒはあの壁のことを絶対に忘れない。
そのために、あの時死に損ない、今も生き続けているのだ。
そして、と、ハインリヒは鉛色の指を軽く曲げて、眠っているジェロニモの頬を撫でた。
今はまた、ひとりではない。ひとりきり生き続けなくていいのだと、あるいはその選択は明らかな逃げかもしれなかったけれど、凍った時間の中にただ立ち続けるその傍らに、手を伸ばせば触れられる誰かがいることを、今は素直に幸せなのだと信じられた。
長過ぎる生のその連れに、大事な誰かが在る。伴侶と言うのは、文字通りの意味で、一緒に生き続ける魂の同志だ。死んだ後──そんなことが、いつか起こったとして──も恐らく、錆びて朽ちるハインリヒの体と絡み合うようにして、ジェロニモの大きな体が赤錆だらけで横たわっているような、そんな気がした。
寝息の気配がなければ、驚くほど静かなジェロニモの寝顔へ、ハインリヒは数秒微笑みを向けた後で、そっと唇を近づける。起こしたりしないように、触れさせただけだったのに、さっきまでは本を抱いていたジェロニモの腕が、今度はハインリヒの背中へ回って来た。
「──起こしたか。」
紙1枚ほどの距離で訊くと、ジェロニモはわずかに首を振って見せる。
「寝てたんじゃないのか。」
質問のような確認のような、ハインリヒがさらに距離を開けて眉を寄せると、ジェロニモはわざとはぐらかすような、ちょっと意地の悪い表情を浮べた。
それが、ハインリヒが同じような時に浮かべるのと同じ表情だと、ハインリヒ自身は気づかず、そんな風に表情を写し合うほどまた互いの近くへ戻って来たのだと、さらに輪を縮めるジェロニモの腕が、淡く喜びを語っている。
ちょっと強引にハインリヒを自分の上に引き寄せて、ジェロニモの上にハインリヒが乗り掛かると、ソファが盛大に悲鳴を上げた。
「・・・ちょっと狭過ぎないか。」
言いながら、それでも何とかソファの上に納まるように自分の手足の位置を模索して、ハインリヒは高く盛り上がったジェロニモの胸の上に顎を乗せ、今は縦横に走り始めているジェロニモの赤い刺青の線を、頬骨の上に探る。
あらゆることが変わってしまった。そしてあらゆることが変わり続ける。それでも、こうして触れるジェロニモの、皮膚のなめらかさや手首の骨の硬さは変わらない。そして、抱き合えば、ジェロニモの魂の端へ触れたような気分になる、このぬくもりも変わらない。
ジェロニモの、肌の上に刻まれた線。ハインリヒが壁のことを忘れないのと同じように、ジェロニモもまた、消え去ることのない過去を胸の内に抱え込んでいる。
どうせじきに、ソファの座面から滑り落ちて、床の固さに閉口した後でベッドへ移ることになる。それでも今は、このソファの狭さを存分に愉しみたかった。
あちこちにはみ出そうとする手足を互いの体に巻きつけて、ふたりは熱っぽく唇を重ねた。ハインリヒは右手をジェロニモのシャツの下へもぐり込ませ、ジェロニモの手に従って、素直にその巨きな体の下へ敷き込まれてゆく。
ジェロニモの、岩のような肩越しに、テーブルの上の本がちらりと見えた。触れる体の硬さが壁のことを思い出させたけれど、それは決して不快な気持ちではない。
あの壁のように打ち倒されて消えたりはしない自分たちは、やはり人間なのだと、ジェロニモの背中を両腕に抱きしめて思う。
中断させてしまった穏やかな昼寝を、今度はふたりで再開するのは、もう少し後のことだった。