ある日の午後
海から戻って来て、昼食にと張大人が大盤振る舞いをしたせいか、みなまだ空腹には程遠く、夕食は少し遅めにすることに合意して、フランソワーズとイワンは一緒に昼寝をしに、ジョーもそれに付き合うつもりか姿を消し、ピュンマはグレートとチェスをすると言って、張大人はジェットを手伝いに、今日の荷物の片付けをするのだとガレージに消えた。
特にすることもなく、ハインリヒは何となく居間に残り、それに気を使ったのか、ジェロニモがコーヒーをいれ、テレビをつけたハインリヒに付き合うことにしたらしかった。
週末の昼間に、特に面白い番組があるわけもない。海外--主にアメリカ、という意味だ--のニュースが見れるチャンネルを見つけると、ハインリヒはリモコンを放り出し、ジェロニモが手渡してくれたコーヒーのマグに両手を添える。
大きなソファに遠慮なく手足を伸ばして、ジェロニモはひとり掛けのソファに、何となく窮屈そうに体を納めている。
次から次へと繰り出されるニュースは、大抵は気の滅入るものばかりだ。
殺人、あるいはある種の有名人の自殺、でなければ何かして逮捕されたとか保釈中だとか、いい加減近頃ではうんざりしている、世界中のテロリストたちの話題、どこかに戦争に行ったどこかの国の誰かが戦死したとか、あるいは逆に、"敵"に与えた損害がどのくらいだとか、これに目の色を変える誰かも、この世界のどこかにいるのだと思うと、いつもやり切れない気がすると、ハインリヒは思う。
海に行くために、今は全身をきちんと人工皮膚で覆って、武器まみれとはとても思えない自分の体をちらりと見下ろして、ハインリヒはひとりでこっそりと、いつもの皮肉笑いをもらした。
「相変わらず、人間ってのは殺し合いが好きだな。」
まるで自分が人間ではないような口調で言ってから、コーヒーをひと口すする。話し掛けられたと思ったジェロニモがこっちを見たけれど、カップの陰に隠れて、ハインリヒの皮肉笑いをためた頬の線は見えない。
「俺たちがわざわざ呼ばれないだけマシなのか。」
今度は、ひとり言めいていた。
ジェロニモがぶ厚い肩をすくめたそうにして、代わりに、ちらりと片方の眉のをかすかに持ち上げた。
海でも、似たような話をした。ひとと言うのは、闘うことが大好きなのだ。暇さえあれば、誰かを叩きのめして、あるいは殺すことも厭わず、自分だけが生き残れる優れた種なのだと表したがっているように、戦う機械にされてしまったからこそ、人間のその衝動を、ハインリヒはもう醜悪としか感じられない。
ひとではない体で、けれど、もしかすると最もひとらしさを強調されたのが自分──たち──なのかもしれないと考えれば、機械まみれのこの体の方が、よほどひとらしさの象徴だと思えることが、それが現実逃避なのか、それとも突きつめてみた真実なのか、どちらともわからずに、ハインリヒを、そうとは知らせないまま苦しめ続けている。
もう決してひと扱いはされない自分たちが、実はいちばんひとらしいのだというその考え方は、どうしようもなく絶望を足元へ引き寄せる。
ひとと言う種が、絶望的に破壊的な、それがいずれは己れを破壊する羽目になるという結果すら厭わず──あるいは、無知という、与えられた恩恵のせい──に、破壊を続けるその様を見ながら、自分が、その究極の形に改造された皮肉を、そして自分が、もう決してひととしては扱われないというさらなる皮肉を、ハインリヒはずっと心の中で笑い続けている。
きれいに着飾った女性アナウンサーが、至極真面目な顔つきに少しばかり憤った口調で、どこかの議員がどこかの政治家と手を組んで、どこかに大量の武器の調達を頼んだとかどうとか、変わり映えのしない内容を伝える。
ハインリヒはもう表情も変えず、またコーヒーを黙ってすすった。
それから、今度はやけに明るい表情の別のアナウンサーが、新しい映画の話題を始めた。売れっ子のコメディアンだという男が、突きつけられたマイクに向かって、映画の内容をぺらぺらと語る。
町の中が化け物ばかりになり、わずかに人間のままの住民が、手製の武器を作って反撃する、結末にはさすがに触れない──容易に想像がつく──まま、そのコメディアンは面白おかしく手振りを交えてインタビューを終わらせ、楽しんでくれと言い終わって笑顔が画面から消えた。
ニュースの殺伐さとその男の口調の軽薄さの対照こそがコメディに思える。ハインリヒはうっかり苦笑をもらしてから、
「どこかの国で人間を殺して、映画の中でも化け物を殺しまくるわけか。」
いつもよりもいっそう皮肉を込めてつぶやくと、今度はジェロニモが顔を上げた。
「・・・容赦なく殺せる何かが必要なように見える。」
ハインリヒよりもさらに短い、前後に何の説明もないジェロニモのそのつぶやきは、普段胸の内など特には語らないジェロニモだったからこそ、発した言葉の殺伐さと一緒に、ハインリヒの耳を鋭く刺した。
ふん、と肩をすくめ、はっきりとは同意を示さなかったのは、昔に一度虐殺する側に回ったと言う、いまだその烙印を消せないドイツ人が、すでに半世紀以上抱え込んでいる忌まわしい過去のせいだ。
ジェロニモは逆に、別の地で虐殺される側だった、その生き残りの末裔だ。
自らがじかに関わったわけではなかったけれど、その過去にとらわれずにはいられない、真逆の歴史を背負わされたふたりは、胸を同時によぎった複雑な思いに、ふと視線を合わせる。
「生け贄のようなものだ。良心の痛まない、罪悪感も生まない、殺すことにためらいがなく、消えたところで誰も悲しまない、そう思える何かを、この世界は必要としているように見える。」
珍しくなめらかに、ジェロニモが言った。
ハインリヒは表情を変えずに、すらりと続きを引き取った。
「原住民や黒人やユダヤ人や、宇宙人や化け物や、あるいはただ貧しかったり体が不自由だったりする連中のことか。」
怖気もせずに紙の上の文字でも読み上げるような口振りで、ひらひらと右手を振って見せながら、口元にはいつもの皮肉の冷笑が浮かぶ。
ハインリヒの挑発には乗らず、ジェロニモが静かに付け加える。
「違う神や正義を信じているものもだ。」
「神を信じない人間もな。」
「・・・そうだな。」
何か言いたそうにハインリヒを見やってから、ジェロニモはうなずいて見せた。
ニュースはまだ続いている。今はどこかの誰かが、巨額の賠償を求めて誰かを訴えているとか言う話題だ。
「俺はもう、人間がほんとうは平和を求めてるなんてことを信じるほどナイーブじゃない。人間てヤツは──もちろん、俺みたいな白人ってことだが──いつだって誰かを殺したくてうずうずしてるんだ。殺されるのが自分でなければいい、自分の家族でなければいい、自分とまるきり似てなければいい、対等の人間だなんて思ってやしない、自分以下の、人間以下の、人間じゃない何かだ。」
笑いに紛らわせたはずの語調が、いつの間にか知らずに激しさを増している。ハインリヒは、気づかないまま続けた。
「おまえさんの言う通りさ、何かだ、誰かじゃない。殺したってかまわない、死んで目の前に横たわっても心は動かない、虫の死骸と同じだ。いや虫ですらない、多分、ただのゴミだ。俺たちもそうだ。俺たちは死なない、ただ壊れるだけだ。」
足元辺りに視線を這わせて、ジェロニモは音を立てずにコーヒーをすする。濡れた唇をすり合わせるようにして、その間からぼそりと言う。
「おれたちはゴミじゃない。」
そう言えばジェロニモは、滅多と人の言うことを否定したり、語尾を引き取って覆いかぶせるような言い方をしたりしないと思って、自分が今理由らしい理由もなく腹を立てていると同じに、ジェロニモも同じことに同じようにきちんと憤っているのだと感じたから、ハインリヒは自分の口調を改めるために、こっそりと息を吸った。
「少なくともおれたちは、壊れれば必死に直そうとしてくれる誰かがいる。おれたちを、ゴミ扱いしない仲間たちがいる。」
ハインリヒが呼吸を整える間に、ジェロニモが慣れない楽器を演奏するように言葉を並べ、その切れ目のリズムが少し外れているように思えることが微笑ましくて、ごく自然に"おれたち"と口にするジェロニモの、飾り気のない優しさに触れた気がして、ハインリヒは皮肉笑いをほんとうの微笑にうっかり変えてしまっていた。
「・・・そうだな。」
さっきジェロニモがそううなずいた通りに、まったく同じ口調で答えて、
「人間たちが誰かを殺すために憎みたがっているなら、おれたちは人間ではないから、憎まなければいい。憎む必要はない。」
「違うさ、殺すのに憎しみはいらない。あれはスポーツだ。ピュンマの話の通り、あの話は皮肉なんだ。スポーツは戦争の代わりでしかない。ヒマつぶしに虐殺もいいが、死体の後始末が大変だ。武器にも輸送にも手間も金もかかる。だから一部の人間たちは、殺し合う代わりにスポーツやらオリンピックやらで戦うわけだ。一見平和に見えるが、実体はどんなものやら、だ。殺し合うよりはマシだろうが、吐き気がするのは正直どちらも同じだ。」
鎮めたばかりの口調が、また激しさを増す。
この類いのことを、ハインリヒは普段は絶対に口にしない。するのは、この仲間たちと一緒にいる時だけだ。
ドイツ人であるということは、ハインリヒを不正直にする。ほんとうに思っていることを、そのまま口にすることはできない。国全体がいまだ戦争犯罪人と見なされているドイツ人たちは、先人たちのやった虐殺の咎を世界全体から負わされて、それについて謝罪以外の何か口にすることを、暗黙の内に禁じられてしまっている。
それが正しいことなのかどうか、ハインリヒは近頃疑問に思うことが増えていた。
そのことを、違う立場で虐殺された側であるジェロニモに言っても構わないとはさすがに思わないけれど、ジェロニモなら、ハインリヒの言うことを頭ごなしに否定したり、不遜だと軽蔑したりはしないだろうと思えた。
自分を人間だと思えないのは、ゴミだと思っても平気なのは、サイボーグに改造されたからではない。ドイツ人だからだ。世界中の誰もが、すべてを鮮明に記憶している虐殺を行った、冷血な人間のひとりだからだ。
ジェロニモは、人間ではないとされて、追われて殺され、誇りを踏みにじられて、すべてを奪われた。
ハインリヒは、歴史を元に、誇りを持つことを許されなくなった。人であるということ、過去に起こってしまったことと今の自分は関係ないじゃないかと口にすること、自分は人殺しではないし、人を殺す気などないし、差別主義者でもないと言うこと、そのすべてを、ドイツ人に生まれたというだけで奪われてしまっている。
ジェロニモもハインリヒも、自分の生まれに胸を張ることを許されていない。人であるという原初の、"自分は自分だ"という部分には最初から含まれていないのだ。
選んで生まれたわけではない。生まれた時に押された烙印を抱え込んで、けれどジェロニモはそれをあるがまま受け入れ、ハインリヒは、サイボーグだという言い訳を使って、生身のままであろうと恐らくきちんとした人間扱いをされていなかっただろうという現実に、気づかない振りをしている。
その振りも、一体後どれだけし続けられるだろうかと、ハインリヒは、不意に何も言わずにテレビを消した。
「まだ、コーヒーはあるか。」
今までのことをすべて忘れ去ったように、ハインリヒはさらりとした口調で訊く。その口調を写して、怪訝な表情も浮かべずにジェロニモがうなずいた。
「何なら、砂糖を入れよう。」
聞いた途端に口の中いっぱいに広がった甘さの記憶に、貧しさの象徴のような、さとうきび畑の景色が重なった。甘さの記憶は家族、つまりはハインリヒのひとらしさの部分へ繋がり、脳裏の景色は、改造された体の重さをするりと思い出させた。
わざわざ砂糖と言ったジェロニモの意図を悟って、言葉が通じ過ぎるというのも問題だと、顔には出さずに考える。
「・・・砂糖か。甘いのはいいが・・・」
甘さと苦さの両方を含んで、ハインリヒが言い淀むと、ジェロニモがうっすらと微笑みを浮かべて、
「ココアを混ぜればいい。甘くなりすぎなくていい。」
ミルクを注いだコーヒー色の頬が、何もかも苛立たしいこの世界を少しでもなごめようとするかのように、さらに美しい微笑みにゆるむ。
精製された砂糖のように白いハインリヒの頬も、つられたように笑みの線を作る。
よく練って湯で溶いた本式のココアは、そう言えばピュンマの肌の色そっくりだ。
イタリア辺りで飲める、その甘さと苦さのほどよく混じった、得体の知れない──けれど、不思議と美味い──飲み物が、近頃アメリカの大きなカフェのせいで流行っているのだと、そう言えばジェットが言っていたと思い出す。
戦争が大好きで、あらゆる場所で起こる揉め事に嘴を突っ込まずにはいられない──そして、引っ掻き回して事態をより悪化させるのも大得意だ──アメリカという国で、そんなものが流行っているという話もおかしなものだと、ハインリヒは皮肉を込めずに思って、気づかずに今は自然に微笑んでいた。
何もかも混ぜてしまえばいい。どこからが何で元が何だったか、わからなくしてしまえばいい。ただ美味いと、そう思えばいいだけだ。
マグを持って立ち上がる、今この瞬間にも、どこかで誰かが殺されている。理解できる理由があるかもしれないし、理不尽な無駄死にかもしれない。
それでも、少なくとも今ここには、憎しみや悪意というものがないのだと確信して、そのささやかさにハインリヒは感謝することにする。
求めても得られないからこそ、求め続けるのだ。求め続ける限り、前に進むことができる。この世のすべてが穏やかに平和に幸せにと願いながら、自分たちが朽ち果てるまでにそれが実現するかどうかと疑問に思うことは止められず、それでも、そう願うのが自分ひとりではないということが、ハインリヒに──そして、すべての仲間たちに──わずかな勇気を与えてくれる。
立ち上がって揃わない肩を並べ、ジェロニモはいつの間にかハインリヒのマグを取り上げてしまっていた。
ココアをきちんと練るために湯を沸かし、マグに新たに入れた深いこげ茶の粉に、真っ白い砂糖を混ぜるジェロニモの、丸まった大きな背を眺めながら、その傍にゆっくりと立ち上がり始めるやわらかな湯気を見て、甘くて苦いあたたかなその飲み物が出来上がるのを、ハインリヒはじっと待っている。
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