片恋
深夜の、トラックの運転手たちのための食堂で、ハインリヒは軽い食事の後にコーヒーを飲み終わって、またこれから夜通し走り続けるために立ち上がった。レジで食事分の金を払おうと、上着のポケットを探りながら歩いている時、静かに流れる有線の音楽が、聞いたことのある曲に変わる。ふと足を止め、音のする方へ首をねじり、天井近くへ吊り下げられているスピーカーへ、数秒視線を縫い止めた。
別に好きな曲ではない。4、5年前だったか、初めて聞いて、可もなく不可もなく、狙った風に感傷的なメロディーだと、やや批判的に思った記憶がある程度の、そんな曲だった。
歌詞もろくに聞かず、そしてそれほど印象的な内容でもない、口遊めと言われても、聞き終わった後でほとんど耳のどこにも引っ掛かった部分が残らない、耳にしたことすら忘れてしまうような、そんな曲だ。
それなのに今、ふとその曲を懐かしいと思って、ハインリヒは足を止め、その時はただ感傷的なだけだと思ったメロディーに、思わず耳を傾けている。
ゆっくりとレジへ行き、ゆっくりと金を払い、それから、食事のテーブルのスペースとは向かい合う形になっている、生活用品を置いてある棚の方へゆっくりと足を運ぶ。この曲を、終わりまで聞いてから立ち去るつもりだった。
よく聞けば、メロディー以上に感傷的な内容の歌詞だった。
こんな歌だったかと、半ば驚きながら、棚の間を歩きながら思う。初めて聞いた時には、一向に耳で聞いている以外の感覚のない曲だったのに、深夜を過ぎた、人のいないこんな時間のせいなのか、あるいは長い1日で疲れているせいなのか、言葉のひとつひとつが、やけに心を揺さぶって来る。なぜだと思いながら、特に思い入れられるとも思えない、陳腐と言ってしまえばそれまでのような歌詞の一語一語を、ハインリヒは聞き逃すまいと、知らずに耳を澄ませている。
曲の終わりに、奇妙な名残惜しさを感じたところで、歩幅の大きな足音が、ドアを開けて入って来た。
振り向くと、浅黒い肌の、中近東系らしいたっぷりとひげを生やした男が、こんな時間とも思えない生き生きとした表情で、レジの女に手を軽く上げ、訛りのきついドイツ語で挨拶をしているのが見えた。
その男の背中が、テーブルの方へ向かってゆくのを見送ってから、ハインリヒはまたゆっくりと、ひとり食堂を後にした。
広い駐車場には、男が乗って来たらしいトラックとハインリヒのトラック、そして、どうやら運転手が仮眠中らしいトラックが数台、すぐ傍の高速からは絶え間なく車の走る音が聞こえて来る。そちらへちらりを視線を投げてから、ハインリヒは自分のトラックへ乗り込んだ。
ハンドルへ片手を置き、すぐにはキーを差し込むこともせず、ハインリヒはフロントグラスから見える、薄暗い駐車場へ目を凝らした。
見ているのは、舗装され白い線の引かれたその路面ではなく、何か別のものだったけれど、とりあえずはそこへ視線を据え、ハインリヒはさっき聞いた曲を、頭の中で反芻している。
聞き取って、覚えている言葉のひとつびとつを思い出し、何とか繋げて、今回はまるで刻み込まれたように鮮やかに甦るメロディーの上に乗せる。
あの時は、ちっとも好きだと思えなかったのに、なぜ今、こんなにこの曲が気になるのだろうと、頭の中の作業を続けながら、同時に考える。自分が変わったせいだと、もちろんそれしか思いつけず、何がどこがどんな風に、と思考は流れ続ける。
口遊めるほどきちんと覚えたわけではなかったけれど、頭の中でメロディーをなぞるくらいのことはできたから、ハインリヒはまるで壊れたレコードプレイヤーのように、同じ節を何度も何度も頭の中で繰り返して、同じ言葉を同じように繰り返しそこへ乗せ続けた。
自分はどう変わったのだろうと、頭の中で一緒に歌いながら、合間に考える。なぜこんな曲が、今こんなに胸に響くのだろう。
そうして、さっき、自分と入れ違いに店へ入って来た男の、肌の浅黒さが目の前に鮮やかに浮かぶ。思い浮かべたのは、少し違う色合いだったけれど、その肌の上へ刻まれた白い線は、今ぼんやりと眺めている路面の、駐車スペースを区切るための白い線の真っ直ぐさと、またこれも違うのに、なぜかハインリヒの目の前でぴったりと重なる。
ジェロニモ。
声に出して名前を呼んでいたことに、ハインリヒはそうしながら気づかなかった。
そうだ、俺は変わった。あの頃とは、変わってしまった。
何がどんな風にと、認めるのは業腹だと言うのに、そこから心を引き剥がせない。
ひっそりと恋をしている。激しさはない。想う相手の姿形を思い浮かべても、胸が痛むこともないし、始末に困る状態になることもない。ただ想うだけの、静かな恋だ。
同じ部屋で時間を過ごして、お茶でも淹れるかと声を掛ければ、ああと返事の来る、そんな場面くらいしか思い浮かばない、そんな恋だ。
恋だと思い決めるのには、ずいぶんと時間が掛かった。むやみに話をしたい相手に思い浮かぶようになって、その話の内容も、たかが出掛けた先で見掛けた他愛もないことばかりで、ある日ふと、ジェロニモの住む町──行ったこともないし、詳しい話を聞いたこともないから、完全にハインリヒの空想だ──をふたりで一緒に歩くところを想像して、そうしながら、自分が微笑んでいるのに気づいた。
そして、悪戯っぽい気分で、ついジェロニモの住む家へ行き、そこでお茶を飲み、それから、抱き合っているところまで想像した。すんなりとそこまでたどり着いて、互いに裸だったことに、ほとんど驚愕に近く驚いてから、自分が、ジェロニモとそうしたいと考えていることに、ハインリヒは初めて気づいた。
子どもでもあるまいし、たかが寝るくらいのことで何もそんなに驚く必要もなかったのに、ジェロニモと寝たいと思っているのが、恋をしているせいだと思い至った後で、自分の驚きの理由を目の前に突きつけられてから、ハインリヒはやっと、これが恋だと自覚した。
恋と言うのがどんなものだったか、もう思い出せないほど心の中で遠く、こんな風に、目の前にいない誰かのことを見つめることだったか、こんな風に、会えない距離をひそかに悔しがることだったか、近所の猫が足元にすり寄って来た時に、そのことを頭の中で報告するような、そんなことが恋だったか。
手足のちぎれ飛んだハインリヒを、そっと抱き上げて運ぶ、あの腕。むやみに揺らさないように、なるべく静かに走ろうとするのが、特別な気遣いではないとわかっていても、もしかしてと思わずにはいられない。自分に応えてくれる声が、特別な響きを持っているように感じてしまうのを止められずに、その声を聞きたくて、常に時差のことを考えている。電話をする口実は何だってよかった。声が聞ければ、それでよかった。
会いたい、とハインリヒは思った。
宙に浮くほど体が小さく軽く、そして風に運ばれてしまうほど、自分が他愛もない存在なら良かったのにと、必要ならひとりで戦争を起こせるほど武器を抱え込める、自分の忌々しい体のことを考える。そして、革手袋の右手を見下ろして、触れるために使うこの掌も、実のところはマシンガンと言う武器である機能が第一だ。ぬくもりもひとらしい感触など二の次三の次で、この手で誰かに直接触れるのはいまだ不可能に思える。
大きなハンドルの上に腕を組み、自堕落な姿勢でそこにあごを乗せた。ごく自然に突き出す形になった唇のせいで、自分がひどく不機嫌に見えるだろう顔つきになっているのを、案外と間違いではないとも思う。
ひどく感傷的になっている。疲れているせいだろう。ひとりきりのせいだろう。ひどく静かな、深夜過ぎと言う時間のせいだろう。そしてこれは、ハインリヒが恋をしているせいなのだろう。
今ほど、海と陸を隔てた距離を憎んだことはなかった。
会いたいと、つぶやいた声が、結んだはずの唇から漏れていた。
頭の中に、あの曲がまだ鳴り続けている。それに合わせて、ハインリヒは大きく息を2度吐き出した。そして、我慢せずにふた粒涙をこぼして、左手の指先でそれをさっさと拭い、やっと車のキーを手に取った。
こんな夜もある。さっさと仕事を終わらせて家に帰って、したければ電話をすればいい。いつ、この胸の内を吐き出してしまうかと、自分にはらはらしながら、他愛もない話をすればいい。
恋は、人を弱くする。もう人ではなくなってしまったサイボーグのハインリヒさえ、たまにはこんな風に感傷的になる。
硬く鎧われた体の内側には、柔らかいままのひとの心が抱え込まれたままなのだと言うことに、いつもの皮肉笑いをこぼして、それはジェロニモも同じはずだと思った。
一方的な恋が、ジェロニモに気づかせもせずに、いつか一方的に終わってしまうことを想像しながら、思ったよりも胸の痛んだことを苦笑いする余裕は取り戻して、ハインリヒは暗い駐車場を出てゆく。
意味もなく、白い線の上を走ってゆくのに、小さな罪悪感が胸を刺した。
高速へ向かって、もう唇を真一文字にしっかりと結んでハンドルを切る。一心不乱に走ってゆく車の、途切れ途切れの流れに、大きなトラックの鼻先をいつものように滑り込ませて行った。