Ordinary Day
施術室で裸になり、診察台に上がり、天井の照明のまぶしさに目を細めるこの瞬間が、ハインリヒは大嫌いだ。診察台に上がりながら、すでにそこにあるシーツで申し訳程度に下半身を覆って、準備のできたギルモアが、手術を始める外科医のように両掌を軽く天井に向けた姿で、ぎこちない笑顔を向けて来る。
施術中の人工脳の動きを監視──生身の人間の、麻酔のようなものだから──するジョーは、ガラスを隔てて、あちら側の部屋にいる。
重篤な不具合があるわけではない。数年に一度は必ず受けなければならない、定期的な検査とメンテナンスのためだ。
生身の人間たちの血管の壁が薄くなったり、内臓のどこかが擦り切れたり、それと同じように、サイボーグたちの体の中身も磨耗する。ただそれは、粘膜の壁や 骨の間の軟かい部分ではなく、細かな金属片同士を繋いでいるネジや、そこへ絡まりどこかへ伸びて、どこかとどこかの繊細な部分の動きを制御するための細い コードや、あるいは関節の曲げ伸ばしやいかにも生身そのままらしい動きを再現するための歯車だったりするだけだ。
意識のあるまま施術を受けるという選択もあるけれど、ハインリヒはいつも、完全に眠ってしまう方を選んだ。
ジョーが、脳の中のどこかのスイッチを切り、生体反応を途切れさせ、ギルモアの必要に応じて、反応の欲しい部分だけを外からコントロールする。そうなったハインリヒは、まさしく機械仕掛けの人形だ。
眠り──眠り?──に落ちる一瞬前には、いつも魂はどこにあるのかと考える。どこか、自分ではよくわからない、明かりを点けたり消したりするスイッチ同様 に、カチリカチリと動く小さな突起が、自分の動きと考えを司るすべてだと言う、奇妙な現実。それを切られたままでいれば、ハインリヒは死んだも同然だ。
それなのに、そのスイッチとやらを入れた瞬間、またなめらかに動き出す。魂は、一体どこにあるのだろう。仮死以上に死に近い状態だと思う、その人形のよう な自分の魂は、その間どこで何をしているのだろう。体同様、死に限りなく近い場所で、眠ったようにただ横たわっているのだろうか。
スイッチとやらで眠りを妨げられない限り、戻っては来れない魂は、一体生きていると確かに言えるものなのか。
心臓や脳や、大きな内臓を破壊されればほぼ確実に死ぬ──この世に戻っては来ない──生身の人間たちの魂の在り処は、なぜかはっきりとしているように思えるのに、自分たちサイボーグの魂は、そこに確実にあるとすら言い切れない。
それでも確かに、ハインリヒは生きている。生身の人間のようではなしに、また別の形で、サイボーグは確かに生きている。改造されたのは体だけではなく、恐らく、その魂とやらも変形させたのだろう。変形した魂は、どこかへ居場所を変えたのだ。
ギルモアを無表情に下から眺めて、ハインリヒは無意識に胸に鉛色の右手を当てた。
魂が宿るとされる場所。ぎっちりと詰まった様々な形の金属片の隙間に、魂の居場所はないように思える。どこか別の場所へいるのだ。だから、まだ見つけられない。
そう思いながら、ガラスの向こうのジョーへギルモアが何か合図をする。自分に笑いかけたジョーの指先が、何かのスイッチらしきものを押したのを見たのが、覚えている最後だった。
「特に問題はなかったよ。取り替えたのはごく小さなところだけじゃ。傷があったところは目立たんように埋めておいたよ。」
「普通に言うなら健康ってことですか。」
「まあそうじゃな。」
ハインリヒの口調に、冷笑を含んだ屈託を読み取ったギルモアは、肩をすくめるような仕草に薄い笑いを紛らわし、
「2、3日様子を見るから、無茶はせんでくれよ。」
すでに服を着替え、いかにも早くここから出たい風のハインリヒを、それ以上は引き止めもしない。
ありがとうございました、とほとんど棒読みに近い声音を残して、ハインリヒは施術室を後にした。
眠りから覚めて、今が何時かも確かめていなかった。人間同様、胃の中は空の方が面倒が少ないから、最後の食事は昨日の夜で、朝食は抜いたきりだ。
地下から階段を上がってゆくと、窓際に伸びる日差しがひどくまぶしく、その明るさで午後の半ばだと知れる。
とすると、夕食まではまた我慢かと、空腹感はない腹の辺りをゆっくりと撫でる。
コーヒーでも淹れるに限ると、自分の部屋へ向けかけた足を、そのままキッチンへ向け直した。
他のみんなはメンテナンスが終わった順に帰国して、いちばん手が掛かると思われていたハインリヒ──前回のをさぼってしまったからだ──がいちばん最後に回り、今日で全員の定期メンテナンスは終了したと言うことになる。
あまり深く考えずにコーヒーを数杯分セットしてから、家の中がしんと静まり返っているのに気づく。
フランソワーズは、イワンを連れて散歩だろうか。
まだ、ジョーとギルモアが地下から上がって来る気配はなく、ハインリヒはコーヒーメーカーが湯気を立て始めると、静けさから逃れるように、キッチンを突っ切って裏口へ向かった。
外へ出れば、鳥の声や裏の森の葉たちがすれ合う音が聞こえると、そう思ってドアを開けたところには、どっかりと座り込んだ大きな背中が見えた。
丸まった背中の、肩の線が動いている。何か胸元で小さな作業でもしているのだと悟って、ハインリヒは驚かさないように、そこで足を止めて、まず声を掛けた。
「コーヒーを淹れてるんだが、おまえさん飲むか。」
のそりと、顔が上がり、ぶ厚い肩越しに横顔がこちらを向いた。
いつ見ても表情の読みにくい、引き結んだような唇を動かさずに、ジェロニモがかすかにうなずく。
ハインリヒはドアを開けたままキッチンへ戻り、ふたり分のコーヒーの準備をした。
自分の分にクリームを注いでから、ジェロニモはどうだったかとちょっと思案して、ここ数日一緒に過ごしたフランソワーズの振る舞いを思い出し、確か砂糖は入れなかったと、同じようにクリームだけを注いだ。
ジェロニモは最初に見た時のまま、背中を丸めて、何かを手元で扱っている。座り込んだ左側にはハンカチほどの大きさの布が広げられ、その上にきらきらと陽の光を集めるネジや歯車が見える。
コーヒーを持ったまま、ハインリヒはその布を挟んで、ジェロニモの隣りに座り込んだ。
ジェロニモの大きな手には染みのたくさんついた布が握られ、それで何かを磨いているのだとわかる。手を止めようとしないジェロニモを促すように、ハインリヒは持って来たコーヒーをそちらへ差し出した。
コーヒーを見て、ハインリヒを見て、ジェロニモはようやく手を止め、磨いていた何かは染みだらけの布にくるんだまま、それはジェロニモの右側に置かれた。
空いた両手で丁寧にコーヒーを受け取り、ありがとうと言うように、ジェロニモの唇の端が少しばかり下がる。
コーヒーをひと口すすって、味わうように瞬きするその横顔は、浅黒い肌に刻まれた白い線とその巨体と相俟って、ジェロニモを見事な彫刻のように見せる。
明るいところで見れば、いっそう異様さが際立つその外見を、ハインリヒはけれど何の違和感もなく見つめていた。
渡したコーヒーに間違いがなかったらしいことを確かめてから、やっと自分のコーヒーに口をつける。
カップを両手で持ち──そうすると、カップが全部掌の中に隠れてしまう──、疲れた時に誰もがそうするように、コーヒーの香りの中に心を奪われてしまった ような間遠な瞬きが何度か繰り返され、並んで座っているというのに遠く見えるジェロニモに、ハインリヒは少し意地の悪い声を投げ掛けた。
「そいつは何だ。」
ジェロニモの右側を左手で指差すと、夢から覚めたように軽く目を見開いて、ジェロニモは知らない言葉で話し掛けられたとでも言いたげに、数瞬戸惑いの色を頬に浮かべる。
どうかしたのかと目顔で訊いたハインリヒに目を凝らして、ジェロニモは軽く頭を振って目を細めると、また正面を向いてやっと瞳の大きさを元に戻した。
「通信装置、取り替えた。まだ慣れない。聞こえる、妙。」
頭の中に埋め込まれた通信装置は、翻訳機も兼ねている。話し掛けられる言葉の出力のタイミングが、以前と少し違ってしまっているのかもしれない。
「早く慣れるといいな。」
今度は気の毒そうに声を低めて、ハインリヒはゆっくり言った。
ハインリヒに向かってかすかに肩をすくめ、ジェロニモはコーヒーを少し離れたところに置くと、また何かを磨く作業に戻った。
「で、おまえさんが磨いてるそいつは何なんだ。」
速度に気をつけて同じことを問うと、ジェロニモは手の動きを止めて、布の中から磨いていたそれを取り出して、ハインリヒに見せた。
「取り替えて、いらなくなった。捨てない。きれいにする。取っておく。また使う。いつか。」
ハインリヒの爪の先ほどの小さなネジだ。細い狭い凹凸のすべてを、丁寧に磨いて新品同然にして、ジェロニモはそれを左側に置いていた布の上に、すでにきれいにした他の部品と一緒に並べる。
「俺たちのか。」
ジェロニモが微笑みを浮かべてうなずく。
あちら側に置いてある浅めのトレイから、次は歯車を取り上げた。優しい手つきが、まるで小さな生きものでも扱うような具合だ。
何が付着しているのか、色は鈍り、ジェロニモの手元を覗き込むようによく見れば、歯車の一片は他より形が丸まり、折れてしまってそうなったのか、摩滅して そうなったのか、再び使うには難がありそうに見えたけれど、ジェロニモは黙ってそれを磨いている。ハインリヒも黙っていることにした。
さらに覗き込むと、トレイは黄緑色の溶液で半分満たされ、その中に様々な形の部品が沈んでいる。
まずは薬品で汚れを落とす──あるいは、一種の消毒か──のかと、無言で納得して、ハインリヒはコーヒーを静かにすすった。
空を眺めて、森を眺めて、かすかにそこに混じる薬品と金属の匂いを、それほど不似合いにも不愉快にも思わず、ハインリヒは時々思い出したようにジェロニモの手元を見つめた。
やっと歯車がきれいになり、ジェロニモがそれを磨かれ終わった仲間にしてやる。
「そいつだけ、ずいぶんでかいな。」
歯車をそっと置いたジェロニモの指先を指して、ハインリヒが声を掛けた。歯車の隣りには、ジェロニモの中指ほどもありそうな、ネジとよく似た形の、けれどネジではない金属片がある。ハインリヒがそう言う通り、他の部品よりずっと大きい。
ジェロニモの指先が、そっとそれをつまみ上げた。
「これ、おれの。膝、繋ぐ。」
金属片の先を、膝の横へ突き刺すような仕草をして見せる。ジェロニモの部品なら、がっしりと頑丈そうなのもうなずけた。
ジェロニモのだとわかると、急にそれに親近感が湧いて、それをもっとよく見せてくれと、ハインリヒはジェロニモに向かって右掌を広げた。
ハインリヒの右手よりは銀色がかった、見た目よりはずっと軽いそれは、自分の顔が映りそうに、曇りもなくぴかぴかに磨かれている。
「そこ、使える。」
興味深げにそれを見ているハインリヒの腰の少し下辺りを、ジェロニモが指差した。
「何だって?」
聞き返すと、ジェロニモが同じところをまた指差しながら、取り上げたコーヒーを飲んだ。
「そこ、繋ぐ、使える。同じ。」
ハインリヒの、ミサイルの搭載されている腿の上辺りに、ジェロニモの指がいっそう近づく。
ああ、と合点が行って、武器庫であるハインリヒの体を支えるには、巨漢のジェロニモと同じように頑丈な骨組みが必要なのだとまた思い出して、
「じゃあ、俺のもおまえさんに使えるわけだな。」
嘲笑うように言ったつもりだったのに、ジェロニモはそれをただ笑顔で受け止めて、その笑みを消さずに、また次の部品を磨きに掛かった。
また翻訳機の調子が悪いせいで、自分の本意がうまく伝わらなかったのだろうかと、ハインリヒは思った。思ってから、ジェロニモがほんとうに、そのことを腹立たしいとは感じていないのだと悟る。
ジェロニモの手つきを真似て、ハインリヒは静かにその部品を布の上に戻した。
無言の作業に戻ったジェロニモの手元と空を交互に眺めながら、生身だったら、こんなに簡単に体の中身を誰かと取り替えることなどできないのだと考える。こんな風に、取り出した中身をきれいにする必要もない。
新品同様に磨かれた部品を眺めるうち、行き場のなかった心の中の澱のようなものが、どこかへ音もなく流れてゆくのをハインリヒは感じた。ジェロニモが今磨いているのは、取り替えられて今はいらなくなった部品だけではないのだ。
真剣で、それでいてどこか優しいジェロニモの横顔に向かって、
「俺もやろう。」
右手を差し出すと、ジェロニモがまた、一瞬戸惑った表情を浮かべる。それに笑いかけて、ハインリヒはカップを置いて両手を空にすると、ジェロニモの手の中の布の端を引っ張り、適当なところで左手のナイフで切った。
ハインリヒが出した右の掌に、ジェロニモが溶液で濡れた小さなネジを乗せる。ジェロニモの手の動きを真似ながら、ハインリヒは渡されたそれを磨き始めた。これは誰の体にあったものだろう。仲間の体の一部だったと思えば、自然手つきが穏やかになる。
ああ、だからかと、ジェロニモの横顔を盗み見た。見て、それ以上声は掛けず、ハインリヒは黙って磨く手を少し早める。
うつむいた視界の端に入る、すでにぬるくなり始めているコーヒーの表面に、風に乗って流れてゆく雲の形が映っていた。