Presence
肩の痛みで目を覚ますと、右の肩口に、ジェロニモが頭を乗せて眠っていた。ジェロニモのための肩枕や腕枕には多少サイズが足りず、そうすれば、ハインリヒの上半身をほとんど覆って、このまま抱き寄せると言う選択には、また腕の長さが少し足りない。
ハインリヒも決して小柄ではなく、日本にいれば確実に巨人扱いされるし、アメリカに行っても、たいていの男たちは10cm程度目線が下だ。
ハインリヒより背の高いジェットも、それよりはるかに体の大きなジェロニモも、れっきとした規格外だ。傍にいるとたまに錯覚するけれど、これが普通と言うわけではないのだと、ジェロニモをはるか頭上に見上げて、背伸びも大して役には立たない。
誰かに触れようとして、こんなに上向く羽目になる日が来るとは、想像したこともなかった。
珍しく、ハインリヒに抱きつくように、けれど手足はばらばらに伸ばして、見下ろすジェロニモはひどく稚なく見える。
きれいに剃り上げ、刈られた髪は、こんな風でもなければこんな角度で見下ろすことは滅多になく、ハインリヒは左手をそっと伸ばして、ジェロニモの刺青の終わる──あるいは、始まる──辺りへ指先を置く。
しっかりと彫り込まれた白い線は、指先には何の感触もなく、ただ平たい皮膚なのが不思議で、ジェロニモを起こさないように気をつけながら、ハインリヒは揃えた指先を何度もそこへ滑らせた。
ジェロニモの体はどこも重い。腕も脚も、掌さえ、力を抜いて乗せれば、こちらの体が凹むかと思うほど重い。それが、ほとんどそよ風のように触れて来るのに、改造されたこの体に慣れるまで、一体どれほど掛かったのかと、ふと訊いてみたい気が起こる。
ハインリヒが抱いてもふとした拍子に壊しそうなイワンを抱いて、華奢なフランソワーズを胸に抱えて守り、この優しさは、ジェロニモの生来のものに違いなかった。
大事なものならともかく、普段は自分が触れるものに、わざわざ気を使う習慣はないし、単に自分の側の感触が気に食わなくて、右手はあまり他人に対しては使わない。そんなハインリヒには、ジェロニモの、ほとんど宗教がかった優しさは、これがジェロニモでなければ胡散臭く感じるだけだろう。
ハインリヒは、左手をジェロニモの頬にそっと乗せた。
こうなった初めの頃、互いに、ベッドを他人と分け合うのに慣れず、ジェロニモは自分の体の大きさも気にして、目覚めると、毛布を敷いた床に寝ていることがしばしばあった。
この方が、自分が気にならないのだといつもの笑顔で言うのが本気らしく、ハインリヒに気を使っているのでは決してないと理解はできた。それでも、床に坐ることすら習慣にないハインリヒにはどうも居心地が悪く──そういう振る舞いは、奴隷の扱いのように感じると、ジョーに言ったら驚かれた──、ベッドへ戻れとジェロニモを説得するよりも、結局はハインリヒ自身が一緒に床で寝る方が、話は早かった。
背中に当たる床の固さは気になっても、ベッドの軋みを気にしなくてもいいとか、手足が自由に伸ばせるとか、案外と悪い考えではないと思ってから、ベッドで寝るのと床で寝るのと、何となく交互にするのが互いの妥協点のようになった。
床の上で触れ合って眠るのに慣れると、ベッドで抱き合って眠るのにも次第に慣れ始め、ベッドの決まったスペースに、何とかふたり分の体を収めるのも、ある種ゲームのようでもあり、ふたりの距離をいっそう近づけるのに、間違いなく役に立った。
狭さが、すなわち窮屈さだけを表わすわけではなく、その窮屈さも、ただ窮屈だと言うわけではないのだと、ハインリヒはこうなってから知った。
ジェロニモにとっては面倒なだけだろうけれど、窮屈と言うのも悪くはないと、肩の痛みを気にしながらハインリヒは思う。
自分の体も、ジェロニモの上には重いのだろうか。何かあれば、軽々と抱えて運んでくれるけれど、そんな時はいつも手足か何か、体のどこかが欠けている──自分では歩けないから、そうやって運ばれる──のが常だから、体全部の重さではない。ああ言った時と、こうして抱き合っている時と、感じる体の重さは違うのだろうか。
真顔で訊いたら、いつもの生真面目さで答えてくれるだろうか。
今ではもう、油断すれば胸を押し潰されそうなこの重さが、ひどく心地良い。自分の体に重なる、人の形をした重みが、数字で表わせばほんものの戦車と変わらないのだとしても、腕に抱けばただいとおしいだけだった。
そうでなければ物足りないのだと、気づいてしまえば気恥ずかしいだけだけれど、この重さも窮屈さも、それがジェロニモだと思うと、いとしさが増すだけだ。これは自分が一方的に考えることだろうかと思って、違う、と頭の中で声がする。多分ジェロニモも、ハインリヒと同じようなことを考えている。
普段は武装解除で総重量が減るにせよ、生身の体に比べればはるかに重いハインリヒの体を、ジェロニモにも恐らく、だからこそのハインリヒだと感じているはずだ。
これ以上でもこれ以下でもなく、人の形をした武器庫であれ戦車であれ、それには自由に動く手足があり、目があり耳があり、口を聞いて、自立した考えを持っている。元がただの人間なのだと、もうハインリヒには100%信じられない時があるとしても、その心臓は機械仕掛けで、その心臓が全身に送る血液は、白い循環液なのだとしても、ふたりは人であった時のことを憶えていたし、そして人としての心も持ち続けている。
ふたりがこうして狭いベッドを分け合って抱き合って眠るのは、その心のあかしだった。誰かを大切に思う気持ちは、兵器に改造されても失せることはなかった。人の心までは改造できないのだ。
兵器の、不様な悪あがきなのだとしても、ハインリヒは、こうして誰かを抱いて眠る夜を捨て去ることはないだろうし、誰かの体の重みを、いとおしいと思うことをやめないだろう。
自分の脚の方へ下りていたジェロニモの腕を、ハインリヒはもっと近くへ引き上げようとした。太い手首をそっと持って、起こさないように、健やかで静かな寝息を確かめながら、長い重い腕を、なるべく手早く自分の方へ引き寄せる。
骨の太い、大きな掌。自分の心臓の上へ置いて、そうして、自分の掌を重ねた。指の間へ自分の指を滑りこませて、静かに、そっと握る。体の末端から発する熱が、心臓の近くへ染み透ってゆく。
ジェロニモの腕と掌の重さを、重いと、ハインリヒは感じていた。この重みが、改造されてしまったゆえなのだとしても、生身の時のジェロニモの腕の重さを知らないハインリヒには、これが知っているすべてだった。
自分でなければ受け止められない今のジェロニモのこの重さを、ジェロニモが、にも関わらず、何も壊さずにあらゆるものに触れる時の穏やかな優しさを、ハインリヒはできるだけ自分の指先に写して、ジェロニモに今触れていた。
どれだけ腕を伸ばしても、どれだけ胸を開いても、どれだけ背伸びをしても、ハインリヒには持て余すしかないジェロニモの大きな、そして重い体だった。
だからこそこの男が、こんなに大事なのだと思って、もう一度、改めてジェロニモの手に、自分の掌を重ね直す。
息苦しくなるような、胸を斜めに横切る腕の重さに、ハインリヒはゆっくりと深呼吸する。ひとりではないのだと、その重さのことを思ってから、また眠ろうとして、しばらく天井に目を凝らしていた。
ジェロニモの寝息に耳を澄ませ、それに自分の呼吸を合わせて、間遠になる瞬きの合間に、ハインリヒは、もう一度ジェロニモの手を握った。