River of Deceit
少しばかり浮かない気分なのはきっと、どこかざわざわと、空気が騒めいているせいに違いないと、ジェロニモは思った。
ぴりぴりと、首筋の後ろを、空気が刺すのが耐えられずに、肩と首筋を撫でて、そのまま黙ってキッチンを出た。
何か、昨日と違いがあるわけでもないのに、自分ににっこりと笑いかけたフランソワーズに、声を返すこともできず、硬張った頬のまま、うなずいて見せるだけで精一杯だった。
どうしたのだろうかと、自分の内側を覗き込んで、そこに、うっすらと浮かび上がった少女の顔に、声もなく、かすかに、驚く。
ひとりの物思いに、邪魔されずに沈み込むために、ジェロニモはゆっくりと、足を裏庭に向けた。
封印してしまったわけではなく、語りたくないわけでもなく、ただ、口にする機会もないまま、澱のように積もってしまった言葉がある。
その澱の上に、ジェロニモはゆっくりと、架空の掌を乗せてみた。
声が聞こえる。顔が見える。姿が浮かび、動き始め、ゆるゆると、閉じたまぶたの奥に、くっきりとした輪郭が、薄闇を切り抜く。
おねえちゃん。
幼い自分の声が、呼んだ。
少女が、愛しげに、微笑んでくれた。
生まれたのは、居留地の中だった。
貧しい土地に、同じような顔立ちの、貧しい人たちが、ひしめき合って、暮らしていた。そこに閉じ込められているのだと、自覚する前に、そこに住む子どもたちがそうされるように、子どもばかりを集めた寮に、放り込まれた。
正確には、そこは収容所なのだと悟ったのは、家族から引き離されて、そこへ連れて行かれて、1ヶ月も経たない間だった。
白い膚の大人たちは、そこに集められた子どもたちに、善意の教育を施そうとしていた。
先に、そこへ送り込まれていた姉と再会し、大人たちの目を盗んでは、姉と弟はふたり、励まし合い、慰め合った。いつかここを出て、家に帰ったら、あれをしよう、これをしようと、他愛もないことを話しては、母親を恋しがって、一緒に泣いた。
父親の違う、姉と弟ではあったけれど、ふたりとも、母親の優しさだけは、きちんと受け取って、確かに血の繋がり合った、
ふたりだった。
手紙を書くことは許されず、自分たちが、ほんとうは何者であるのかを忘れるように、白い膚の大人たちは、正しい教育と、彼ら自身が呼ぶものを、自分たちとは顔立ちの違う、家族から引き離された子どもたちに、繰り返し繰り返し叩き込んだ。
英語と宗教。白い膚の人間たちの生活習慣、彼らの人生の目的、彼らの価値観、教えられ、頭に刻み込まれ、同時に、生まれて以来、細々と親たちが教えてくれていた、空の色を眺めること、森の声を聞くこと、動物たちと話すこと、そんなことすべて、下らない、むしろ忌むべきことなのだと言われ、きっぱりと忘れるようにと、何度も言い渡された。
おまえたちのすべては、間違っているのだから。
おまえたちは、文明の何たるかを、知ってなどいないのだから。
おまえたちは、神さえ知らない野蛮人なのだから。
だから、我々が、無知なおまえたちを、導いてあげるのだよ。
我々は、常に正しく、我々は、世界の何たるかを知っている。
森の声など、聞くことはない。おまえたちが聞くべきなのは、我々と、我々の信じる、神の声だけなのだ。
母親から受け継いだ言葉を使うことは、一切禁じられた。英語という、生まれてからずっと、傍らにはあったけれど、自分の言葉ではないその言葉だけを、使うことを強要された。
自然の精霊に従うことを禁止され、彼らが唯一の神と言う、キリストの教えとやらを、学んで、信じることを強制された。
収容所では、大人たちの目を盗んで、子どもたちはいつも泣いていた。
親が恋しくて、お腹が空いていて、具合が悪くて、英語が嫌いで、キリストが怖くて、繰り返し繰り返し、居留地にいた時のままでは、呼吸をする価値すらない存在なのだと、繰り返し言われ、子どもたちは、すっかり怯えてしまっていた。
どうして、生まれて来てしまったのだろう。価値がない人間に、どうして生まれてしまったのだろう。生きていていけないのなら、どうして生まれ落ちてしまったのだろう。
人が人として、生まれた瞬間に、存在を否定されてしまって、どうして生きてゆけるのだろう。
白い膚の大人たちの言葉に、従う以外に、選択はなかった。
みんな誰も、人でいたかったから。人として、生きたいと、望んだから。
泣きながら、大人たちの言葉に従った。いやいやでも、自分の内側のすべてを、忘れたふりをして、忘れる努力をして、精一杯、白い膚の人間の真似をすることを、学ぶより他、なかった。
様々な年頃の子どもたちは、そうやって、白い膚の大人たちが、自分たちを、劣った存在なのだと、蔑まれるべき存在なのだと、笑顔の裏で告げていたことまでは、考え及ばなかった。
その、容赦のないメッセージは、子どもたちの、柔らかな脳と心に、大人たちの語るきれい事よりも、もっと深く突き刺さる。刻み込まれる。少しずつ、それを信じ始めていることに、気づかないままでいる。
子どもたちの心は、病んで、腐り果てる。
大人たちは、それに、暴力で止めを刺す。
いわゆる仕置きと称して、大人たちに撲られることは、ちっとも珍しいことではなかった。
誰もが、たいてい、顔や、体のどこかにあざを残していて、時には腕や足を折られ、あるいは、何日もどこかへ閉じ込められ、食事を与えらないこともあった。
そうなりたくないなら、黙って素直に、大人たちの言うことを聞くしかない。
子ども心にさえ、理不尽だと感じることにも、黙ってうなずく以外、仕置きを避ける方法はない。
自分を、まるで家畜のようだと感じて、けれど家畜なら、少なくとも、親の傍へいられるのだと思っても、自分たちの家畜以下の扱いに、もう腹を立てる気力も奪われている。
何もかも、白い膚の人間たちの思う壺なのだと、年上の子どもたちは、知っていた。知っていて、けれど、どうすることもできなかった。
姉はいつも、ここを出れば何とかなる、だからそれまでの辛抱だと、言い続けた。
でも、おねえちゃん、いつここを、出られるの?
15になったらと、その時14になっていた姉は、ほんの少し明るい顔で言った。
まだ12歳になったばかりのジェロニモには、3年間は、永遠のように思えた。
それでも、姉の明るい笑顔を信じて、先にここを出た姉が、きっとどうにかしてくれるだろうと、そんな勝手な希望を抱いて、姉の腕にしがみついた。
15で出られるはずの収容所から、それでも、もっと早く出てゆく方法は、確かにあった。
脱走という試みは、たいてい失敗に終わるにも関わらず、数ヶ月に一度、必ず誰かが姿を消す。ひどい有様で、日常に戻ってくる者もいれば、連れ戻されたと噂が流れたきり、そのまま姿を見ない者もいる。
一体何が起こったのか、語ることははばかられた。
大人たちの耳を恐れてではなく、自分たちの恐怖を、これ以上大きくさせることが、何より恐ろしかったので。
あるいは、脱走ではなく、いつの間にか、姿を消す者もいた。
仕置きが行き過ぎたのか、病気で、放り出されたのか、その理由はさまざまであっても、行き着く先は、みな同じだろうと思えた。
目の前の海に、目を細めた。
冷たくなった潮風が、ぴりぴりと痛む膚を、裂くようになぶってゆく。
痛みが甦る。心と体を引き裂かれる痛みが、ゆっくりと身内にわき上がる。
その痛みは、死んだ姉のものだ。
短い一生に、絶望だけを覚えて、それしか知らずに死んでしまった、姉のものだ。
痛みだけが、彼女が生きていた証だった。だから、忘れずに、痛みのまま、こうして抱え込んだままでいる。
もう誰も、彼女のことを覚えている者は、いないから。
ジェロニモはまた、閉じたまぶたの薄闇に、彼女の面影をたぐり寄せた。
死んだ姉が、妊娠していたと聞いたのは、収容所を出て、母親の元へ戻って、しばらく経った後だった。
妊娠という言葉が、姉にはそぐわず、まだ17にはならないジェロニモに、聞き返せたのは、なぜ、という一言だけだった。
「父親が誰だか、わからないから、死んだんじゃないか。」
母親は、今では昼間から手放すことのない、酒の入ったグラスの手を、ぶるぶると震わせながら、けれど感情のない声で言った。
収容所から、突然姿を消した姉が、死んだのだと聞いたのは、姉を見失って、次の季節に移ってしまった頃で、まさか脱走を企てて、失敗したのだろうかと、泣きながら思ったことを覚えていた。
首を吊ったのだと、こっそり教えてくれたのは、姉と同じ年の少女だった。その時、年上の少女は、痛ましげにジェロニモを見つめ、何か言いたげに、その赤い唇をかすかに開いて、けれど、続く言葉は、ないままだった。
「あそこにいるのは、みんなケダモノだ。」
母親の隣に、そっと腰を下ろして、その薄い、小さくなってしまった肩を、慰めるために抱き寄せた。
連れ去られた子どもは、すでに、少年を通り過ぎた姿で戻り、その空白を埋められずに、母と子は、もう、以前の母と子ではなかった。
これが、あの白い膚の大人たちの、ほんとうに目論んでいたことだったのかと、どこか薄寒い空気の吹く、背の伸びた自分と、上目遣いの母親との間を、ジェロニモには、もう、人ごとのように眺めることしかできなかった。
それでも、互いと、そして今は亡き人の姉---そして娘---を愛する気持ちは変わらず、かろうじて親子の形を保ちながら、周囲の大人たちの無気力に、ジェロニモは、すでに巻き込まれつつあった。
子どもたちが一体、あそこでどんな目に遭っているのか、大人たちは知っている。けれど、それに逆らう力は、とうの昔に奪われている。
子どもたちは生まれ、そして奪われ、踏みつけにされた魂の、ただの容れものになって、戻ってくる。運さえ、良ければ。
姉は、苦しんだのだろうかと、ジェロニモは、痛みを思い出しながら、思った。
自分がそうされたよりも、酷く、あの白い大人たちは、姉を痛めつけたのだろうか。自分が、幼くても男だから、姉は、幼くても、女だったから、その些細な、大きな違いのせいで、姉は死を選ぶ羽目になったのかと、自分の幸運さ加減を、心の底で呪う。
人は、人でしかないというのに、信じるものが違う、ただそれだけで、あの大人たちは、ジェロニモたちを、人として、決して認めてはくれない。
姉は、殺されたのだと、思った。
憎しみと悲しみが、同時に襲って来た。
それから、声がした。
「おれが、おれである、あかしが、ほしい。」
枯れた麦の束のような髪は、ところどころ灰色を残しながら、白く床まで伸びていた。
深く刻まれたしわに、埋もれた目鼻は、ジェロニモの何倍もの時間を生きて来たことを表していて、ほんとうなら、こうして、直に口を聞くことすら許されない老人に、ジェロニモは、ひるむことのない視線を当てていた。
「この地に、我らが、我らとして、あることのできる場所など、もうない。」
すき間だらけの歯並びが、すぼんだ口元からのぞく。老人の声は、深く、けれど絶望に満ちて響いた。
「おれが、おれである、けっしてきえない、しるしが、ほしい。」
長い間、こっそりとしか使えなかった、自分自身の言葉の、今あるつたなさを、仕方のないこととは言え、心の底で恥じながら、ジェロニモはまた、ゆっくりと老人に向かって、同じことを繰り返した。
「愚かなことを。」
老人は、ぼそりと呟いた。
瞳が、うっすらと光を放った。
もう、絶望すら通り越すほど、踏みつけにされた歴史を、長い間見つめ続けてきた双瞳だった。
老人の、干からびた姿そのものが、奪われ続けた過去と今と、そして未来なのだと、痛いほどわかっていて、その老人の目には、ようやく少年を終える辺りに差し掛かった自分など、大海を打つ雨一滴にすらならないのだと、すでに見通しているのだと知っていて、それでも、その絶望に、ただ飲み込まれてしまいたくなど、なかった。
絶望の果てに、命を断った姉のために、その絶望の際に踏みとどまって、頭を高く、上げていたかった。
老人の瞳が、さっきよりも大きく開き、こぼれる声は、さらに深くなる。
なぜ、と老人は言った。
「烙印など、欲しがる?」
唇を引きしめ、拳を握りしめた。
老人が欲しがっているのは、説得の言葉ではない。意志の強さなのだと、そう悟って、つたない言葉を連ねるよりも、その瞳に、老人と同じ色の瞳に、精一杯、力を込める。
過去と今の視線が、かちりと音を立てて合わさった。そこからあふれるのが、未来なのか絶望なのか、老人が、どちらを読み取るのか、ジェロニモにはわからなかった。
老人の、深い絶望に満ちた眼差しを受け止めながら、脳裏をよぎったのは、姉の微笑む顔だった。
わすれないために、わすれさせないために、しるしがほしい。
奪われた誇りを、取り戻すために。自分が、自分であり続けるために。
老人が、瞳を動かして、それから、すいと顔を伏せた。
しわだらけの口元に浮かんだ、複雑な表情を読み取り損ねて、一瞬、打たれたように、あごを引く。
「自ら、背負い込むなど・・・・・・愚かな・・・」
つぶやきは、誰へのものとも、定かではなかった。
老人の、もう骨とも見極めもつき難い手が、ジェロニモの頬に向かって伸びてきた。
避けずに、その手が自分を引き寄せるのに促され、ゆるく目を閉じると、老人の乾いた唇が、額と両頬に、軽く触れる。
その瞳の中に、映る自分が見えるほどの近さで、老人がまた、愚かなと、細く呟いた。
剃り落とされた頭髪の下に現れた、柔らかく薄い皮膚と、そこから目元へ落ち、頬を通り、口元を越えて、老人は、ジェロニモの求めた印を刻んだ。
皮膚を傷つけ、色を流し込む。流れる血と染料は、まるで、姉のために流す涙のようだった。
刻み込まれる涙の河が、痛みと熱を運んできて、夢とも現ともつかない際で、今のジェロニモよりも幼い姉が、声を立てて笑っている。
姉も、泣いたのだろう。血を流し、痛みを感じ、そこから生まれた絶望に、飲み込まれるしかなく、けれど、その絶望の中から、踏みにじられた誇りを拾い上げるために、ジェロニモは、涙の河を、刻みつける。
血を流し、痛みを受け入れ、印を刻まれた顔を、常に、真っ直ぐに上げて。
老人は、過去の長さを、しわに刻み、ジェロニモは、未来の行方を、印に刻む。
刻まれた印は、決して消えることはなく、ジェロニモが、一体どこから来て、これからどちらへ進んでゆくのか、そして、何を為そうとしているのか、声もなく叫び続ける。
自分が、自分であること。許されなかったそれを、いまだ許されてはいないまま、為すために、涙の河を刻んだ顔を、真っ直ぐに、自分を踏みつけにする人間たちに向け、決して奪われることのない誇りもあるのだと、彼らに、知らしめるために。
姉が、また笑う。
目尻から、ほんものの涙がこぼれた。
印を刻む手を止め、老人が、その涙を、黙って拭った。
目の前の海から、波音が聞こえ、風には潮が匂う。
穏やかに自分を包む空気の中で、ゆっくりと瞬きを繰り返しながら、頬を撫でた。
もう、とうの昔にほんものではなくなっている、けれど忠実に再現された、その印をなぞりながら、それぞれに、違う形で、同じ烙印を背負わされた、8人の仲間を、ひとりひとり、思い浮かべていた。
人ではなくなってしまった今、決して裏切ることのない仲間がいることの不思議を、ふと笑う。
膚の色と、信じるものと、違いを越えて、互いの背を護り合い、誰もが---すべての、人たちが---、平和に暮らせるようにと、あるとも知れない、穏やかな未来を信じている。
そのために払う、犠牲の大きさに、戸惑い、時折足を止めながら、それでも、信じることをやめられずに、手を取り合い、前へ進む。
長い長い間、戦い続けている。自分たちが、自分たちであるために。
海を見つめ、色の変わる風を眺めて、海さえ知らずに逝った、姉の、短すぎる人生と、思いがけず長引いてしまった、自分の人生とを、思った。
いつか誰かに、姉のことを話す時が来るだろうかと思って、浮かんだ青白い横顔に、苦笑めいた笑みを浮かべる。
人であった時に、愛する者を失った彼も、おそらくどこかに、涙の河を刻んでいるのだろうと思えた。
あの白い膚も、また絶望することを知っている。
ジェロニモは、もう一度、自分の頬を撫でた。
自ら望んで刻んだ、己れが己れである証しが、人でなくなった後も、そのまま残されたのは、今はもう、これを含んだすべてが、自分自身なのだということなのだと、そう思う。
あの時は、絶望に打ち勝つため---愛する姉への、追悼---に、今は、希望を忘れないため---人であった自分への、ある意味での感謝---に、決して消えることのない、この印がある。
彼の印は、どこにあるのだろうかと、思って、いつかそれを、訊いてみたいと、思った。
もう一度、真っ直ぐに海を見つめ、風の語る声を聞いた。
肩を回し、歩き出そうとして、またふと、足を止める。
風の中に、姉の声を聞いたような気がして、微笑んで、海と風に向かって、唇が呼んだ。
おねえちゃん。
声に出して、それから、フランソワーズに、きちんと微笑みを返そうと決めて、ようやく足を踏み出す。
背中に、風の声が、続いていた。
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