うわさになりたい
その1
「握手」
出した本が、賞を取ったので、祝いのパーティーに来いと、ピュンマから招待状が届いたのが、一月前だった。
別れた後も、こうして連絡を取って来ては、もう、ふたりきりで会うことはないとは言え、ちょくちょく呼び出しをくらう。
互いがいやになって、別れたわけではなかったから、会うことも別に不快ではなく、むしろ今は、普通の友達よりも、もっと親密な知り合い方をしている間柄になりつつあった。
ジェロニモは、地味なスーツを選んで、地味なネクタイを締めていた。
どうやら、顔ぶれは内輪が主らしく、どちらかと言えば華やいだ雰囲気の中を、のそりと大きな肩をやや丸め、あちこちに笑顔を振りまくのに忙しいだろう、今日の主役を探す。
古くからの、ピュンマとの共通の知人が、ジェロニモに気づいて、微笑みを投げかけてくる。それに、軽くうなずいて応えて、ピュンマを探すのを続けた。
おめでとうと言いに来ただけで、パーティーそのものに興味はない。
部屋の奥から、赤毛を逆立てたジェットが、人込みよりも頭ひとつ抜き出て、こちらへ向かって来るのを見つけて、ジェロニモは、その肩の辺りに、ピュンマの、なめらかに光る、黒い頬を探した。
「やあ、来たね。」
桃色の唇から、白い歯列をのぞかせて、ピュンマが、こっちを見て微笑んだ。
目の前に立ったピュンマは、相変わらず、人の視線を奪わずにはいられない気配を身にまとって、その後ろに立つジェットは、それにさらに派手さを加えていた。
ジェロニモよりは背が低いとは言え、充分に長身なジェットと、その、せいぜい肩ほどまでしか届かないピュンマ---決して、小柄というわけではない---の取り合わせは、ふたりの膚の色も相まって、たとえ手を繋いでいないとしても、人目を引くには充分だった。
そこに、以前は自分が立っていたのだということに、もう、心は騒めかない。
ふたりを見て、微笑んで、ジェロニモは、ピュンマに向かって右手を差し出した。
ジェットと繋いでいた右手を、顔を、そちらに向けて、子どもをなだめるような表情を見せてから、ジェロニモのために外して、差し出す。
「元気だった?」
ああと、軽くうなずいて、握手をして、それから、ピュンマにぴったりと寄り添ったジェットに、目顔で挨拶をする。
ジェットも、ああと軽くうなずくだけで挨拶を返し、それでも、ジェットの方は、わずかな嫉妬を隠せない様子で、握手の終わったピュンマの右手を、またしっかりと握る。
こんなふうに、大っぴらにそうだと示しているのは、何もピュンマとジェットだけではなく、ここにいる人間の半分は、連れの性別に関わらず、しっかりと手を握り合っている。
そのための、パーティーだったから。
以前は、自分もその中にいて、そうして、常にそうだと、声高に周囲に主張し続けるのに疲れてしまったから、ジェロニモは、ピュンマに、もう少し静かに暮らしたいと言った。
訊かれれば、答えるけれど、そうでないなら、あえて言うほどのことでもない。そう、正直に告げたら、ピュンマは、残念だねと、切なそうに言った。
ふたりの間の大きな違いは、それだけではなかったけれど、互いを求める気持ちよりも、自分に対して素直になりたい気持ちが、ある一瞬勝って、そうして、少しずつ、相手に合わせることが窮屈になり始めてしまった。
自分を大事にしなければ、誰かを大切にはできない。
ジェロニモがそう言うと、ピュンマは肩をすくめ、仕方ないねと、苦く笑った。
穏やかに別れた後、ジェロニモはずっと、ひとりでいる。ピュンマは、いくつか短い関係を、ぽつりぽつりと重ねた後で、ようやくこの、背高い、年下のジェットと、それなりに長い付き合いにたどり着いた。
外見の、派手さの印象とは裏腹に、思い込めば他は目に入らないたちらしく---ピュンマから、いつも話を聞いている---、ピュンマの過去に対して、いまだ捨てきれないやきもちはあるものの、ジェットは、とりあえず申し分のない恋人らしかった。
ジェットがどんな人間だろうと、ピュンマが幸せならそれでいいと、話を聞くたびに思う。悪い人間でないのは、一目でわかる。ピュンマと、主張したい部分が一致するなら、それがいちばんいい。
ジェロニモはもう、それには興味がないし、これからも、興味を持たないだろうと思う。
喋るのは主にピュンマで、言葉少なに、3人で最近のことを話していると、部屋のすみから、人込みをかき分けて、ピュンマの傍へやって来た男がいた。
「そろそろ失礼する。楽しかった、ありがとう。」
ピュンマに向かって、左手を差し出しながら、素っ気ないほど短く、その男は言った。
全身の色の淡い男だった。着ている服が、すべて黒っぽいせいなのか、髪も膚も、ちらりと見た目の色も、すべてが銀色を帯びていて、触れれば、そのまま伸ばした手が突き抜けてしまいそうな、そこにいると、実感のしにくい外見をしていた。
ジェットとは面識があるのかないのか、そちらの方は一度も見ずに、ピュンマとだけ、左手で握手をして---ピュンマの右手は、相変わらずジェットが握ったままだったから---、そのまま肩を回して立ち去ろうとする。
ピュンマが、まるで引き止めるように、それより一瞬早く、男に話しかけた。
「紹介しておくよ、こっちがジェロニモ、ボクの友人。こっちはハインリヒ、今度の本の装丁をしてくれたデザイナー。」
そう言われて初めて、目の前のジェロニモに気づいたと言うように、男は---ハインリヒは、銀色がかった淡い青の瞳で、ジェロニモを大きく見上げた。
「初めまして。」
ピュンマの本の、白と黒の、色は地味なのに、奇妙に激しい構図の表紙の絵を描いたのはこの男かと、少しばかり意外に思いながら、同時に納得もしながら、ジェロニモは、どうしてか笑いを浮かべられずに、右手を差し出した。
ハインリヒは、ジェロニモの手を眺め、考えるような表情を見せてから、ズボンのポケットに右手を入れたまま、左手を差し出した。
「よろしく。」
これは、新手のいやがらせだろうかと思いながら、差し出した右手を引っ込めて、左手を出す。
考えたくはなかったけれど、見事なほど白い外見の、この白人の男は、ある種の有色人種に偏見でもあるのかもしれないと、うっすらと、不快感はなく、思う。
それにしても、こちらから目をそらさずに、真っ直ぐに見上げて、何か、思うところでもあるかのように、見つめてくるのは、一体どうしたわけだろうかと、手を握り合ったほんの一瞬の間に、ジェロニモはいろんなことを考えた。
ハインリヒは、左手での握手を終え、じゃあ、とピュンマにもう一度振り返って、静かに部屋から出て行った。
何となく、意味もなく、人込みをすり抜けてゆく、その後姿を振り返って、ジェロニモは、何度も左手を、握っては開き、開いては握り、一体何だったのだろうかと、左手の握手の意味を考えていた。
ハインリヒの姿が見えなくなってから、くすりとピュンマが笑う。
「利き腕を大事にしてるだけだと思うよ。変わってるって言えば、確かにそうだけどね。」
ジェロニモの懸念を悟ったように、ピュンマが言う。
「利き腕に触らせないなんて、殺し屋じゃあるまいし。」
ジェットが、混ぜ返すように、揶揄するように笑った。
ピュンマの首筋に、顔を埋めようとするジェットを見下ろして、ジェロニモは、もう立ち去るタイミングを計り始めていた。
「バー」
仕事が終わった後で、ふらりと寄るバーがある。裏通りの、小さなビルの地下にあるその店は、奥に深く、皆が肩を寄せ合いながら、けれど互いに知らんふりでグラスを傾ける、そんな店だった。
つるりと頭を撫でるのがくせの、見事に頭髪のない、グレートというバーテンダーがカウンターにいて、出すのが酒だというだけで、雰囲気は、小さなコーヒーショップとそう変わらない。
相手を探したいわけではない、ただ、自分と同じ種類の人間たちの中で、静かに過ごしたい連中の集まる、小さな店だった。
ほとんど酒を飲まないジェロニモは、他の店には一切立ち入らないのだけれど、仕事を終えて、家に帰る前に、ほんの1時間ほどを、この店で過ごすことがたまにある。
店の奥には行かず、視線さえ投げかけずに、カウンターのいちばん隅に腰を下ろして、生のウイスキーを、舐めるように飲む。
2杯目を注文することは滅多となく、グレートが、親しげに、けれど口数は少なく、ほどよい加減でかまってくれるのに、これもまた口数少なく、返事を返すだけだった。
やあ、調子はどうだい。今夜は降るかね。もう1杯、行くかい。
何を訊かれても、ああ、いいや、としか返さないジェロニモを、それが客商売というものなのか、いやな顔も見せずに、奇妙に悟りすましたような、けれど嫌味ではない笑みを浮かべて、グレートは、ジェロニモがちょうど良いと思う愛想のなさで、いつも気を配ってくれる。
せいぜい週に1度程度しか顔を出さない自分を、ジェロニモは常連などとは思っていないけれど、グレートの方は、特別扱いをするではなく、けれど、無下に扱うでもなく、そんな態度が、ジェロニモと似たような、物静かな人間たちを、ここに引きつけているように思えた。
いつものように、カウンターの隅に、大きな体を押し込めて、グレートが差し出してくれた、ウイスキーの入ったグラスを、厚紙のコースターから取り上げて、黙ったままで、ちびりちびりと飲んでいた。
店の中には、ジェロニモの他に数人の客がいて、けれど、カウンターにいるのは、ジェロニモだけだった。
階段を降りる足音が聞こえ、店の扉が開いて、空気が動いた音がした。誰かが入って来たのだと、そちらに顔も向けずに思う。誰が入って来ようと、興味はなかったので。
そうすると、薄い絨毯を引いた店の中を、足音を殺したように歩く気配が、ゆっくりと、ためらいながらやって来て、ジェロニモの傍に立った。
空いている店の中で、わざわざ人の隣に坐りたがるのも酔狂だなと、ジェロニモはまだ、真正面を向いたままだった。
「やあ。」
素っ気ない声がして、自分に話しかけているのだと気づいて、ジェロニモはようやく、そちらに顔を向けた。
カウンターの中で、グレートが、不思議そうに、ふたりを交互に見ていた。
「・・・ピュンマの、パーティーで会った・・・」
色の淡さはそのままで、今日は、水色のワイシャツに、紺色の長いコートを着ている。両手は、コートのポケットに入ったままだった。
ああ、と、思わず声に出して、ジェロニモは、ちらりと見えない左手に、視線を流した。
ハインリヒと言う名前だったなと、思い出して、こんな店で会ってしまったことに、居心地の悪さを覚えながら、自分の隣りに坐れとも言わずにいると、ハインリヒはグレートにあごをしゃくって、いつもの、とこれもまた素っ気なく言った。
グレートは、するりといつもの笑顔に戻り、ごそごそとカウンターの後ろで、ハインリヒのいつものやつを、用意し始める。
ハインリヒは、ジェロニモに声を掛けないまま、カウンターの高い椅子に腰を下ろし、ふたりは、黙ったままで、肩を並べた。
知らない人間と話をするのは、ひどく苦手だ。だからこそ、誰も自分にかまわないこの店が気に入っている。わからないように、そっと肩をすぼめて、ジェロニモは、どうやって席を立とうかと、まだ酒のたっぷりと残ったグラスに視線を落とす。
何か、会話の糸口はないかと、ちらりと隣人を見やって、そして、右手にだけ、黒い革手袋をはめているのに気づく。
利き腕を大事にしているらしいと、ピュンマが言ったことを思い出して、けれどそのことを話題にするのは、無礼なのだろうと思う。
ピュンマのパーティーに招待されていたということは、本の装丁をやったというだけではなく、そして、どうやらこの店の常連らしいということは、つまりはお仲間ということかと、自分がその種の人間だとあまり悟られない以上に、この男も、そんなふうには見えないなと、黙ったままで、考えをめぐらせていた。
グレートが注いでくれた酒---透明な、酒だった---を一口飲んでから、やっと、ハインリヒが口を開いた。
「あんたのことは、前からここで見かけてたんだ。」
どう答えていいのかわからずに、ジェロニモは、そうか、とだけ、これもまた素っ気なく返す。
店の奥へは一切行かないから、そちらでひっそり飲んでいる連中の顔など、見たこともない。何となく、奇妙な成り行きになったなと、少しばかり困惑する。
「・・・どこにいても、目立つのは自覚してる。」
的の外れた反応とわかっていて、自分で、先に言った。
浅黒い膚の色も、ある種の東洋人と似た顔立ちも、頬から額に、縦横に走る刺青も、一部を残して、きれいに剃り上げた頭髪も、そして、どこにいても、誰よりも大きな体も、ジェロニモの好むと好まらずとに関わらず、常に人の視線を集める。
ジェロニモが属する小さな社会では、ごく普通の容貌が、外の大きな世界では、奇異として受け止められ、だからこそジェロニモは、目立たないように、いつも物静かに、ひっそりと在ろうとする。
その努力は、たいてい無駄に終わるのだけれど。
ハインリヒが、隣りで、肩をすくめた。
「それはお互いさまだな。目立つからって、別にいいことなわけじゃなし。」
それが普通のペースなのか、もう1杯目を干して、空のグラスをグレートに差し出すハインリヒに、ジェロニモは、うっすらと驚いて、思わずあごを引いた。
表情も変えずに、無言のまま次のグラスを差し出すグレートに、ダンケ、と短く言うハインリヒの横顔を、ジェロニモは、もう目もそらさずにじっと見つめた。
ジェロニモとは別の意味で、確かに目立つ容貌ではあった。
人目を引かずにはいられない人間---ピュンマやジェット---を身近に見ていて、けれど、そういう人間たちとは、人目を引く意味が違う。
容貌の華やかさや、身にまとう気配のあでやかさではなくて、ただ、"普通とは違う"というだけのことで、人目を引いてしまう点では、確かにジェロニモもハインリヒも、同じ種類の人間と言えた。
ジェロニモは、その視線に対して、ひたすら無言であろうとしているけれど、ハインリヒは、どちらかというと、にらみ返して、全身で拒んでいるような、そんな雰囲気があるように思えた。
まるで、銀色の、よく切れるナイフがそこにいるような、そんな錯覚を覚えて、ジェロニモは、ハインリヒを見つめるのをやめた。
ようやく、グラスの底がうっすら見え始めていたけれど、それを飲み干すこともせず、ジェロニモは、ただ黙って、2杯目を終わらせるハインリヒと、そこで肩を並べていた。
左手の握手のことを思い出して、どうしてか、そこから立ち上がれずにいた。
「左手と右手」
その次に、グレートの店で会った時も、ハインリヒは、ジェロニモの隣りに腰を下ろした。その次に、ハインリヒが先に来ていた時も、ジェロニモは、ほんの一瞬考えた後で、無言のまま、その隣りに坐った。
特に何か、興味のある話題があるわけではなかったけれど、こんなところで行き会ったのも、何かの縁なのだろうと思って、一切の詮索をしないグレートの目の前で、ふたりは、連れともただの他人ともつかない態度で、静かに酒を飲んでいる。
共通の話題と言えば、ピュンマのことくらいしか浮かばず、けれどジェロニモは、どうしてか、ハインリヒと、ピュンマのことを話したいとは思わなかった。
いつも、暗い、地味な色の服装に、酷薄に見える薄い唇を引き結んで、グラスを傾ける。
地味という点では、ジェロニモも人のことは言えないけれど、少なくとも、冷たそうに見えると、人に言われたことはないなと、ハインリヒの横顔をちらりと見て思った。
どこでも、頭ふたつ抜き出た大きな体で、けれど、壁の色に同化してしまうようなジェロニモとは違い、どれほど色を抑えても、その、冷たいほど白い外見は、肩の辺りから発する冷気のようなもののせいなのか、ぴしりとその場の空気を凍らせてしまうように思えた。
こんな場所で、男がふたり、共通の話題を探すとなれば、自然に仕事の話になる。
設計技師をしていると言うと、ハインリヒは意外そうな顔をし、その表情が、奇妙にほころんだのに、ジェロニモは、思わずつられて笑い返しそうになった。
ハインリヒは、デザイナーとして、小さな仕事を引き受けながら---ピュンマとの仕事は、大きなもののひとつだったと言った---、長距離トラックの運転手をしていると言った。
デザイナーと、大きなトラックが結びつかず、ジェロニモは思わずあごを引いて、ハインリヒを見返した。
ハインリヒは、そんな反応に慣れているのか、ふんと笑って、またグラスを傾けた。
「ひとりで、車の中にいるのが気楽なんだ。」
「どんなものを運ぶんだ?」
続けて質問をしたジェロニモを、今度はハインリヒが驚いたように見て、少しばかり、憮然とした表情になる。
「別に、何でも。免許も資格も一通り持ってるからな、ガソリンも危険物も運べる。」
運搬物によっては、特殊な免許や資格が必要なのかと、トラックのことは何ひとつ知らないジェロニモは思った。
自分のしている仕事も、仕事の傾向によって、必要な免許や資格がいることに思い当たり、ああ、同じことかと合点が行く。
それきりまた、会話は途切れて、グラスも空になり、ハインリヒが次を頼むのかと思って、そうしたら、席を立とうと、ジェロニモは思っていた。
ハインリヒは、何か考えるように、空のグラスを、手の中で何度も回し、それから、ごとんと音を立てて、ぶ厚い底を、コースターの上に下ろした。
「明日からまた、仕事だ。多分、来週まで、戻らない。」
何の仕事だとか、いつからいつまでとか、詳しいことは一切言わずに、ジェロニモが知る必要はないと思っていて、ただ、会話の繋ぎに言ってみただけなのか、それとも、ジェロニモが、それについて質問するのを待っているのか、ハインリヒの投げ捨てるような口調からは、どちらとも聞き取れなかった。
それきり黙ってしまったまま、ジェロニモも、問い返すタイミングを無様に逃して、少しばかり気まずい沈黙をふたりで分け合った後、別に珍しいことでもなく、ハインリヒは、そのまま、無言で席から立ち上がり、店の入り口に向かって歩き出す。グレートが、ハインリヒの残したグラスを、カウンターの後ろに取り下げながら、またなと、ドアをすり抜けてゆく背中に言った。
ジェロニモは、一瞬考えてから、静かに、けれど素早く席を立って、グレートに、目顔でうなずいて、ハインリヒの後を追った。
何事かと、ぎょろりと大きな目を剥いたグレートに、横顔だけを見せて、店の外に出て、地上へ向かう階段のいちばん上に、求める背中を見つけて、慌てて駆け上がる。
階段を上がりきり、人通りのない路上に出たところでハインリヒに追いついて、追って来たジェロニモに振り向いたその顔に、特別な表情はなかった。
何か言いたくて、何か訊きたくて、追い駆けてきたのだと思うのに、その、肝心な用件を思いつけず、ジェロニモは、焦れながら、ハインリヒが、先に何か言ってくれないかと、勝手なことを思う。
左手での握手のことと、右手のことと、仕事のことと、そして、今度は、いつ会えるのかということと。
一度に、訊いてみたいことがあふれ、けれどどれも、口にすれば、この無口な男の機嫌を損ねてしまうだけのような気がして、そんなことを、口にしたいと思っている自分にも戸惑い、ジェロニモは、どうしていいのかわからずに、ハインリヒを見つめたまま、ただ、立ち尽くしていた。
右手を、ズボンのポケットに入れているハインリヒの真似をするように、コートのポケットに両手を差し入れる。そうして、左の指先にかちゃりと触れた鍵の束で、この場に相応しい質問を思いついた。
「車でないなら、送って行こう。」
薄暗い裏通りで、ハインリヒの顔は、いっそう白い。
凍りついたように動かない、その頬の線を見て、自分が、ひどく陳腐な台詞を口にしているのだと思う。
ピュンマならきっと、こんな無様な真似はしないだろうと思って、急に、電話をして、話をしたくなった。
ハインリヒが、ようやく唇の端を上げて、笑う。笑顔だと気づくのに、一瞬かかった。
「いや、歩いて帰る。どうせすぐ近くだ。」
近くなら、よけいに送って行こうと、思わず言いそうになって、車のキーを握りしめて、出かかった言葉を飲み込んだ。
向こうが引くなら、今は押さない方がいい。そう、咄嗟に思って、また、ピュンマの顔を思い浮かべた。
ハインリヒは、おかしそうに肩をすくめ、店の中で見せる固い横顔が嘘のように、大きく唇の端を吊り上げる。
「それに、人の運転は信用しないことにしてる。」
いつの間にか、全身が硬張っていた。ばりばりと音を立てそうな背骨から、必死で力を抜いて、あっさりと断られたことに、心のどこかで安堵しながら、ジェロニモは、ポケットに入れていた右手を、ゆっくりと外に出した。
「そうか。」
ハインリヒの笑顔を写したように、思わずにっこりと笑い返して、笑顔の勢いで、訊いた。
「仕事は、いつまでなんだ。」
ハインリヒの視線が、数秒、泳ぐ。うろたえたように、足元に視線を落とし、爪先が、舗装を削るように、少しだけ動く。
小さな声が、答えた。
「・・・週末には、戻ってくる。」
週末というのは、土曜のことだろうか、それとも日曜の夜だろうかと、問い返したいのを抑えて、ジェロニモは、うなずいて見せるだけにした。
その代わりに、意地が悪いと取られかねない仕草で、右手を、ハインリヒに向かって差し出した。
「気をつけて。」
握手のつもりだった。
右手を差し出してくれるだろうかと、思いながら、辛抱強く待った。
ハインリヒは、やはり右手はポケットから出さないまま、ためらいを見せた後で、左手を伸ばしてくる。
色の違う、左手と右手の握手は、ひどく奇妙に見えたけれど、悪い眺めではなかった。
「おやすみ。」
そう、先に言ったのは、ハインリヒだった。
「おやすみ。」
手が離れ、さらに暗い方へ歩き出す、ハインリヒの背中を見送って、左手を、握っては開き、開いては握り、ピュンマはどう言うだろうかと、ジェロニモは思った。
「ひとり」
あまり必要のない残業をやって、真っ直ぐ家に帰る。そうして、週の半ばをやり過ごした。
ひとり暮らしには、少しばかり広すぎるようにも思えるアパートメントには、ベッドルームと、仕事のための部屋がひとつ、比較的大きなキッチンと、ぽつんと、ソファとコーヒーテーブルが置いてあるだけのリビングがある。
キッチンからリビングを抜けると、ベランダに出る。高速のすぐ傍の、緩急地帯の大きな森が、建物の裏側に広がっているのが見える。
家を飾ることに興味はないので、あまりバランスも考えないまま、壁に、ぽつりぽつりと、気に入った写真や絵がかかっているのが、唯一の装飾と言えた。
別れた時に、持ち物をすべて分けたけれど、家具の大半に、ジェロニモは執着もなく、ピュンマが申し訳ながって置いて行った以外は、今もほとんど増えていない。
もっとも、ベッドだけは、ジェロニモの体の大きさのために、特別に作らせたものだったので、それは今は、ジェロニモがひとりで寝るベッドルームで、部屋の主以上に、大きな顔をしている。
不意に思いついて、真夜中近く、窓ガラスをきれいに拭き始めた。
暗くて、汚れがよく見えないのにもかまわず、ペーパータオルを手に、癇性に、ベランダに面したガラスのドアと、他の部屋の窓と、バスルームの鏡と、バスタブを仕切るガラスの引き戸も、内側も含めて、きれいにした。
何となく、ひとりで満足して、その夜は、いつもよりよく眠れたように思えた。
翌日の夜は、キッチンを磨いた。
象牙色のマーブルのカウンターをぴかぴかに磨いて、くすんでいたシンクも、顔が映るほど磨いて、オーブンの中もきれいにした。
すべてすむのに、思ったよりも時間がかからず、引き出しからスプーンやフォークを全部取り出して、熱湯で洗った後に、それも1本1本丁寧に磨いた。
その夜は、ショットグラスはこうやって磨くもんだぜと、グレートの店で、カウンターの後ろで、グレートに教えられながら、叱られているのを、いつものように飲んでいるハインリヒに、笑われている夢を見た。
土曜の夜に、閉店には少し間のある時間に、グレートの店に行った。
もしかすると、仕事から戻って来ている---ハインリヒが、という部分は、わざと頭の中で抜かしていた---かもしれないと思って、閉店までいるつもりだった。
週末とは言え、土曜のせいなのか、仕事帰りでもなければ、わざわざ足を運ぶ客もいないのか、店の中は閑散としていて、それでもグレートは、いつもと変わらない態度で、ジェロニモに、いつものウイスキーを差し出した。
グラスから、酒を舐めながら、何度もドアの方へ振り返る。来ないだろうと確信があったけれど、さっさと席を立つ気にはどうしてもならず、ちびりちびりと時間を潰す。
カウンターのいちばん隅で、自分の左側が、奇妙に淋しかった。
狭い店の中で、隣り同士に坐れば、肩が触れ合うこともある。体を動かせば、膝や爪先が、うっかりぶつかることもある。今夜は、その心配がない。そうして、その心配がないことを、奇妙に淋しいと感じていた。
ひとりでいる時間を過ごすのに、少しばかり苦労しているのは、久しぶりのことだったから、戸惑いばかりが先に立って、それを楽しむ余裕は、まだない。
1杯目を、ようやく半分にした頃に、ジェロニモは、退屈そうにしているグレートに、自分から話しかけた。
「あの男は、いつも何を飲んでるんだ。」
「あの男? ハインリヒのことかい?」
即答へ、ワンクッション置くためなのか、グレートが、わざとらしくもなく、そんなふうに返して来た。
「ジンだよ。ツーショット分に、氷入り。」
自分の、生のウイスキーのグラスを、目の前に傾けて、ジェロニモはそのまま、1分近く考え込んだ。
明日は日曜日だ。この店は休みで、月曜まで、仕事もない。
それをくれと、短く言うと、グレートが驚いた顔で、けれど何も聞かずに、手早く新しいグラスを、コースターと一緒に差し出した。
氷の入ったジンのグラスを、自分の前ではなく、隣りに置いて、また、まだ残っているウイスキーを舐めた。
グレートは、うっすらと微笑みを浮かべて肩をすくめると、ジェロニモに背を向けて、カウンターの裏側で、何やらごそごそとやり始める。
グラスの中で、ジンにあたためられた氷が、ゆらゆらと溶け始めるのに目を凝らす。そして、そのグラスに添えられた、黒い革手袋の右手を思い浮かべる。
次は、いつここで会えるのかと、きちんと訊かなかった、自分の不甲斐なさに苦笑をもらして、ジェロニモは残っていたウイスキーを一気に干した。
酒を混ぜて飲むのは好みではなかったけれど、今夜はかまわないと、少しだけ投げやりに思いながら、ジンのグラスに手を伸ばした。
喉や舌を丸く包むようなウイスキーとは違って、ジンの強い香りは、味と同じほど喉の奥に突き立つ。二口飲んでから、人の運転は信用しないと言った、ハインリヒの声を思い出していた。
自分の運転も、信用しない方が良さそうだと思って、もう、自分が酔い始めていることに気づく。
今夜はここに車を残して、表通りまで歩いて出れば、車が拾えるだろうと思って、また強い酒を口にする。
酔って帰った夢の中に、ハインリヒが現れるだろうかと思って、それを、口に出してつぶやいていた。
その声が聞こえたのか、グレートが振り返って、怪訝そうな顔をする。それに、普段なら考えられないほどにこやかな笑みを返して、ジェロニモはまた、酒を飲んだ。
あの右手に触れたら、どんな顔をするのだろうか。酒を過ごせば、酔った勢いで、そんなこともやってしまえるかもしれない。
酔っているなと思って、溶けて小さくなった氷を、口の中でがりがりと噛んだ。噛み砕きながら、眠るように、目を閉じた。
そろそろ、店の閉まる時間だった。
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