同じ匂い
あからさまにそうと分かる、何か合図があるわけではなかった。それでも、空になったマグを手渡す時の指先の触れ合い方や、髪に触れる時の指先の走り具合や、あるいはもう少し分かりやすく、しばしの別れの時に交わす淡い口づけの外れるタイミングだとか、そんなことで、もう少し先を誘われているのだと分かる。
後で、と言うそんな合図を、逃さす受け取れるようになったのは一体いつのことだったか。
眼下で、白い体がうねってくねる。投げ出した腕が振れて、鈍く銀色に光るのに目を奪われてから、その腕の先が首筋をかすめた後で二の腕辺りへとどまり、指先を食い込ませて来るのに、痛みらしい痛みを感じないまま、ただ耐える。
胸は離れていた。互いを眺められる姿勢で、けれど目を凝らしているのはジェロニモだけだった。いつもの冷静さとは似ても似つかず、こんな時には素早く没頭してさっさと線を越えてしまう。ハインリヒの、その切り替えの早さに、楽しめることはとことん愉しむべきだと言う信条らしいと語られずに悟れたのも、馴染んでしまった躯のおかげだ。
こうなるまでに掛かった時間の長さとは裏腹に、一度そうなってしまった後は、まるでこんなことを覚え立ての少年同士のように、少しでも機会があれば触れ合わずにはいられない。すれ違う時には指先が自然に伸び、誰もいない物陰にひそめるなら、たとえ数秒でも姿を隠して口づけを交わさずにはいられない。肩や背中に触れる回数が増えているのを、自分たちが気づく前に周囲に悟られてはいないかと、思い始めたのはごく最近のことだ。
嘘をつける性質(たち)でもないし、必死に隠すことでもないような気がして、そうと知れてしまえばそれまでのことだと、ほとんど開き直ったように考えるのが、ジェロニモひとりだけのことなのかどうか、それを今さらハインリヒに改めて訊くのも気恥ずかしい気がして、できるのはせいぜいが、声を耐える仕草を見せた時には、躯の動きをゆるめる程度のことだった。
ハインリヒの躯が語り掛けて来る。重ねて繋げた躯は、口先よりも雄弁だ。なめらかな動きは、言葉でなく振動で色んなことを伝えて来る。こうしているのは苦痛ではないし、できるならずっとこのままでいたいと、そんな"音"のようなものを聞き取って、ジェロニモはひとり目を細める。すかすようにハインリヒを見下ろして、伝え合う熱さに溶けそうになりながら、ひとつになるにはどうしたらいいのだろうかと、埒もないことを考え始めていた。
言葉は必要なかったから、安心して体を倒し、胸を重ねてから唇を触れ合わせた。唇同士で撫ぜ合って、呼吸に湿って開いた唇の間で舌先を伸ばす。上と下と、別々の粘膜が同時に触れ合うと、もう手足も別々なのが惜しいように、互いの肩や背中へ腕が絡みつく。
ハインリヒの掌がジェロニモの首に触れた。首筋を両掌で撫で上げ、あごの線を包むようにした後で、指先を髪の中へもぐり込ませて来る。時々、剥き出しの関節の重なりの間に、ジェロニモの髪がひと筋引っ掛かって、きゅっとこすれた音を立てた。その小さな小さな擦過音は、まるでハインリヒの躯の中から聞こえて来るようだ。
剃り上げた下部へ、草でも撫でるように鉛色の指先が滑る。そうしてまた髪を絡めに来て、ぎゅっと握り込まれると、ジェロニモの意思に関わらず──あるいは、そのせいで──そこからハインリヒの全身に絡みついてゆくような気がした。
全身の皮膚でハインリヒに触れ、そして髪もハインリヒへ触れる。白い膚の上へ落ちて散る、どこまでも黒い髪は、それでもふたりのいる薄闇の中へ完全には溶け込まずに、ひと色分、輝く色をたたえて、ハインリヒの皮膚を確かに飾っていた。
その間に、ジェロニモの皮膚は赤く浮かび上がった刺青に彩られて、ほとんど血の色のように、色の濃さと深みが、触れれば熱いのだと錯覚さえさせる。実際に、ジェロニモの体温は上昇していた。
息が熱い。重なって湿って、いっそう熱を増して、部屋の空気を湿して、重くなった空気は床に落ち、ふたりのひそかに立てる音を巻き取ってはそこへとどまって溜まる。霧のように、歩けば足元へ白く濁った夜気がまとわりつきそうだ。
ジェロニモ、とハインリヒが呼んだ。耳へ声を注ぎ込むように、ほとんど耳朶を食む近さで、ハインリヒの少し低めようとしてかすれた声が、ほんものの熱になって、脳の真ん中辺りへ土砂降りのように降り掛かって来た。
うっかり押しつけた肩の重みを避けるためか、ハインリヒが胸元へ腕を縮め、不意に速くなったジェロニモの動きに、数拍遅れて合わせて来る。
開いて、できるだけ楽な位置を探す膝の先が、時々ジェロニモの脇腹の辺りへ触れた。こすれて来るのは膝の皿ではなく、マイクロミサイルの発射口のカバーの合わせ目だ。生身で蹴られれば簡単に骨は折れそうだけれど、ジェロニモには皮膚に赤みすら残さない。その膝の丸みに掌を乗せて、軽々と動く脚の軽さに、体の中の武器は全部取り除いてあるのだと、改めて思い出す。
用心にマシンガンは装填済みのままのことが多いけれど、抱き合う時には、それも全部外す。服を脱ぐと同じに、ハインリヒの裸は、武装解除した丸腰と言う意味でもあった。
ミサイルも弾丸も何もかも取り去ったハインリヒの体ははっきりと分かるほど軽くなって、それでも誰かが軽々と抱き上げられると言う具合ではなく、だから今もベッドのきしみは、どの瞬間にベッドの脚が折れても驚かないと、ふたりは常々冗談にしている程度に耳障りだ。
ジェロニモの、戦車のような体の下でハインリヒの裸の躯はびくともせず、骨を折る気遣いはない。生身ではないし、武器を抱えて歩き回るために体はむやみに頑丈だ。
兵器がふたつ、そしてひと──のようなもの──がふたり、もう気配を消すことも忘れて、薄闇の中で一緒にうごめいている。呼吸の激しさは躯の熱そのまま、空気の揺れが次第に大きくなって、そしてふっと、寄せる波が不意に穏やかになる。
ジェロニモは、汗に濡れた額をハインリヒの首筋にこすりつけた。落ちた髪を耳の方へかき上げて、ハインリヒの指先が優しくジェロニモの頬を撫でる。体の末端はまだ熱いまま、汗だけではなく濡れた躯の奥はどこもまだどよめきがおさまらない。
躯を引くと、分かれた手足の間に空気が入り込んで来る。またふたつの躯に戻って、それでも指先はじっと触れ合わせて、このままではいられないと分かっているのに、皮膚の厚みほどの隙間さえ受け入れ難かった。
人工皮膚もその下の装甲も擦り切れるほど、近く寄せた躯をこすり合わせて、そうし続けたところでどこかへ行き着けると言うわけでもないのに、それでも生身の振りをして、生身の真似事を繰り返して、今絡み合わせたままの指先のように、ふたつに分かれる必要のない時がいつか来ればいいと、霞の夢のようなことを考えているのはふたり一緒だった。
向かい合って抱き合う腕をゆるめることができずに、けれどもう夜明けの方に近かったから、もう一度と思ってはいてもそこから先へ行くわけには行かずに、やっと腕を引いたのはハインリヒの方だった。
体が離れる前に、まるで最後の別れだとでも言いたげに、ジェロニモの肩口へ額をこすりつけ、それから、そこへ散っていた髪を唇の上にすくい取り、紅い皮膚の間で噛む。ざりっと唇をこする音が、首筋の近くに聞こえた。
ハインリヒの動きには逆らわず、ジェロニモはそれでも自分の方へ向いたハインリヒの背中に、ぴったりと自分の胸を近寄せて行くと、重さを気にしながら腰に腕を乗せ、皮膚の下を決してざわめかせはしないかすかさで、ハインリヒの腿の辺りへ淡く触れる。
人工皮膚と装甲の変わり目の線へ指先を揃え、すっと腿の内側へ向かって滑らせると、ハインリヒがくすぐったそうに肩を縮め、鼻先に抜けるような甘い、子どもっぽい笑い声を小さく立てた。
声と肩の動きがまた空気を揺らし、そうして、ハインリヒの今はすっかり短くなった髪の先から、数時間前に使ったらしいシャンプーの匂いが立つ。ジェロニモのそれと、同じ匂いだった。ジェロニモは思わず目を細めた。
ジェロニモの手が、これ以上は心を乱さないように、ハインリヒの金属の膝はしっかりと重ねて合わされ、
「お休み。」
今夜はもう、夢の中でだけ会うことにしようと、そんな響きが聞き取れた。
「おやすみ。」
ジェロニモも目を閉じ、ハインリヒの髪の先へ顔を埋めるようにして、髪から皮膚へ染みついてゆく同じ匂いに包まれて、夢の中でハインリヒを抱きしめるために、腕は間違いなくハインリヒの胸の前へ回して、闇がざめきを吸い取るまま、ようやく静けさの中へ沈み込んでゆく。