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微行

 それは、フランソワーズからの短い手紙だった。
 仕事から帰って来たアパートメントの1階の集合ポストに入っていた、白い小さな封筒。表書きの字ですぐにそれと分かり、ハインリヒは部屋の中へ入ると足元へ荷物を置いて、封筒の横長の辺へ左手のナイフの刃を滑らせた。
 薄い便箋に、意外なくらいにかっちりとした文字──フランス語の──が几帳面に並び、元気かと簡単に尋ねた後に、また舞台で踊るのだと記してある。会場の名前と住所と演目、そしてフランソワーズの役を伝えて来て、主役ではないけれど、その次の次くらいに重要な役で、今もとても厳しい練習の真っ最中だと、ちょっと肩をすくめてはにかんでいる表情が目の前に見えるような、そこだけ跳ねた字に、ハインリヒは仕事の後の疲れも一瞬忘れて、便箋に向かって微笑んでいた。
 もし見に来てくれるなら、チケットを取って当日の会場の受付に預けておくからと、2行の空白の後に、そこは少しだけ字が小さくなって続いている。
 フランスまで、フランソワーズの踊りを見に出掛けてゆくにはやぶさかではない。取ろうと思えば休みは何とかなる。
 封筒は目の前のキッチンテーブルに放り出して、便箋だけを手に、ハインリヒは取り上げた荷物を解くために寝室へ向かった。
 洗濯をしてちょっと買い物をして、それから少し眠るかそれともそれを先にするか。まあ午後は少し浅く、窓から入る陽射しは充分に明るい。床に伸びる日だまりが、舞台へ当たるライトを思い出させて、そこできれいに着飾ったフランソワーズが、立てた爪先から真っ直ぐに伸びた足を軸にくるくると軽やかに回る姿が、目の前をよぎってゆく。
 フランソワーズの踊る姿を思い浮かべて、それから、ハインリヒは便箋を持ったままの自分の手を眺めた。側面に収まっているナイフの刃先が、目を凝らせばかすかに見える。
 そしてもう、考えているのはフランソワーズのことではなかった。


 フランソワーズが主役で踊るのだと、その時たまたま日本に集まっていた仲間の皆が招待された舞台だった。
 ジョーとギルモア博士は大きな花束を用意し、他のメンバーは全員──イワンとコズミ博士もだ──でバスケットを楽屋へ送り、張大人など公演のスポンサーを名乗り出て、飯店の名入り花輪を並べる始末だった。
 いつもなら子守りの誰かと留守番のイワンすら、乳児や幼児連れで見れる席がちゃんとある会場だからだと、付き添いはコズミ博士が名乗り出てくれて、ほんとうにメンバーが全員、きちんと会場で席に着いてフランソワーズの舞台を見ることのできた、珍しい機会だった。
 ジョーとギルモア博士は舞台へ花束を差し出すために前方へ、張大人はグレートとピュンマを伴ってスポンサー席へ、背が高くて視界を塞ぐジェットとハインリヒとジェロニモはずっと後ろの、けれど真ん中付近の席へ落ち着いた。
 ハインリヒを間に、ジェットがその左側へ、ジェロニモが右側へ、ジェットはあまり余裕のない座席で長い手足をやや持て余し気味に、明かりが落ちて暗くなるまでには何とかそれほど窮屈ではない姿勢を見つけて、ジェロニモは、普段は大抵イワンの世話で別行動だったから、空手でこんなところにのんびり坐っていられるのが逆に落ち着かない様子で、最初の間はイワンと一緒のコズミ博士は大丈夫かと、2階のガラス張りの親子用スペースを少しばかり気にして何度もそちらの方を見上げていた。
 ハインリヒはと言えば、隣人とほとんど肩寄せ合うようにしながら踊るフランソワーズを眺めると言う滅多とないこんな機会に、自分のサイズを呪うよりも、何もかもが小さな日本人向けの会場の造り──ここは日本だ──に無言でちょっと憤っている。
 ジェット以上に座席が窮屈なハインリヒとジェロニモは、何とか互いの体に触れない位置に手足を置いて、舞台の始まりを静かに待った。
 前の座席の背を蹴飛ばさないようにしながらようやく足を組み、端役ばかりの1場はとりあえず筋だけを追って、やっとフランソワーズが、ひとり色合いもデザインも違う衣装で舞台右端から登場した時には、それでも周囲から上がった拍手に誘われる必要もなく、ハインリヒはごく自然に両手を軽く打ち合わせていた。
 こればかりは人種の差で、ほっそりと長い手足と小さく見える顔の体つきは、舞台用に真っ白に塗られたごてごての化粧にも負けない本来の顔の造りだけではなく、フランソワーズは舞台の上で一際目立った。さすが主役に選ばれるだけのことはあると、内心感心しながら、ハインリヒはいつの間にか窮屈な座席の背に軽くもたれて、フランソワーズの踊りを楽しみ始めている。
 少々気の毒なのは相手役の男性で、フランソワーズとおっつかっつの身長に、技量の方もフランソワーズに圧され気味に見えて、まあ綺麗な女が主役ならそれでも構わないのかと、ソ連辺りの、ソロで踊る男性ダンサー辺りの、一体どこの運動選手かと思うような筋肉と跳躍力を思い出した分のちょっとした落胆は、フランソワーズのために脇へ置いておくことにした。
 バレエには素人のハインリヒがどんな感想を抱いても、きっと的外れに違いない。息を飲むほど美しく踊るフランソワーズを眺めて、それにただうっとりしていればいい。
 また背を少し伸ばしたついでに、そっと足を組み替えようと静かに解(ほど)いて下ろした膝の先が、うっかり隣りのジェロニモに触れた。おっと、と思わず出そうになった声を抑え、ハインリヒは動かないジェロニモにそれでもきちんと気を使って、膝を自分の陣地へしっかり引き寄せた。
 フランソワーズと恋人役のふたりが、自分たちきりで延々と恋を語らっているうちに、眠気を誘われたらしいジェットがハインリヒの肩へ寄り掛かって来る。2、3度軽く肩を揺すってみたけれど、ジェットの頭はすぐに元に戻って来る。ハインリヒは諦めて、後でフランソワーズに知れて叱られても助け船は出してやらないつもりでそのまま、またじっと舞台の方へ目を凝らした。
 恋人同士の気持ちが深まる間に、それほど派手な演技はなく、それでも舞台から発せられる空気にはやはりこちらを引き込むものが卒なくこめられていて、気恥ずかしさを感じる間もない彼女らの熱演だった。
 ハインリヒはいつの間にか舞台のふたりの心情に引きつけられていて、なかなかスムーズには結ばれず、周囲にも祝福はしてもらえそうにないらしい状況に、ふと憤りすらかすかに感じていた。
 人の恋路を邪魔する奴は何だって言ったかな。グレート辺りがさっさと覚えて使いたがる日本語の言い回しを思い出しながら、ふたりが手を取り合って見つめ合う舞台が場面転換のためにゆっくりと暗くなってゆくのに、その中に隠れてゆくふたりの輪郭を最後までじっと見つめる。
 不意に、溢れるように明るくなった照明と、さっきまでの静けさとは打って変わって騒がしい群舞に、額の辺りでも叩かれたように、ハインリヒは思わず椅子の背に向かって肩を引き、その拍子に崩れた膝がまた大きく開いて隣りのジェロニモに当たった。
 気にはしていないらしいジェロニモには決して聞こえないように、今度は舌打ちをしてまた膝を引き、勝手に動かないように、そこにしっかり自分の掌を乗せる。
 群舞は、恋するふたりの噂話を表して、彼女らに対する軽い嘲笑を見せて、いかにも騒々しい照明が、その下世話さの演出だ。
 またさっきの、人の恋路を邪魔する奴はと、どうしても全部が思い出せない言い回しを思い浮かべて、ハインリヒは恋人とうまく結ばれない少女──我らが麗しの姫君、フランソワーズ──に対する不憫さが、どこかでねじれて、今前方で舞台を眺めているジョーに対する憤りにすり替わる。
 子ども連れの観客を歓迎しているらしいこの舞台の、分かりやすい演出のせいで存外その中身に入れ込みながら、イワンもフランソワーズの晴れ姿を観て楽しんでいるだろうかと、ちょっと上を振り仰ぎたい気分になった。
 そして、イワンのことを思ってわずかに笑みに頬をゆるめた時、右膝に置いた鉛色の手の小指に、やわらかく触れて来るものがあった。
 片目は舞台へ向けて、もう片方の目だけ何とかそちらへ動かして──そうしたつもりで──触れるものの正体を確かめると、ハインリヒと同じように、こちらは左膝に置いた手の、ジェロニモの小指がそっと伸びている。爪の付け根をすり合わせるような触れ方に、ハインリヒはまた舞台へ視線をきちんと戻しながら自分も静かに応えて、小指だけをジェロニモの方へ伸ばした。
 ジェットの頭は、左側の肩で重くなる一方だった。
 舞台の明るさを受けて、客席も今はやや薄明るい。それでも皆前方ばかり見て、後ろには誰もいないふたりの席のひそかごとをそうと見抜く誰もいず、ジェロニモのその小指に自分の小指を絡めて行ったのは、ハインリヒの方だった。
 まるで、ふたりの間だけの秘密の内緒ごとのように、約束を交わす時の形に小指は絡み、言葉も視線もないまま、確かに今何かふたりきりの約束の誓いでもしたような気持ちが、繋がった小指からそっと伝わって来る。
 こんな風に、ジェロニモの手が空なのは滅多とないことだ。ただハインリヒに触れるだけのためにそこにあり、いつもならその腕の中にいるイワンは今はここにはいず、そのいないイワンの心配をする必要もなく、決してふたりきりではないこんな場所で、誰かに見咎められる心配もなく、何かを語り合う代わりに、今は小指がふたりの間を繋いでいる。
 舞台に再びフランソワーズが登場して、群舞の中に割り込む形で踊り始める。彼女にだけいっそう明るい照明が当たり、悲しげな表情がそこへ浮かび上がった。
 小指を絡め合わせて、もう少し大胆に膝先も寄せて、やがてやっと現れた恋人と一緒に、皆の思惑など埒外にしてふたり見つめ合いながら踊るフランソワーズたちの足元を、ハインリヒとジェロニモは一緒に視線の先に追っている。
 惑うように動きながら実は乱れのひと筋もないふたりの脚先の動きが、何よりもふたりの心の重なりの強さを表していて、ふたりの未来が一体明るいのか暗いのか、物語の筋の先を知らないハインリヒは、いつの間にかほとんどジェロニモの指先を全部握り込みそうになっていた。
 ジェットの頭の重さに押された振りで、ハインリヒの肩もジェロニモの方へ少し傾き、それでもジェットが目を覚ましたり客席が突然明るくなったりしたらすぐに離れられるように用心だけは忘れずに、膝先と肩先と小指と、そしてそっと傾いたジェロニモの耳の辺りが、時々ハインリヒの髪の上をかすめるように載っては去る。
 フランソワーズたちがようやく幸せに結ばれ、世界中がそれを祝福し、客席の誰もが笑顔を浮かべて長い長い拍手を始めるまで、ふたりの小指は絡んだままだった。
 完全に明るくなった客席から皆が立ち上がるまで、ジェットは目を覚まさなかった。


 また、フランソワーズの優美な姿が見れるのかと、ハインリヒはちょっと唇の端を上げて、今度のこの舞台は喜劇なことにさらに笑みを深くして、ついでに少しだけパリ見物でもして来る心づもりが、どこからともなく湧いて来る。ひとりきりのカフェで、フランソワーズの舞台の感想を理由にして、ジェロニモに長い手紙を書く自分の姿が思い浮かんだ。
 いつも通りフランソワーズは美しいに違いないし、フランソワーズの立つ舞台なら素晴らしいに違いない。
 観客のアンコールに応えて、舞台の化粧の上からでもその頬が上気していると分かるフランソワーズが、優雅に上半身を折ってお辞儀をする。そして、全身が埋もれそうなたっぷりと大きい花束を抱えて、舞台の成功を、誰よりも喜びながら舞台裾へ去ってゆく。そこにいなくても、ハインリヒは一緒に舞台を見ている仲間たちの気配を感じることができる。自分の右側に、ふとジェロニモの体を重さを思い出して、ハインリヒは今そっと自分の右肩に触れた。
 花束は仲間たち全員の連名にするかと、それもまた不意に思いつきながら、いつの間にか爪先へ伸びて来ていた日だまりの中にひとり立って、ハインリヒはフランソワーズへの返事の文面を考え始めている。
 これからやって来る短い眠りの間に、きっと踊るフランソワーズの夢を見るだろう。それを眺める自分の隣りに、イワンを抱いたジェロニモも現れるような気がして、ハインリヒは他に誰もいない部屋の中でひとりきりまた笑った。

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