Session



 なあ、と、声を掛けて、膝に乗った手を止めた。
 逆らうことはせず、けれど闇の中で、少しばかり怪訝そうに顔を上げたのが、人工の瞳に映った。
 これから組み敷かれるはずの、大きな胸の下から這い出すように、横たわっていたシーツから、背中を浮かせて体を起こした。
 まるで逃げるような格好で、開いていた膝を閉じながら、ハインリヒは、少しだけうつむいて、言いよどんだ唇を軽く噛む。
 「いやなら、別に・・・」
 どうしたとは訊かずに、いきなりそこへ結論を持って行くジェロニモに、慌てて顔を上げて首を振る。
 「そうじゃない。」
 素っ気なく返して、また顔を伏せた。
 自分のためでないことなら、必要となれば雄弁にもなれるふたりだったけれど、自分のことを語るには重い唇のせいで、少しばかり立ち入ったことを口にするには、どうしても余計なブレーキがかかる。
 そのブレーキを、どこから外そうかと、ハインリヒは黙ったままで考えていた。
 ジェロニモは、止められたままの姿勢で、ハインリヒが言いよどんだ先を、言わせずに去った方がいいのだろうかと、思案顔で、闇の中、凝視はせずに、視線をどこかに据えている。
 「前から、訊こうと思ってたんだが。」
 そこで言葉を切ってから、口にするには少々気恥ずかしい続きを、ハインリヒは、別の方法でジェロニモに伝えることにした。
 ---おまえさん、正面からが、好きなのか。
 すぐに反応がなかったのは、照れたからだとか、突然の脳内通信に驚いたからだとかと言うよりも、質問の意味がわからなかったからに違いなかった。
 無表情から、いっそう表情が消えて、ほんの一瞬、考え込むような表情が浮かんで、それから、その表情の上に、見る見るうちに血の色が薄く上がった。
 闇の、ちょうど半分ほどの濃さのジェロニモの膚の色では、その色はあまり目立たなかったけれど、それにつられたように、ハインリヒも白い頬を染めた。
 もしかすると、ハインリヒの知らない、何かジェロニモの戒律や習慣のようなものがあって、こんな時にも、それに従わなければならないのかもしれないと、真剣に考えたりもした。
 ジェロニモにも、誰にもそんなことは訊けず、いくら文献をひっくり返しても、そんなことまではわからず、結局本人に直接訊くしか手はないと悟って、けれど、それからすでに随分と時間が経っている。
 ---訊いてまずいことだったら、忘れてくれ。
 珍しく、狼狽をはっきりと面に表して、けれどそれ以上の反応のないジェロニモに、ハインリヒはまた話しかけた。
 別に、それが不満だと言うわけではなくて、ただ、まるでひどくこだわるように、ジェロニモが、その姿勢でしかハインリヒと抱き合おうとしないことを、ずっと不思議に思っていただけだった。
 何か掟とか誓いとか、ハインリヒには理解できない理由や事情があるかとも思えたし、そもそも、互いの好みを、口に出して話し合うほど打ち解けた間柄でも---心を開いていないというわけでは、決してなく---なかったので。
 こういうことは、きちんと話し合うのが礼儀だと言うのは建前で、こうしたいああしたい、ああしてくれこうしてくれと、あっさりと口にできるなら、何の苦労もいらない。
 できるだけ誰にも知られずに、ひっそりとしていたいと思っているふたりに、そんなあけっぴろげな、なまぐさい話は縁がないというのも、事実ではあった。
 「いや、そういうわけでは・・・」
 珍しく歯切れの悪い言い方で、ジェロニモが困惑した横顔を見せて、大きな肩を縮めるように、ハインリヒから体を引いた。
 顔を見合わせないために、何となく左肩と左肩を隣り合わせて、互い違いにベッドの上に坐って、ふたりは、別々に考え込むように、黙ったままでいる。
 ---気にしていたのなら、気づかなくて悪かった。
 ---不思議に思ってただけだ。俺の方こそ、気を悪くさせたなら悪かった。
 ---気を悪くなんか、してない。
 ---笑って答えたいような質問じゃあなかったんだろう。
 ちらちらと、互いを横目でうかがいながら、そうやって、唇は使わずに話し続ける。
 「・・・白けたな。」
 ジェロニモの左肩に、こつんと頭を乗せて、そのまま自分の肩でジェロニモを押しながら、苦笑を混ぜて、ハインリヒはそうぽつりと言った。
 ジェロニモも、くすりと笑い返したのか、肩がかすかに動く。
 そうして、どちらからともなく、くすくすと声を立てて笑い始めて、ふたりは、互いの右肩を、腕を伸ばして抱き寄せ合った。
 「良い教訓だ。」
 ジェロニモの肩に頭を乗せたまま、そこから先は、また通信装置を使って伝えた。
 ---こういうことは、"始める前に"きちんと話し合うべきだな。
 ---その大事な"話し合い"は、明日にしよう。
 珍しく笑う声で、ジェロニモが答えた。
 くつくつ笑いながら、また抱き合ってシーツの上に倒れると、けれど今夜はそんな気も、揃って失せてしまっていて、互いの肩まで毛布を引っ張り上げると、ふたりは背中と胸を合わせて、もう眠ってしまうことにする。
 それでも、いつもなら、すぐに睡魔を呼び寄せる疲れが足りず、ふたり揃ってもぞもぞと、腕や足の位置を、やたらと変えてみたりする。
 爪先を触れ合わせながら、ジェロニモの腕を、ハインリヒが胸の前で抱え直した時に、不意にジェロニモが、ひどく真剣な声で、低く言った。
 「・・・慣れないやり方で、無理をさせるのは、悪いと思った。」
 慣れないというのは、ジェロニモがなのか、ハインリヒがなのか、そこを深く話し合うのは明日にしようと、思って今は、問い返すのをやめる。
 代わりに、そんなつもりもなく、少しばかり下品な言い方を返す。
 「少しくらいの無理で、壊れるような体じゃない。」
 ジェロニモの腕を抱え込んで、
 「ああいうことは、そのうち何とかなるもんだろう。」
 言ってしまってから、自分がひどく露骨なことを口にしたのだと気づいて、ハインリヒは慌てて毛布の下に鼻先を埋めた。
 染まった頬に、ジェロニモが気づいたのか気づかないのか、それきり何も言わず、ただ、ハインリヒの胸に回した腕に少しだけ力が入り、それから、うなじに、
 「おやすみ。」
と、うっすらと、暖かい息がかかった。
 ほんとうに、そんなことを明日話し合うのだろうか、一体、何をどう話し合うつもりなのだろう、考えながら、ハインリヒの頬は、ずっと赤いままだった。
 違う姿勢で、違う位置で、眺めるジェロニモの表情を想像して、ろくでもない夢を見そうだと、まだひとり眠れずに、ハインリヒは思った。


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