雪かき
電話が鳴って、まず反射的に音のした方へ腕を伸ばしたのはジェロニモだった。そして、音が聞き慣れたものと違うのに気づいてから、ジェロニモははっきりと目を覚まして、ここがハインリヒのアパートメントであることを思い出す。
狭いベッドの中でジェロニモが動いたせいで目を覚ましたのか、まだ寝呆け顔で、ハインリヒはジェロニモの体越しに腕を伸ばして受話器を取った。
そのまま、体を中途半端に重ねるような姿勢のまま、ハインリヒは構わず話を始め、不思議なことにそれは英語で、ジェロニモはやけに明るい窓の外へ視線を向けて、今は一体何時だろうかと思う。
「ああ、じゃあ今すぐ。着替えて、15分くらいで。ああ、今すぐ。」
まるで子どもにでも言い聞かせるような、ひどく優しい念を押す声だ。ハインリヒの、珍しい声音にジェロニモはちょっと首を曲げてそちらを眺めて、見えないように肩をすくめた。
「仕事か?」
やっとジェロニモの肩の上から体を離しながら、窓の方を振り向くハインリヒに、ジェロニモは短く訊く。
「違うが、まあ似たようなもんだな。おまえさんも来るか?」
どこか面白そうに、ハインリヒが言う。ジェロニモはちょっと眉を寄せ、何かこれは冗談で、笑うべきなのかと一瞬考え込む。
「3軒先の家の雪かきだ。おまえさんとふたりなら時間が半分──いや、それ以下で済むな。」
雪かき、と言われて、ジェロニモはまた窓の方を見た。なるほど、確かに見える屋根の上が白い。そしてこの奇妙なまぶしい明るさは、積もった雪のせいなのか。
「朝メシは後だな。さっさと着替えて行こう。」
素足を蹴り上げるようにして、ハインリヒがベッドを下りる。
バスルームへ消えるその背を見送りながら、ジェロニモは、脱ぎ散らかした服を床から取り上げ、ハインリヒの分と自分の分をより分ける。
それから、申し訳程度に、乱れに乱れたベッドを、床に落ちそうになっている枕をとりあえず真っ直ぐにし、シーツを伸ばしてごまかした。
ふたりで一緒に過ごす時には、ハインリヒの方がジェロニモの許へやって来るのが普通だけれど、今回は、珍しく長い休みが取れたハインリヒのところへ、ジェロニモが足を運んだ。
ハインリヒのアパートメントは、残念ながらジェロニモには何もかもがサイズが足りず、最たるものがベッドだったけれど、階下の住民に気兼ねしながら、狭いベッドにほとんど肩を重ねるようにして眠るのも、一時(いっとき)のことならそう悪くもない。
昨日の夕方から降り出した雪に閉じ込められた形で、ふたりは早々とベッドにこもり、静かな、けれど騒がしい長い夜を過ごした。
そして今は、夜通し降り続いたらしい雪に、街中が真っ白に染まり、すでに踏みしめられて足跡だらけの、けれど歩道はほとんどがきれいに除雪されている。車道は白の一片も見当たらないほどきれいに雪が取り除かれ、道路の端には、小山のように汚れた雪が積み上がっていた。
ジェロニモは、あまり経験のない雪の量に軽く目を見張り、薄く残った雪の上を歩きながら、滑らないかと足取りは恐る恐るだ。
一応は用意してきた冬用のブーツだけれど、ハインリヒは、普通の革靴の方が随分ましだと笑う。雪の降る街の暮らしはよくわからない。今もジェロニモは、慣れないマフラー──ハインリヒが貸してくれた──に鼻先を埋めて、寒いよりも眼球に当たって痛い風に、歩きながら何度も瞬きをしている。
きちんと剃り上げた頭は、生身だと即刻風邪を引くからと、カモフラージュにかぶった毛糸の帽子も、これはハインリヒのものだ。
電話があったと言う家は、確かにそこだけきれいに雪が残っている。家の前の歩道はすでに足跡だらけだけれど、家の中へ入って行く短い道は平たく真っ白のままだ。
ハインリヒはさっさとその何もない雪の上をずかずかと歩き、奥の庭らしき辺りへたどり着くと、そこに置いてあった雪かき用のシャベルを持って来る。
「こことこことあっち側の雪をどけるんだ。隣りの家みたいに、周りだけでいい。そこは芝生だから、そこに雪を全部放る。車道側にはこれ以上は積まないように。」
自分が今足跡をつけた部分を指差し、そこの雪をどけてくれとジェロニモの指示して、ハインリヒは家の前の歩道へ出る。
まだ何のしるしもない雪はふわふわと頼りなく軽く、シャベルですくって、そう言われた方へ放ると、風できらきらと吹き上げられてこちらへ戻って来る。顔に掛かり、目の前で光るそれの美しさに見惚れた一瞬後、凍るような湿った冷たさに襲われる。ジェロニモは、どれだけ覆おうと、小さな隙間を見つけて服の下に入り込んで来る雪の冷たさに、少しばかり閉口した。
「ミスター!」
玄関が開き、しわがれた女性の声が背中に降って来る。振り向くと、砂色の巻き毛に縁取られた皺の深い、優しそうな顔立ちの小柄な女性が、歩道のハインリヒへ手を振っているのが見えた。
ハインリヒは彼女へ手を振り返し、白い息を吐いて、そこからジェロニモを指差した。
「友達だ。ちょうど遊びに来てたんで一緒に来た。」
彼女が首を巡らせるように、ぎこちなく顔の向きを変え、そうしてそこにいるジェロニモの気づき、ジェロニモを初めて見る人たちが必ずそうするように、ちょっと肩を引いてから目を細めた。
けれど彼女は、そこからにっこりと笑顔を作り、骨張った小さな手をジェロニモに向かって振り、もう一度可愛らしく笑う。
ジェロニモはシャベルから、半ばかじかみ掛けている指先を引き剥がし、彼女に手を振って応える。
彼女はさらにもう一度ジェロニモに笑い掛け、軽く頭を下げて家の中へ姿を消した。
ハインリヒがジェロニモを見ている。笑って肩をすくめ、ジェロニモも笑みを返して、ふたりはまた雪かきに戻る。
さすがハインリヒは慣れたもので、ジェロニモが、歩道の半分の長さの、家の脇の小道をやっと終わる頃には、もう自分が受け持った分はほぼ終わらせていて、もう一方の小道は、真ん中で最後に出会う形に、端と端で始めて、ふたりで一緒にきれいにした。
「いつもは、小遣い稼ぎに子どもたちがあちこち回ってるはずなんだが、どうやら今朝は人手が足りなかったようだな。」
雪のたびにこうしているのかとジェロニモが訊くと、ハインリヒはなめらかな腕の動きを止めずに、そう答える。
ジェロニモの方は息が上がっているのに、ハインリヒの方はそうでもなく、それでもやっと作業に慣れて、ジェロニモの動きも随分スムーズになっていた。
「俺が手伝うのはたまたま休みの時だけだ。」
「あの人、英語使う。ドイツ人じゃないのか。」
シャベルの杖に両掌を重ねて、少しだけ休んで、ジェロニモは続けて訊いた。
「ウクライナ人だそうだ。終戦の頃にイギリス人の男と結婚して、そっちに25年、ご亭主が亡くなってから東ドイツへ行って、壁が失くなってからこっち側に来て、それが合計で25年。ドイツには先に移民した家族がいるそうだ。」
それなら今は70半ばと言うところか。あの、紙をくしゃくしゃに丸めてから人の形に作ったような、どこか浮世離れしたような彼女の姿を思い浮かべて、終戦から25年とすると、イギリス時代にはもしかして役者のグレートのことを見聞きしていたかもしれないと、ジェロニモはふと考えた。
普通に生きたなら、自分たちもあんな風に老いたはずだったのかと、ジェロニモはちらりとハインリヒを見る。
夫と死に別れたと言う彼女の、東と西のドイツでの生活が、ぴたりとハインリヒの上に重なった。それはジェロニモだけの想像ではなく、彼女と出会った時に、ハインリヒもまったく同じことを考えたに違いないのだと信じられた。
ひとり生き続ける彼女も、もしかすると、ハインリヒに同じ匂いをかいだのかもしれない。
ジェロニモは、ハインリヒのひとり用の狭いベッドを思い浮かべて、そこにひとりで眠ることを選び続けているハインリヒの孤独の深さと、そしてそれを受け入れて生き続ける彼の強さの両方のことを考える。
シャベルの上にすくった雪の白さに目を凝らして、人にはそれぞれ選んだ生き方があり、他人ができるのは、それにただ黙って関わることだけだと、思いながらその雪を放った。
雪など滅多に降らない土地から来たジェロニモは、この雪の白さと深さをじっと眺めて、ここにハインリヒが暮らしているのだと、胸の底に刻み込むように思った。
言うほど助けになったのかどうか、ともかくもジェロニモも参加した雪かきは終わり、ハインリヒはシャベルを元の位置に戻してから、ふたり揃って裏口へ回る。
古ぼけた木のドアを軽く叩くと、彼女が微笑んで中から顔を出した。
「入って、入って。」
手招きされ、ハインリヒが雪まみれのブーツを気にしながら、一応はドアの中へ足を踏み入れる。ジェロニモは背を丸めてその後に続き、ふたりで何とか、雪落としのマットの上に揃って立って、それ以上は床を汚すのが気兼ねで中へは入らない。
そこは台所だった。彼女は、すでに小さなテーブルの上に置いてあった、湯気の立つマグを取り上げ、満面の笑みでふたりに差し出す。
こうやって目の前で見ると、ジェロニモの半分もなさそうな小柄さだ。痩せて尖った顎や、皺に埋もれた小さな目や、それでも、若い頃には相当可憐な女性だったのだろうと、その面影にジェロニモは小さく微笑む。
「ありがとう。」
英語でハインリヒが返すのに倣って、ジェロニモも両手の中にマグを受け取り、ありがとうと軽く頭を下げる。
マグの中身は、マシュマロの浮いた、熱いホットチョコレートだった。
「いつもありがとう。ほんとに。お友達も。わざわざ。」
「俺はしばらく休みだから、手がいれば電話をくれればいい。」
「妹が明日来てくれるから、買い物は大丈夫なの。でも雪かきまで頼めない。」
「ご婦人に雪かきなんかやらせたら、この通りの住民が全員通報されちまう。」
ハインリヒが冗談めかして言うと、彼女が声を立てて笑った。
単語をぶつ切りに並べるような話し方は、ジェロニモが英語を使う時と似ている。彼女の英語は、それはウクライナ訛りなのか、ジェロニモにはまったく聞き覚えのない響きで、ところどころに確かにイギリス風の発音が混ざるのか、ひどく可愛らしく聞こえる。
ハインリヒを、精一杯首とやや曲がった背を伸ばすようにして見上げ、すぐ後ろのジェロニモへは、いっそう振り仰ぐような視線を向ける。まったく邪気のない彼女の視線だった。
冷えた体に、熱いホットチョコレートがありがたく、かじかんだ手をマグを抱えて温め、明日の天気の話などして、ふたりは彼女の家を辞した。
彼女は、裏口から彼らが表へ出て見えなくなるまで小さな手を振って、ハインリヒも2度ほどそれに振り返って手を振り返し、ジェロニモは彼女が見えなくなる直前に、ちょっと深く頭を下げた。
「さて、どうする? 一度家に戻って、それからどこかに行くか。」
ハインリヒが決めてくれれば、ジェロニモに否はない。けれどひとつだけ、頼みがあった。
「熱いコーヒーが飲みたい。それから、明日も雪なら、滑らないブーツ。」
ハインリヒがジェロニモの足元を見下ろして、ちょっと唇を曲げる。
「・・・おまえさんのサイズが見つかるかな。」
「見つからないならそれでもいい。」
今もまだ恐々と雪の上を歩きながら、このブーツのままなら、また閉じこもる口実にしてもいいと思う。或いは、滑ったところで、ハインリヒに立ち上がる手を借りれば済むことだった。
「とりあえず戻ろう。俺もコーヒーが飲みたい。」
ハインリヒのアパートメントはもう目の前だ。雪の後とも思えない、透き通るような青い空が頭上に広がっている。
冷たい空気に肺の中を刺されながら、ハインリヒの住むこの街の匂いを、ジェロニモは胸いっぱいに吸い込もうとする。
あの隣人の彼女の笑顔が、ブーツの爪先に残る雪に重なる。そこへハインリヒの横顔も重なって、ジェロニモは、雪に覆われたこの街を、とても好きだと思った。