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静けさの音

 ただ優しい手が、自分に触れて来る。
 腿の内側や脇の辺り、あごの下、普通なら他の部分よりも皮膚が薄く柔らかいはずのそこは、けれどハインリヒには皮膚さえほとんど被せられてなく、触れて来るジェロニモの指先に触れるのは、剥き出しの、金属片の複雑に組み合わさった装甲だ。
 人工皮膚のある部分とない部分と、その違いに気づいてはいないように、気づいてはいてもそのことに何の違和感もないように、ジェロニモの指先が触れて来る。こちらも皮膚の下はぶ厚い装甲だけれど、ハインリヒとは違って、全身にきちんと皮膚があった。
 ハインリヒが右手を伸ばす。左手よりも、少しだけ感じ方の鈍い、マシンガンの指先で、ジェロニモの皮膚に触れる。触れて、指の長さ分動かせば、必ず大小さまざまな傷跡に触れる皮膚だった。えぐれていたり盛り上がっていたり、中にはいかにもぞんざいな縫い目の残る痕もあって、どうせ取り替えられる人工皮膚なら、この傷もすべて消してもらえばいいと、そう思いながら、傷跡を消したくはないジェロニモと、消せばそれは恐らくジェロニモではなくなってしまうとひそかに気づいているハインリヒと、ふたりの思うことは、いつの間にかどこかで重なってしまっている。
 時々、下手な触れ方をして、明らかに何か硬いもの、骨や筋肉ではなく金属同士がぶつかった音が立つ。その音を聞くたび、生身の人の皮膚は、触れ合っても音を立てないのだとハインリヒは思う。ほんものの人間たちが抱き合う時は、そう言えば騒がしいと言う意味が違うと、遠い記憶を手繰り寄せることもあった。
 美しいとも醜いとも、もう普通の基準では測れなくなっている自分の体を、ジェロニモが抱き寄せる時に、一体何を考えて何を感じて自分を抱くのかと、ジェロニモの濃い茶色の目を覗き込んで読み取ろうとする。そこに見えるのは、自分の小さくなった姿だけで、その小さな自分に見つめ返されて、何もかもを悪い方に考える必要はないと、自分の声をどこかで聞く。
 それもそうだ、と、ジェロニモの首に黙って腕を回す。
 辛うじて残された、皮膚と粘膜、そのわずかな部分を触れ合わせて、同じ分量だけ残っているひとらしさにしがみつくように、すがりつくように、ふたりは肌をこすり合わせて躯を重ねる。摩擦の生む熱が、躯の内側のどこかへたまって、そしていずれは体の外へ吐き出されるのに、武器庫の体と戦車の体が、姿だけは人の姿のままで、そうやって生身のやり方をそっくり真似ている。
 唇と舌が触れ合ったタイミングで、ハインリヒは体の位置を入れ替え、ジェロニモの上に乗った。胸を重ねて、ジェロニモの頬を両手で挟み込んで、あごと頬の骨の線を指先にたどる。そうすれば自然に指に触れる、ジェロニモの刺青の白い線の感触に、ふと体の動きを止めた。
 浅黒い肌の上にくっきりと刻まれた白い線。暗くした部屋の中で、ハインリヒの銀色の髪と同じに、薄闇の中でも視線の先へとらえられる、その白い線。ハインリヒはそこへじっと目を凝らし、それから、時々そうするように、指先をすっと滑らせた。きれいに剃り上げた頭頂部の、もっと後ろ、うなじへ届く辺りから始まり、あごに達する辺りで終わる、その白い線。針の先で肌に刺し傷を無数につけ、そこへ染料を流し込んで永遠に染められた、白い線。
 ただ優しさをたたえた瞳を中心にしたその線は、ジェロニモが滅多と見せない涙のように見えることもある。
 自分の指がたどった後を唇にも追わせて、ハインリヒは、ジェロニモの閉じたまぶたに口づけを落とした。
 躯を繋げればひとつになったと誤解できるのに、こうして意識して触れていると、つくづくこれは自分のものではない体だと感じる。自分ではないもの。自分には決してならないもの。皮膚とぶ厚い装甲に隔てられた、生身の人間同士よりもいっそう遠い繋がり方。ひとつにはなれない、別々のふたつのもの。そして、だからこそ愛しくて仕方のない、誰か。自分ではない、自分の心の中を、こんな時にはほとんどすべて占めてしまう、大切な誰か。
 ジェロニモを見下ろして、顔の刺青に触れながら、ハインリヒはほとんど窒息しそうに、胸と喉をふさがれたような息苦しさに喘いでいた。
 いつこんなに、この男に、すべてを囚われてしまったのだろう。言葉も表情も極端に少なく、けれど瞳の穏やかさがすべてを語るこの無口な大男を、自分は一体いつからこんな風に思い始めていたのだろう。
 生身であろうとサイボーグであろうと、どちらにせよ別々のふたりの人間はひとつにはなれないのだと、その淋しさと哀しさを、砂を噛むようにこの男は自分に思い知らせて来る。
 目をそらさずに自分を下から見つめて来るジェロニモの、その瞳を見つめ返すのにどうしてか気が引けて、ハインリヒは顔の位置を変えようとした。
 それを見通したように、ジェロニモがハインリヒの頬へ触れて来る。汗に濡れた額に張りついた前髪を軽くかき上げ、遮るもののなくなったハインリヒの視線を真っ直ぐにとらえて、そして、静かに微笑む。
 静かだ、とハインリヒは思った。
 唇を重ねる。その間に、呼吸と、語らない言葉を挟み込んで、重なる体には腕を回して、そっと触れ合えば音もなくこすれ合うサイボーグの体だ。体の位置はそのまま、ハインリヒを自分の上に乗せたまま、ジェロニモはハインリヒの、装甲の継ぎ目をなぞるように背中に触れて来る。伸びた腕の先で、指が時々、腿の裏へも触れた。
 静けさが落ちて来る。ふたりを取り囲んで、もっと近寄って来て、ふたりを包み込む。その静けさにぴったりとくるみ込まれて、ふたりはもっと近く体を寄せて添わせる。
 ジェロニモの頬の白い線に、ハインリヒは自分の頬やあごの骨をこすりつけた。
 ジェロニモに触れられていると、その手が触れているのは自分の体だけではないように感じる。皮膚を越えて、装甲も突き通して、ジェロニモが触れているのはハインリヒの、そこは以前のままひとらしい、柔らかな心の核のようなものだ。指先がたどり着き、掌がそれを包み込み、壊さないように、ただ優しく触れる。ハインリヒの外側へ触れると同じ穏やかさと優しさで、ジェロニモが、ハインリヒの内側にも触れる。
 静かだ、とまたハインリヒは思った。
 ジェロニモの呼吸の音を、髪の生え際辺りの皮膚の上に聞いて、その音に耳を澄ませて、自分もうっかり呼吸を止めてしまわないように、それに合わせて胸を膨らませる。かすかな息の音が重なって、それからまた、それは唇の間で消えてゆく。
 ジェロニモの静けさに、ハインリヒは包み込まれている。それにあやされ、癒され、なだめられ、自分の内側の、どこかで干乾びて固くなった心の破片が、元通りの潤いと柔らかさを取り戻す。時々襲われる、世界なぞ自分を含めてすべて滅びてしまえばいいと、そんな風に思う気持ちのかけらが、それでも、滅びて欲しくないものや人たちのことを思い出して、考え直し始める、その瞬間。
 静かだ。けれど無音だとは感じない。沈黙や静謐にすら擬音の表現を与えたのは、あれは誰が最初だったのか。静けさの音が、ハインリヒの耳から、全身にしみ込んで来る。
 ジェロニモが、指先や皮膚から生み出す、その音。それを全身に吸い込んで、ハインリヒはそれを壊さないように、ジェロニモの上で静かに動いた。
 ふたりで揃って黙れば、躯がゆっくりと語り出す。静けさの中で、静かなまま、雄弁に語り出す。躯の言葉を使って、ふたりは静かに囁き交わす。
 躯は、皮膚と装甲と部品とコードと、様々なもので組み立てられている。その内側に確かに在るひとの心は目には見えず、けれど躯の存在よりももっと確かに、ふたりの内側から聞こえない言葉をあふれさせる。静けさの音がふたりの中に満ちて、その音は、ふたりを外側から包み込む静寂と混ざり合い結びつき繋がり合い、もっと静かに、確実にふたりを、限りなくひとつのものに近づける。
 ハインリヒは、自分の額とジェロニモの額を、ぴたりと合わせた。ごつんと、人工骨がぶつかった小さな音が、頭蓋骨の内側に直接響く。その音も、すぐに静寂の内側へ取り込まれ吸い込まれ、後にはまた、ふたりの息の音だけが、かすかに皮膚の下へ響いてゆく。
 騒々しいわけではない、けれど山ほどの言葉の詰め込まれた静けさの中で、ふたりはふたりきりだった。邪魔するものは何もなく、隙間なく躯を合わせて、いつかこの皮膚と装甲すら消滅するような、そんな感覚を思い描きながら、息と唇を合わせる。
 人工の体の、ずっとずっと奥にある小さな心の輝きを一緒に放ち、ひと時自由の感触を味わう。この体に囚われてはいても、心は自由だ。心もまた、音もなく触れ合い、体とは違って融け合うようにひとつになり、また別れ、ふたつに戻って、それぞれの体へ取り込まれる。
 音もさせずそれらのことは起こり、ふたりはまた、直の言葉ではなく、視線を交わしてそれを互いに知らせる。
 自分の胸にジェロニモを抱き寄せ、きれいに剃り上げられた頭を、ハインリヒはマシンガンの右手で撫でる。整えられた髪の形は崩さないように、指先をそっと浅くそこに埋め、短い髪が自分の指に絡みつく様に、目を細めた。
 静かだった。抱き合って触れ合う皮膚は音を立てず、言葉はなく、静寂の中には、優しさと穏やかさしかない。
 静けさの音に包まれて、ふたりは互いの息の音を聞いている。時間の流れを忘れて、やがてやって来る朝も思い浮かべることはなく、互いの腕の中に互いを抱いて、ふたりはただ静かだった。

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