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銀雨

 雨は元々嫌いではない。外に出るのが億劫になるとか、体が湿るとか、そんな風に感じないでもないけれど、雨が雑多な音を吸い取ってしまい、ただ静かに細い線を描いて地面へ落ちてゆく様を眺めているのは、そう悪くはない。
 繁る葉が重なり合って、それでもその隙間を縫って落ちて来る細い雨の滴り。木陰に雨宿りして、ジェロニモはそんな雨粒を見つけては眺めていた。
 地面を濡らして、土に染み込んでいずれどこかの川に流れ込み、あちこちを潤してゆく。雨はやはり天の恵みだ。たとえ、濡れれば体が冷えようと、雨を避けるために全速力で走る羽目になろうと、せっかく磨いた車や靴が汚れようと、それでも降る雨なしに、生きるものは命を繋ぐことはできないから。
 濡れた服が皮膚に張り付く。湿りが体温を奪い、けれどいずれ取り戻す体温が服を乾かして、後には染みも残らない。掌に受ければ、小さな水たまりがそこにできる。揺れて、覗き込む顔を映して、皮膚の色をひと刷け青くする雨水の、小さな小さな鏡。掌のくぼみにできた、 ささやかな水場。雨の冷たさを受け止める掌の、そこに現れる命の連鎖の形。
 雨の後にやって来るのは、あたたかい風か冷たい風か。西から吹くのか北から吹くのか。白い雲を運んで来るのか、雪雲を運んで来るのか。この雨はどんな雨だろう。
 風もない今日、雨はひと際静かに降り、頭上に重なる葉を叩く音すらかすかだ。
 いつもの森の見回りの時間に、遠くに水の匂いがして、ああ雨が降ると思ったのに、何の準備もせず空手のまま出て来てしまった。濡れるならそれでもいいと思った。ジェロニモくらいなら、休ませてくれる木陰はいくらでもある。雨宿りの場所には事欠かず、雨が止むか、雨足が弱まるまで待てばいいと、そうも思った。
 雨を避けて、けれど雨を眺めて、今は自然の傘がジェロニモの頭上を覆い、滅多と濡れずにすんでいる。
 雨が埃を洗い流し、上がれば空気は澄むだろう。湿った空気は喉を優しく通り過ぎて、濡れた地面にはいつもより深く足音が残ることだけ、ジェロニモは少し申し訳なく思う。
 雨を浴びれば、剃り上げた頭頂部から、何にも遮られずに水滴が顔全体に滴り落ちて来る。顔を濡らすそれは、まるで涙のようだ。雨は時々、涙そのもののようにも思える。どこかの誰かが流さずに耐えた涙が、そうやって堰を切って空から降り落ちて来る。誰かの悲しみの分だけ、雨が地面を濡らして潤す。空気を潤し、生きものの喉を潤し、誰かが受け止め耐えた悲しみの分だけ、地上の命が潤ってゆく。
 様々のことが、そうやって繋がっている。
 今ではこうやって、眺めているうちに心の内をあたためてくれるようになった雨は、たとえそれが嵐や雪の前触れだろうと、ジェロニモにはただいとおしいものに思える。
 そうして、雨をいとおしく思う理由の、雨そのものとはまるきり関係のないあることを、ジェロニモは雨を眺めながら考え始めた。
 雨は冷たい。けれどこちらの体温と一緒に、いずれはあたたかくもなる。乾けばさらりと、その存在すらなかったように消え去って、空気の澄み様と輝きだけがその痕跡を思い出させる。
 ひと色青に寄った、その銀色の輝きのせいかどうか、雨はいつもハインリヒを思わせた。その在り様も去った後の空気の爽やかさも、上がった後には晴れた空をありがたく思うくせに、それが続けば、次はいつだろうかと考え始める。雨を待って、空を見上げるたびに、頬や肩を濡らすあの銀色の滴を恋しく思う。
 それは、ハインリヒに会いたいと、一緒にいたいと思う気持ちと、とてもよくに似ていた。
 金属片を組み合わせて作られた体。人工皮膚に包まれてさえ、そのせいかどうか体温は低いような気がして、触れれば冷たい体を、ジェロニモは抱きしめて自分の体温で温める。同じように鋼鉄の体なのに、ジェロニモの体温の方が高く感じられるのはどうしてだろう。彼の、銀色の髪や瞳や、そこもまた白いと言うよりは青白い皮膚の色のせいだろうか。
 ジェロニモから移る体温。ぬくめられ、こちらを温め返して来る体。離れれば消え去る体温のはかなさを惜しめば惜しむほど、抱きしめる時間が長くなる。離れたくないと、いつも思う。
 空から落ちて来る銀色の滴り。ハインリヒの、同じように光る銀色の髪を濡らす。その髪へそっと指を通し、それもまた自分の体温で温めるように、ジェロニモはもっと近くハインリヒを抱き寄せる。
 雨と雨音の紗幕に囲まれ遮られ、そこだけはふたりだけの空間のように、雨の最中に雨を避けて、今は、ついさっきそっと伸ばしたジェロニモの指先が、木の幹の上でハインリヒの鉛色の右の指先に触れていた。
 さっきよりは少しあたたまった、ハインリヒのマシンガンの指先。それを、永遠にあたたかいままにしておくことはできず、武器として使えば、触れた水など一瞬で水蒸気に変えるほど熱くなるその指先は、雨宿りの最中の今は淡い湿気の膜に覆われて、静かにジェロニモの指先にくるまれている。
 こんな風に触れ合えるようになれば、もっともっとと欲ばかりが湧く。時折ではなく、常にこうして触れ合っていられればいい。雨を避ける時だけではなく、ふたりきりになれる時間がもっとあればいい。雨を言い訳にわけにせずに、もっと近く体温を分け合えればいい。包み込むのが指先だけではなく、何もかも、ばらばらにした全身を一緒に繋ぎ合わせてしまうような、そんな抱き合い方ができればいい。もういっそ、色違いの髪も瞳も膚も何もかも混ぜ合わせて、何かひとつきりで自分たち全部のそのもののような、そんなものになってしまえないものだろうか。
 雨が土に染み込むように、ハインリヒがジェロニモの中に、深く深くしみ通ってゆく。ジェロニモの、奥の奥まで、ハインリヒがゆっくりと入り込んで来る。そうしてジェロニモを潤し、ジェロニモの体の中を巡り、跡など残さないくせに、そうやってハインリヒは確実にジェロニモの中にいる。
 ジェロニモにとって、ハインリヒは命を潤す銀色の雨だった。雨によって命は満たされ、銀色に輝く。もう、ここから先へ繋ぐことの叶わなくなったジェロニモの命を、それでもその連鎖の中に在り続けるのだと常に喚起させてくれる、ジェロニモにとってのハインリヒだった。
 ジェロニモは、指だけで包んでいたハインリヒの指先をもっと深く掌の中に握り込み、強くは引き寄せないようにしながら、木の幹に寄り掛かっていた背中を浮かせて、静かに半歩ハインリヒの方へ寄った。
 雨は、まだしばらく止みそうにない。
 掌の中で、すでにぬくまっていたハインリヒの指先がするりと滑り、掌同士を合わせる形に握り返して来ると、上向いたその顔は微笑んでいて、今は自分の目の前にいるジェロニモへ向かって、そそのかすように唇がわずかに開いた。
 重なり合う木の葉だけではなく、今度は、ジェロニモの大きな体もハインリヒを雨からかばう。木陰よりももっと濃いジェロニモの影が、ハインリヒを覆った。
 ふたつの重なる体を覆い切るには、この木陰は少し奥行きが足りない。葉陰を逃れた雨粒が、音もなくジェロニモの背を濡らし始める。
 自分の体の陰で、ハインリヒの雨宿りは続いている。そのことに安心して、ジェロニモは口づけの重なりを、誘われるままいっそう深くした。
 抱きしめたハインリヒの体はあたたかく、雨に濡れる背中は冷たかった。その背中も、じきに元通りの体温に戻るはずだった。
 空の向こうが明るくなり始めていたけれど、ふたりはまだ気づかずにいる。

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