微睡み
何か、暖かな、小さなかたまりが、ごそごそと、横たわった体の周りを動き回っていた。
ぺたりと、冷たくて濡れた感触が、耳や頬を撫ぜて、目は閉じたままだったので、ああ、自分は眠っているのだと思って、ジェロニモは、軽く腕を上げて、その小さな動くものに触れようと、指先を宙にさまよわせた。
小さなものは、体をすりつけて来て、また動いて、相変わらず、ジェロニモのあちこちに濡れた感触を残して、また別のところへ動いてゆく。
何をしているのだろうと、目を閉じたままで思った。
暑くもなく、寒くもなく、体温と同じ温度の水の中にただよっているような、そんな気がして、まぶたがぴくぴくと震える。
目が覚めているような、完全に寝入っていて、夢の中にいるような、どちらともわからないまま、膚に感じる温度と同じほど捉えどころのなく、見極めるのも億劫で、手足を伸ばしたきり、目を開くのをやめてしまった。
小さな動くものは、ジェロニモの足に乗って来て、膝の上までとことこと歩いて来て、またそこから降りてしまった。
重みをほとんど感じないのは、身が軽いせいかのか、それとも、感じる小ささのせいなのか。
またごそごそと動き回ってから、不意に、首筋にかすかな呼吸がかかる。
匂いをかいでいるような気配があって、ひやりとまた、濡れた感触が一瞬、あごの線にぺたりと触れて、それから、ふわふわとした毛玉が、頬とあごの線に沿って、それきり動かなくなった。
小さなかたまりは、生きているのか、ぴーぴーと呼吸の音をさせて、それにつれて、首筋に触れた毛玉が、かすかに動く。
目を開けないで、驚かせないように、ゆっくりとそっと腕を持ち上げて、そのかたまりに触れるために、ジェロニモは指先を伸ばした。
首筋に、ちょこんと丸まったそれは、掌に軽々とおさまりそうに小さく、触れる毛は、やわやわと指先をくるみ込む。毛の下に感じる骨組みは細く頼りなく、触れる場所を変えてみると、毛に覆われていないところにたどり着いた。
何か、薄くて冷たいところ、少し湿った、ふよふよとしたところ、それから、ひやりと濡れたところ。指を這わせていると、かたまりが、もぞもぞと動いて、ジェロニモの手を避けた。
邪魔をされたくないのかと、思って、ゆっくりと腕を元の位置に戻す。
しばらくそこにいたかたまりは、体---と言っていいのだろう---を起こして、何かきょろきょろとした後、また忙しく動き回り始めた。
ジェロニモの大きな肩をつつき、何度も何度も確かめた後で、ようやくその上に乗ると、腕の上を歩いて、手首までたどり着いた。
掌を、そっと上に向けてやると、そこで止まって、冷たい、足の裏らしい感触で、何度もジェロニモの掌を踏むと、少しばかり鋭いもので、指先を刺した。
とは言え、その鋭いものは、鋭さも足りなければ、大きさも足りず、痛いよりもむずがゆく、ジェロニモの皮膚に突き立つ。噛まれているのだと、濡れた感触で悟る。指先を撫でるのは、どうやらそれも小さな舌らしかった。
ジェロニモの指を噛むのに飽きると、掌から降りて、今度は腕と体の間に入り込んでくる。わずかに開いた脇に、小さな体を這い入れて、今度は、丸まる空間がないせいかのか、長く体を伸ばしたままで、まるで、その狭さを楽しんでいるように思えた。
シャツの上から伝わるぬくもりは、人のそれよりも温度の高いような気がして、その小ささにも関わらず、ジェロニモの体全体を暖めてくれるようだった。
その、小さなかたまりを押し潰してしまったりしないように、相変わらず目は閉じたまま、ジェロニモは、ほんの少しだけ体の右側を緊張させた。
小さな、掌よりも小さな、毛玉のかたまり。暖かく、ちょこちょこと動き回って、ジェロニモの体で遊んでいる。
毛の色は、何色なのだろうかと、閉じた瞼の奥で思う。
小さなかたまりは、何度か、ジェロニモの体の脇で、ぶるると音を立てて体を伸ばした。
また体を起こし、その場で動いている気配があって、そのまま、ジェロニモの胸の上に乗ってくる。ジェロニモの体は、昇るにはぶ厚すぎるのか、シャツを引っ張って、布地の上から、鋭い爪---牙よりも、何倍も鋭くて、痛い---でジェロニモの皮膚を引っ掻いた。
掌を、体の後ろに添えてやると、それでもよたよたと、滑り落ちそうになりながら、ようやく胸の上に乗ってくる。
ほとんど重さのないそれは、ジェロニモのみぞおちに立って、まるで、山にでも登ったように、辺りをきょろきょろと見回しているらしい気配を伝えてくる。
その場で、足踏みのような仕草をして、とことこと、鎖骨へ下る坂を、胸から下りてくる。
ジェロニモのシャツのせいで、足を滑らせてから、喉に、小さな冷たい足裏が触れる。その足裏が、あごの先にも触れた。
鎖骨の辺りから、あごの先に、足を掛けて体を伸ばし、唇に、人のそれとは違う匂いの息がかかった。上唇の尖りに、濡れて冷たい感触がぺたりと押し当てられて、思わず驚いて、ちょっとだけ肩を揺らした。
その拍子に、ずっと閉じていた目を開いてしまい、ジェロニモの鼻先に丸い黒い瞳をふたつ寄せた、白い猫の姿を見つける。
白い猫を脅かさない程度に、かすかにあごを引いて、下目に、真ん丸い顔の影に、すっかり隠れてしまっている、猫の体の輪郭を、視線の先に追おうとする。
真っ白な顔。桃色の鼻と口と耳。目元も、透き通るような色で、足裏の肉球も、おそらく同じ色なのだろうと思う。
ジェロニモに見つめられても、白い子猫はひるみもせず、ふんふんと、もっと近く、鼻先を近づけてくる。
また、唇に、濡れた鼻先をくっつけられて、それから、子猫は、ジェロニモの頬を、ぺろりと舐めた。
鼻や口と同じほど鮮やかな桃色の舌は、小さいくせに、きちんとざらざらとしていて、かすかな痛みに、ジェロニモは苦笑を混ぜて、思わず顔をしかめた。
子猫は、ジェロニモの首元に戻ると、くるりと背中を向けて、みぞおちの方へ昇ってゆくと、そこにすとんと腰を下ろした。
それから、またジェロニモの方へ向いて、まるで、いい?と尋ねるように視線を合わせたままで、そこに体を横たえた。
前足を伸ばし、腹もこちらに見せたままで、何度か頭の位置を変えて、坐りのいい位置を模索した後で、ゆっくりと目を閉じる。
真っ白な猫だった。こちらに見える、後ろ足の肉球は、想像した通りのきれいな桃色で、一体、生まれてから一度でも、土を踏んだことがあるのだろうかと、ふと思う。
触れると、起こしてしまいそうで、ジェロニモは、伸ばしかけた手を、また体の脇に戻した。
一体、どこからやって来たのか、自分の体の上で、何の心配もなさそうに、安心しきった様で眠る子猫を眺めて、ジェロニモは思わず微笑んでいた。
ぴくぴくと足が動いて、時間が経つにつれ、体はもっと無防備に伸び、寝顔は、笑っているようにさえ見え始める。放っておけば、そのまま溶けて、ジェロニモの一部になってしまいそうな、そんな平穏さだった。
誘惑に負けて、また腕を持ち上げる。体を動かさないように、子猫を驚かさないように、大きな手を、そろそろと伸ばす。息を止めて、触れる直前に、一度大きく瞬きをした。
目を開けた時には、手の影から現れたのは、どうしてか、白い子猫ではなく、ハインリヒだった。
胸に頭を乗せ、ジェロニモの体の上に、長々と体を伸ばして、ハインリヒが、全裸で、安らかに眠っていた。
不思議と、重いとは思わず、子猫がいなくなったことを不審にさえ思わず、最初からそのつもりだったように、ハインリヒの髪を撫でる。髪を撫で、首の後ろを撫で、肩と背中を撫でて、気持ちよさげに、ハインリヒがかすかに声を立てたのを、ジェロニモは微笑んで聞いた。
剥き出しのハインリヒの膚は、とても暖かかった。
「ああ、起こしちまった。」
半開きの目に突き刺さる明るさを避けるように、ジェロニモは顔の前に掌をかざして、その影から、胸の前に毛布を広げているハインリヒの姿を認めて、一瞬、まだ夢の中にいるのかと思う。
「悪かったな。寒くないかと、思っただけなんだが。」
そう言えば、開けておいた窓から流れ込んでくる風が、少しばかり冷たいのに、ソファに横たわったままで、首を回して気づく。
「毛布、いるか?」
体を起こそうとはしないジェロニモに向かって、ハインリヒが、控え目な声で訊いた。
数瞬おいてから、ああ、とうなずいて見せると、丁寧な手つきで、ハインリヒが毛布を掛けてくれる。
ジェロニモの体を覆うには、少しばかり小さいけれど、暖かさは充分だった。
「窓も、そろそろ閉めた方が良さそうだな。」
ひとり言のように言って、ジェロニモが反対しないのを確かめてから、窓の方へ歩き出すハインリヒの後姿を、斜めに首をねじ曲げて見やる。
ちゃんと服を着ていると、そう、ふと思う。
「夕食には起こしに来る。」
自分のしたことに満足したように、ハインリヒは微笑みを残して、静かに部屋を去って行った。
ハインリヒの掛けてくれた毛布を、あごまで引き上げながら、ジェロニモは、もう一度夢の中へ戻るために、そっと目を閉じた。
夢で会いたいと思うのが、あの真っ白い子猫なのか、自分の上で眠っていたハインリヒなのか、どちらなのだろうかと、ゆるゆると考え込みながら、うっすらと染まった頬を隠すために、ジェロニモは、夢の中のあの猫のように体を丸め、鼻先を、毛布の下にもぐり込ませた。