SOMETHING THE BOY SAID
朝の早いジェロニモは、ハインリヒを起こさずに、仕事に出てゆく。
ひとりで起きた朝を、適当にやり過ごして、昼食に戻って来たジェロニモと、簡単な食事をすませてから、メイヤー教授のところへ行きたければ、そのままジェロニモが連れて行ってくれる。
たいていは、そこでもひとりきり、教授の書斎で過ごした後、夕食を呼ばれ、その後に、ジェロニモが迎えにやって来る。
私が送って行ければいいんだがね。ジェロニモが、あそこへはあまり来ない方がいいと言うのでね。
少しだけうつむいて、教授がそう言ったのが、やけに印象に残った。
なるほど、誰もが気軽に訪れられる場所ではないらしい。この、メイヤー教授の自宅とは違って。
高い天井を見渡すふりをして、膚の色が違うというのは、そういう形でも現れるものなのだと、ハインリヒは、不思議と憤りもなく、思った。
ジェロニモの家から、ひとりで外へ出ることはあまりない。
怖いわけではなくて、何か起これば、ジェロニモに迷惑がかかると、ごく自然に引っ込み思案になる。
正体を見破られるようなことが、ないとも限らない。
単なる休暇で、そこを訪れているだけのハインリヒはともかく、そこを住み処にしているジェロニモに、そこを立ち去る羽目になるような事態に、陥って欲しくはなかった。
普通の人間ですら、充分に住みにくい世の中だと言うのに。
サイボーグであることと、少数民族の出身であるということと、二重の意味で枷を背負ったジェロニモの生きにくさを想像して、そして、その現実を目の当たりにして、ハインリヒは、こっそりと憂鬱を味わう。
その憂鬱は、ひどく胸の中に、苦かった。
ある朝、またゆっくりと起きて、シャワーを浴びて、紅茶でもいれようかとキッチンへ行くと、裏庭に通じるドアが大きく開いたまま、そこから、庭にいるジェロニモの姿が見えた。
ただっ広い、どこからどこまでが、この家の庭なのかわからない、広がる雑草の野原の中にぽつんと、大きな木が生えている。裏のドアから、20歩ほどのその木の下で、ジェロニモがうつむいて、あぐらを組んだ膝の間に、視線を落としていた。
その静かな様に、声を掛けることがためらわれ、ハインリヒは、息を止めて20秒ほど、ジェロニモの姿にじっと視線を当てた。
よく見れば、膝の上に白いページが見え、本を読んでいるのだとわかると、そのかたわらに置いてある、白い皿も見える。
そこに乗っているのは、小さなサンドイッチか何かだろうか。
それを見ても、あまり食欲はわかず、とりあえず紅茶をいれようと、ストーブのやかんの方へ向き直った。
何も訊かないまま、ふたり分を大きなマグに注ぎ分け、断られないだろうと決め込んで、それから、庭へ出た。
まだ、少し湿りの残った雑草を、素足で踏んで、まだ濡れたままの髪を午前の風になぶられながら、いつもよりも静かな、ゆっくりとした足取りで、木の下にたたずむジェロニモに近づいてゆく。
さくさくと、草と土を踏みつける音に、ようやくジェロニモが顔を上げ、ハインリヒの姿を認めて、少しだけ驚いたように、眉を動かす。
「今日は、仕事には行かないのか。」
足を止めて、左手のマグを差し出しながら、訊いた。
「今日、休み。」
簡潔な答えが返って来て、ジェロニモの大きな手が、マグを受け取るために伸びてきた。
よく見れば、草の上の薄い敷物の上には、すでに空になったマグがあって、キッチンから見えた皿も、今は空になっている。
ジェロニモが、空のマグを皿に乗せて草の上に直に置くと、体の位置をずらして、敷物の上に、ハインリヒが坐れる場所を作ってくれた。
「本、借りた。」
ハインリヒが腰を下ろしたところで、膝の上の本を取り上げて、ジェロニモが表紙を見せる。
リビングのコーヒーテーブルの上に置きっ放しにしてあった、ハインリヒがここへ持って来た本のうちの1冊だった。
「好きに読んでくれ。俺はもう、読み終わった。」
わかったとありがとうの両方の意味を含んで、ジェロニモがうなずく。
ドイツ語のその本を、ジェロニモが表情も変えずに読んでいるのが、ほんの少しおかしく思えて、ハインリヒは、マグの陰でひとりで笑う。
それが、脳に埋め込まれた翻訳装置のおかげなのだと、自分も、その恩恵に預かっていることの皮肉に、笑みが、ほんの少し歪んだ。
ジェロニモの読書の邪魔をしないために、周りを見渡すふりをして、あちこちに視線を移す。そうするうち、まだやわらかな午前の陽射しがこぼれる、頭上の葉の重なりのすきまに目を奪われ、それから、降りこぼれる陽を反射して、優しく輝く雑草が風に揺れる様に、思わず見惚れた。
はるか向こうに、隣家の傾いた屋根があり、塀も囲いもないその家の様子が、ここから手に取るようにわかる。
貧しげな外見と、裏の方にわずかに見える、2本の杭の間に渡されたロープにはためく衣類と、前の庭には、何年前のものか見当もつかない、古い車が、錆びた車体を据えている。
胸の痛む光景ではあったけれど、そこには、人の呼吸の音が聞こえそうな、生活の匂いがあった。
ここが、ジェロニモの住み処なのだと、今さらのように思い知って、それから、メイヤー教授の、大きな家の、洗練された内装を思い浮かべた。
あそこと、ここと。車で、ほんの20分ほどの距離だというのに。
貧しいことを、悪のように考える必要はないとわかってはいても、貧しさの中に引き留められている、ある種の人間たちのことを思えば、富めることに---ハインリヒ自身が、そうだというわけではないにせよ---、罪悪感を感じずにはいられない。
恵まれているのだと、この光景の中にあって思うことは、ひどく傲慢のように思えながら、けれど、これがすなわち、膚の色が違うということの、きわめてわかりやすい例なのだと思って、ハインリヒは一瞬だけ、自分の白い膚を恥じて、そして、その色であることに、心のどこかで安堵した。
その安堵にも、罪悪感を混じらせて、明るい陽の下で、ハインリヒは自分の内側の暗い部分が、いっそう色を濃くするのを感じていた。
表情すらないように見える、きわめて静かなジェロニモの横顔をちらりと盗み見てから、そうして、ふと、思いついたことがあった。
「父親に、なろうと思ったことはなかったのか。」
メイヤー教授の自宅の、食卓を囲む家族のことを思い出しながら、ふと瞳だけが動いたジェロニモの頬の辺りに、逃げまいとするように、視線を据える。
数瞬、間を置いて、ジェロニモが手元の本を閉じると、草の上に視線を移してから、
「ない。」
短い、素っ気ない返事に、言葉には表せない様々な感情が見え隠れして、ハインリヒは、口元を硬くして、その返事を受け取った。
「そうか。」
それ以上、問いを重ねることは、ためらわれた。
ジェロニモが、未来へ血を繋ごうとすることと、ハインリヒがそうしようとすることの間には、気の遠くなるほどの意味の違いがあって、それは、言葉にして語るには、デリケートすぎる問題だった。
もっと、別の聞き方もあったろうと、余計なことを口にしてしまったと、軽く後悔しながら、家の中へ戻ろうかと、腰を上げる仕草をした時、ジェロニモが、後ろに体をねじって、木の幹に触れた。
それを、視線で追って、木に触れたジェロニモが、うっすら微笑んだような気がして、急に気が楽になる。
まるで、木そのもののように、ジェロニモは木に触れ、微笑み、そこにハインリヒがいることを受け入れていた。
許されているのだと、ふっと肩の力が抜ける。
ジェロニモが先に空にした皿とマグを、取り上げながら、
「もう1杯、どうだ?」
いつもの口調に戻って尋くと、また本を膝の上に開きながら、ジェロニモがゆったりとうなずいた。
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