星明かりの夜

 夢の中にまだいながら、うつ伏せに枕に顔を埋めて、自分の右側を探っていた。
 いずれは指先に触れるはずの、背中も肩もない。シーツの上を撫でるように掌を滑らせて、夢から醒めながら、ようやくベッドが半分空なことに気づく。
 目を開けて、闇に視界を慣らし、指先に感じるほのかなぬくもりが、彼の残したものかそれとも単なる部屋の温度か、見極める術はなく、ジェロニモは大きな仕草でベッドの上に体を起こし、部屋の中をぐるりと見渡した。
 しんとして、他の誰の気配もない。ベッドに入った時にはすでに何も着けていなかったから、床に脱いだ服が落ちていることもなく、彼はどこへ行ったのだろうかと、ジェロニモはようやく頭をはっきりさせて、床に素足を下ろした。
 肌を隠す程度に、素早く取り出した下着を着けて、そうする間に脳内通信装置で彼に話し掛けると言う手があることに気づいたけれど、何となくそうする気にはならず、まさか出て行ったわけではないだろうと、とりあえずは家の中を探すことにした。
 ジェロニモだけが住む小さな家に、探す場所もそれほどはない。バスルームのドアは開いたまま、家の中のどこにも明かりは見えず、闇でも困らない目には関係ないけれど、それでも家の中には彼はいないのだと、そう気づいて少し焦りが湧いた。
 彼がここに来て数日、数年に1度、彼がここへ来たり、ジェロニモが彼の住む国へ行ったり、あるいはどこか、中間地点のようなところで落ち合って過ごす、そんなことの一環だ。
 黙って出て行くことはないはずだし、第一歩いていちばん近い町へ行くにも、サイボーグの足でも少々遠すぎる。
 どこにいる。ただ心の中で話し掛けて、台所へ行ってから、ジェロニモは裏口のドアが半分開いたままなのにようやく気づいた。
 外はまだ少し寒い。息が白いほどではないけれど、下着1枚で過ごせるような季節では、まだない。生身ではないジェロニモは、その半開きのドアに導かれるように、真っ暗な裏庭へ出た。
 さくりと、夜露を浴びた芝生を踏む音が、裏庭の真ん中へ立つ彼を、こちらに振り向かせる。
 「なんだ、おまえさんも来たのか。」
 ハインリヒが、白い顔を闇の中に浮かべて笑っていた。きちんと──素足のようだったけれど──靴を履いて、長袖のパジャマにここへ着て来たトレンチコートを肩に引っ掛け、夜に急な用事で出掛ける人のような、少々珍妙なその姿に、ジェロニモも薄く笑みを返した。
 「どこへ行ったかと思った。」
 「どこにも行きゃあしない。」
 隣りに立つジェロニモを視線で追って、ハインリヒは無意識かどうか、肩を並べた途端に胸の前で両腕を組む。それから、また、ジェロニモが見つけた時にそうしていたように、喉を伸ばして空を仰いだ。
 月は、後ろの方へ首を回さなければ見えない。ふたりが見上げているのは、満天の星空だった。
 「相変わらずすごい星だな。」
 ここへ来たのは数年ぶりのハインリヒが、口元に息を白くまとわりつかせて言う。
 家の明かりがないのはこんな時間のせいだけれど、それだけではなく、この辺りには滅多と街灯もない。家の間も離れていて、今誰かがこの裏庭を眺めていたとしても、見えるのはただ闇とそこへ浮かぶぼやけた物の輪郭だけだ。
 ああ、と細くつぶやいて、ジェロニモは、ハインリヒに倣って星に向かって目を細める。
 「ドイツでも、田舎道を夜運転してると、時々こんな空が見れる。もっとも、そんな時は大抵急ぎの仕事で、ゆっくりトラックを止めて空を仰ぐ暇なんかないんだが。」
 言葉の終わりが笑いに紛れて、ジェロニモもつられて笑った。
 「ここはいつ来ても静かだな。」
 黙っているのが、まるでわざわざここまで足を運んで来たジェロニモに悪いと思ってでもいるように、ハインリヒは言葉を継ぎはしても、その後には何も続かず、ジェロニモもわざわざ会話を繋ぐ努力はせずに、ふたりは黙って夜空を見上げている。
 降るような、と言うよりは、空の高さにむしろ先に驚きが来て、地球の外には宇宙があるのだと実感できる、深い漆黒の空に、まるで水を含んだ絵の具でも散らしたように、星がびっしりと並んでいる。大きさも輝きも微妙に違う。色の違いは、肉眼ではどんな風に見えるのか、もう思い出せないふたりの人工の目には、淡いクリーム色だったり、かすかに赤みを帯びていたり、そしてハインリヒの瞳とよく似た、青みがかった銀色の星もある。
 行ったことのある星が、今見ている星の中にあるだろうかと、ジェロニモはふと思った。今見ている光がここへ届くのは、人間にとっては永遠のような時間がとっくに過ぎ去った後だ。今見えるこの光を発した星は、今この瞬間にはもう存在してはいないのかもしれないと言うのは、ひどくやるせないことだと思う。
 目に見えるものが、確かに存在しているとは限らない。そして、見えないから存在していないと言うわけでもないのだと、視界いっぱいに星の光を満たして、ジェロニモはハインリヒに話し掛ける代わりに、そんなことを考えていた。
 今夜の月はどんな形だろうかと、ジェロニモは軽く頭をめぐらせ、家の屋根の方へ視線を流した。
 完全に丸くはなく、太ったレモンのような形で、今夜は黄色がかった月が、ぼんやりと輪郭をにじませている。明日の天気は、快晴と言うわけではなさそうだ。それでも、まといつく空気の湿りは、夜気だけのようだった。
 いつの間にかハインリヒの両腕は軽くほどかれて、今は自分の体を抱くように、みぞおちの辺りに降りている。もしかして少し寒いのかと、思うと同時に、ジェロニモの大きな掌は、もうハインリヒの背中へあてがわれていた。
 ひやりと、コートの生地が触れる。その下から伝わるハインリヒの体温は、予想通りこちらに染み透って来るほどではなく、あたためようと思ったわけではなかったけれど、ジェロニモはもう少し強く、ハインリヒの背中に自分の掌を押し当てた。
 それをどう取ったのか、ハインリヒが爪先の向きを少し変えて、ジェロニモの方へ顔を向けて来る。
 夜空から視線が移り、今は自分を見上げるハインリヒに、ジェロニモは、ゆっくりとそっと上体をかぶせて行った。
 誘ったのは自分ではないと、恐らく互いに思いながら、触れるだけの口づけは、案外と長く続いた。
 ハインリヒの腕はいつほどけたのか、左腕が伸びてジェロニモの背中に掌が当たり、口づけの間に、それは腰を抱き寄せる形に変わった。
 唇の間で行き交う短い呼吸が、白くかすかに漂う。体はまだあたたまらなかったし、それには充分な触れ合い方ではなかったけれど、唇が離れても、互いの体に触れた掌は外れないままだった。
 自分の腰に掛かったままのハインリヒの手に促されたように、ジェロニモも、ハインリヒの肩を抱き寄せた。
 暗闇は便利だ。そして、生身の目には正体のわからない輪郭でしかない自分たちの姿が、そこにうまく沈んでいることも、とてもありがたかった。
 腕に力が入り、胸元に頭を寄せて来るハインリヒに付き合って、ジェロニモもそこへ自分の頭を乗せるように、体をもっと近づけた。
 求めるためではなくてこんな風に触れ合うことは、そう言えばあまりない。人前で、親しみを表わすわけには行かないふたりだったから、まるでそれを取り返すように、触れ合う時には必ずその先があったし、それが目的のように互いに腕を伸ばし合うのが常だった。
 どこへ進むと言うわけではなく、ただ触れ合わせている腕や肩や胸や、今は指先が、交わす数の少ない言葉の代わりに、互いへの想いを伝え合っているようだった。
 ふたりきりでいられるわずかな時間の間に、慎みはなく抱き合うことも必要だったけれど、こんな風に、まるで挨拶のために交わす言葉の代わりのように、だた触れ合っていることも大事なのだと思えた。
 無数の星の光を浴びるうちに、そろそろジェロニモの方は、素足の、湿りの冷えが心配になって来た。
 「紅茶を、淹れよう。」
 中へ戻ろうと、そう言う代わりに、そんな風に言ってみた。
 「おまえさんがコーヒーにするなら、俺もコーヒーでいい。」
 「クリームがない。」
 「ミルクでいい。」
 こんな時だけ、互いに言葉数が少し増える。きっとこれは、心の内を見せ合う代わりの、軽口の叩き合いなのだろう。
 淹れたばかりのコーヒーを間に置いて、向き合って見つめ合いながら、きっとまた口づけが始まる。淹れたコーヒーのことを気にするのはハインリヒの方だ。コーヒーは結局、ほとんど手を着けられないまま、もつれ合うようにしながらベッドへ戻る。抜け出した時のまま、乱れて、そして冷たくなった無人のベッドに、またぬくもりが戻って来る。
 冷たい足は、ハインリヒがきっとあたためてくれるだろう。
 やっと夜空に背を向けて、家の中へ戻りながら、触れ合っていなければ生きて行けない始まったばかりの恋人同士のように、ふたりは互いの体に手を掛けたまま、そして、爪先の進む速度を少しゆるめて、もう一度唇を重ねる。ゆっくりと、けれど立ち止まらずに動き続けながら、重なった唇は、ドアを抜けるまでほどけない。
 屋根の上に出た月が、まだ閉めないドアの傍にふたり分の影をひとつにまとめて地面に縫いつけ、そこへ星明かりが降り注いでいた。抱き合うために腕の位置を変えた分だけ影の輪郭が変わり、コーヒーの香りが立つのは、まだ先のことになりそうだった。

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