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再開

 こんなことは久しぶりだった。ハインリヒと、と言うだけではなくて、誰かに触れて眠ることが、ジェロニモにはほんとうに久しぶりのことだった。
 ジェロニモの長い髪を珍しがって、首に腕を巻いてはそこで指先に髪を絡め取り、正面を向いたまま、楽しそうにそれを続けるハインリヒを見つめたまま、一体いつ眠りに落ちたのか記憶にない。
 刺青の赤さも、それが全身に走る様も、代わりに消えた傷跡も、見掛けは確かにすっかり変わってしまっている。体も、以前よりずっと厚みを増していた。
 ハインリヒも、短く髪を刈り込み、気持ちの落ち着きが外にも出始めてか、歳を重ねたと言うこととは違う、また奥行きのある空気をまとうようになっていた。
 腕の冷たさは相変わらずだ。ジェロニモに躯を近寄せ、隔たっていた間そのものにジェロニモの迷う手を、ためらいもなく引き寄せて、ジェロニモが憶えているそれよりももっと積極的な動きで、先を促す。それでも、実際にそうなれば、馴染むのにずいぶん時間と手間が掛かった夜だった。
 触れ合って、抱き合っていられれば、ジェロニモはそれで良かった。拒まれなかっただけで充分だと、無理の合間に小さくこぼすと、思ったよりも明るい笑いが色の薄い唇からこぼれて、
 「俺がいやだって言うと思ってたのか。」
 言葉の終わりには、けれど照れがにじんでいるように聞こえて、それを隠すためだったのか、また唇を近づけて来たのはハインリヒの方だ。
 何度も夢を見た。ハインリヒと一緒に、朝を迎える夢だ。眠りを分け合って、目を覚まして、隣りから笑い掛けられて、朝だと思った瞬間に目が覚める。そして、夢の中での覚醒とこの覚醒が、どちらがどちらと思い分けるのに一瞬掛かる。そんな夢を、何度も見た。
 もう一度と思うからこそ、そして、もう二度とないかもと恐れるからこそ、同じ夢を見続けた。ひとりで眠るのが常の夜に、それでも繰り返し、ハインリヒの夢を見る。目覚めるまでは夢だと思わなくてすむ。夢から醒めてもしばらくは、顔を洗いに自分の寝ぼけた顔を鏡の中に見つけるまでは、あれが夢だったのだと気づかなくてすむ。
 寝返りの間に寝乱れた髪を撫でつけながら、ハインリヒの髪の、指に絡ませれば容易にちぎれそうな細い柔らかさを、指先に思い出す。思い出しながら、それが正しい記憶かどうか、定かではなくなり始める。腕の冷たさ、肩の固さ、唇の湿りと熱さを、必死に憶えておこうとしていた。夢の中では、あんなに鮮やかだと言うのに、目が覚めれば何もかもが曖昧に、あれがハインリヒだったのだと、それだけが確かなまま、こんな夢も、いつかは途切れてしまうのかと、ジェロニモは静かに恐れていた。
 また、記憶が濃く重なる。ハインリヒを抱き寄せて、直に触れて、これはもう夢ではないのだと、何度心の中でつぶやいたことだろう。様々に色と形を変えた記憶に、新しいハインリヒが鮮やかに上書きされる。薄めさえして引き伸ばしていた記憶に、新しいそれが加わる。脳の襞にそれが刻み込まれる音が、ジェロニモにはしっかりと聞こえていた。
 普段は見えなくなった刺青の代わりのように、消えないハインリヒが、ジェロニモの中に彫り込まれ、色が流し込まれ、それはもう、掌の上に乗せて眺められるほど、ジェロニモにとってはリアルな現実だった。
 だから、目覚めた時に、最初に見るのは眠っているハインリヒだと思っていた。
 目覚めたら最初に、まだ眠る彼の髪にでもそっと触れて、間違いなくそこにいて、同じ夜を一緒に過ごしたのだと確かめるのだと、夢の中で考えていたのをジェロニモは覚えていた。
 今ジェロニモは、空のベッドを眺めている。しわの寄ったシーツと丸くへこんだ枕が、誰かが確かにそこで眠っていたことを示していたけれど、その人の姿はそこにはなく、伸ばして触れたシーツの上に体温の名残りはなかった。
 なぜか必要もないのにそろそろと体を起こし、ジェロニモは部屋の中を落ち着きなく見回す。
 何もない。床の上に脱いで散らばした服は、今はジェロニモのそれだけがまとめられ、ハインリヒがいたはずの側のベッドの足元へ、邪魔にはならないように重ねて置かれていた。
 ハインリヒ、と小さく呼ぶ。返事はない。誰かが動く気配もない。
 またあれは夢だったのかと自分の躯をふと見下ろして、それでも生々しく残るハインリヒの手足や指先の感触を思い出して、夢のはずがないと自分に言い聞かせた。
 それともまた、彼は行ってしまったのか。夢のように、何度も見た夢と同じに、あの鋼の腕の感触だけを残して、彼はまた消えてしまったのか。
 明るい朝だった。ジェロニモはひとりきり、まだ夕べの記憶の残るベッドの中を呆然と眺めている。
 のろのろと、普段に似合わない所作でシーツの上を滑り、ハインリヒの寝ていた側から床へ降りた。白いシーツの上に、横たわれば同化してしまうハインリヒの髪や皮膚の色のことを思い出しながら、枕のへこみに、まだ未練がましく視線を当てている。
 やっと視線を引き剥がして、またのろのろと自分の服を取り上げる。ひとつびとつ身に着けながら、視線はうろうろと部屋の中をさまよって、何かハインリヒが残して行ったものでもないかと探し続けていた。
 いかにも重たげな革靴も見当たらず、丈の短いジャケットとあのサングラスは階下に確か残していたから、この部屋にはどうせない。
 自分の靴も、そこに揃えて置いてあったことに少し驚いて、けれどハインリヒのあの手でそこへ置かれただろう自分の靴を動かす気にならず、ジェロニモは素足のまま部屋を出た。
 簡素な造りの階段を下りたそこにもハインリヒの姿はなく、もしかしたらと思ったジャケットも見当たらない。やはり彼はもう行ってしまったのだと、階段の一番下で足を止めて、ジェロニモはそこからキッチンの方へも視線をめぐらせた。
 そうして、石畳を蹴る、重いくせに軽い足取りのその音を聞き取って、ジェロニモは薄暗い玄関の方へ顔を向ける。ドアノブが回り、ドアが開く。見掛けは古いのに、このドアは軋んだ音は立てない。
 こちらへ向かって開くドアの陰から、まず銀色の髪が見えた。
 「ああ、起きてたのか。」
 何もかも白いハインリヒの、水色の瞳が笑みに丸くなる。唇の上がり方の無邪気さに、ジェロニモは不意を打たれて思わずあごを引いた。
 また音を立てずにドアが閉まる。ハインリヒは、前を閉めないジャケットの裾を腰回りにまといつかせて、笑顔を消さずにジェロニモの方へやって来た。
 「・・・どこへ行ったかと思った。」
 安堵と一緒に、焦燥をまだ消せずに、ジェロニモはつぶやく。
 革手袋の右手には小さな紙コップを持って、そこへかぶせてあるプラスチックの蓋の、小さな口へ唇を寄せながら、ハインリヒが上目遣いに眉を丸く上げた。
 「ここのキッチンをあさってコーヒーを淹れるのに、家主の許可がもらえそうになかったんでね。」
 ハインリヒの言う通りだった。ここはただ眠るための場所だったから、キッチンはほとんど空だ。元々食べることへの執着はそれほどなく、改造が進んでからそれはいっそう顕著になった。そして、ひとりで摂る食事の味気なさを思い知ってから、もういっそ食べることなど必要のない体にしてはもらえないかと、少しばかり本気でイワンに相談しようと思ったこともあった。
 ひとりの食事はつまらない。ハインリヒが今飲んでいるコーヒーの香りが、なぜかジェロニモの舌の上にも届いていた。今日の食事──張大人が、皆のために腕を奮うと昨日言っていた──はきっと、久しぶりに美味いに違いないと思う。
 ハインリヒのコーヒーは、今も砂糖を入れない、あの泥のように濃いコーヒーだろうか。
 飲みたいと、思ったと同時に腕が前へ出ていた。ハインリヒが意外そうに眉の間を開き、
 「おまえさんも飲むか。」
 ジェロニモのその手に向かって、小さな紙コップを差し出して来る。受け取り、プラスチックの固さを期待しながら唇を近づけた。唇が縁に触れる一瞬前に、ハインリヒの唇も同じように触れたのだと思って、動きがわずかに止まる。
 予想した通りに、コーヒーはしっかりと濃かった。そしてそれを、美味いと思いながら、ジェロニモはゆっくりと喉の奥へ飲み込んだ。
 今日、張大人の大盤振る舞いのために皆で集まれば、ジェロニモがコーヒーや紅茶を淹れることになるに違いない。皆の好みを憶えているだろうかと、紙コップをハインリヒへ返しながら考える。
 「・・・夕べは──」
 何を言うつもりだったのか分からないまま、声が出ていた。頭の中で様々な思考が飛び交っている。ただの気まぐれだったのか、ただそうしてみたいと言うだけのことだったのか、あるいは今日の次には明日があって、明日の次には明後日(あさって)のある、また新たに始まるかもしれないことなのか。この、半ば水に沈んでいる街の中で、その水に閉じ込められているのだと言う言い訳で、ジェロニモは今ハインリヒと一緒にいると言うこの状態を、永遠に続けたいと思っている。水の中で、何もかもが朽ち果てるまで、互いに抱き合ったままでいることが許されるだろうかと、頭の中でだけ考えている。
 紙コップを受け取る指先が触れ合ったのは、偶然ではなかったろう。ハインリヒは薄く微笑んで、それからコーヒーを、ぐいと喉を伸ばして一気に飲んだ。
 「お互い、体も変わっちまってる。ちょっと時間が掛かるのは仕方がないさ。」
 ジェロニモの言おうとしたことをどういう風に受け取ったのか、ハインリヒが肩をすくめてそれを受け流した。
 そうではなくて、とジェロニモが言葉を継ごうとした時、ハインリヒの革靴の爪先が艶のない木の床を滑り、ジェロニモの目の前へ近づいて来た。空の紙コップは皮手袋の右手に持ったまま、両腕をジェロニモの首に巻きつけて、ハインリヒは精一杯の背伸びをした。
 ごく普通に背の高いハインリヒがそうして体を伸ばすと、2メートルを越える。けれど2メートルを軽々と越えているジェロニモには、そうしても完全には近づけず、ジェロニモは首に掛かる重みに素直に引かれて、ハインリヒへ体を少し傾けた。
 懐かしい角度だった。丸めた背中と、こうしてやっと合わさる視線と、夕べ散々抱き合ったのに、まるで初めて口づけでも交わす直前のように、ジェロニモはほとんど目を細めてハインリヒを見つめていた。こうすれば、互いの瞳の中に互いが映っているのが見える。そんな風に小さくなった自分の姿を見るのは、ほんとうに久しぶりだった。
 ジェロニモは、やっと両腕をハインリヒの腰辺りへゆるく巻いて、求められている口づけに応えるために、もう少し近く胸を寄せる。
 「どこにも、行かないでくれ。」
 額が触れ合った。口づけが始まれば、もう言葉が失われてしまうと知っているから、今言わずにはいられなかった。
 「俺が今さらどこへ行く?」
 丈の短いジャケットの裾は、ジェロニモの腕をかすめて、薄いシャツの下にはすぐ、夕べ触れ続けたハインリヒの躯がある。抱きしめていても、まだ幻でないと確信できずに、ジェロニモはまた言葉を重ねた。
 「ほんとうに、消えたりはしないか。」
 「イワンの子守の手伝いも、たまには面白そうだからな。」
 ジェロニモがひどく真剣に訊くのに、ハインリヒは茶化すように答えて、太い首に巻いた腕の輪を少し縮める。しゃべる呼吸がさらに近くなった。
 「・・・終わったことなら、また始めればいい。終わってないなら続ければいい。」
 そうだろう?と、憶えているよりも深刻さの薄れた瞳の表情が、ジェロニモに笑いかけて来る。
 ほんとうに?と、ジェロニモはまだ重ねて問うことをやめられずに、けれどそれを口にする前に、ハインリヒの唇に唇を覆われてしまった。
 コーヒーの香りが喉の奥へ流れ込んで来る。それに、いっそうはっきりと今朝の目覚めを促されながら、今日はどんな日になるのだろうかと、ジェロニモはぼんやりと頭の隅で考えていた。
 今日の次には明日があるはずだから、何も焦ることはない。もう、日を数えることをしなくていいのだ。何もせずに過ごしたいならそうすればいい。無駄にした1日など、もうここにはない。
 世界が、色を取り戻し始めていた。空気に、はっきりと匂いが交じる。ジェロニモの腕の中にはハインリヒがいて、ハインリヒはどこにも行かないと言っている。
 ジェロニモは素足の爪先で、ハインリヒの革靴の爪先をそっと探ってみた。1日が始まったばかりだと言うのに、慎みもなく深くなる一方の口づけがその先をふたりに予感させて、今日の始まりはもう少し先のことになるかもしれなかった。
 紙コップが、ハインリヒの手から落ちて床に転がる。窓から入る朝陽の日だまりの中へ落ち着いて、そこから、抱き合うふたりを見ている。朝のまだ冷えた空気の中に、コーヒーの香りが濃く漂う。
 ジェロニモの、まだまとめていない髪に、ハインリヒの指が絡んで立てた小さな音が、部屋の空気をかすかに揺らした。

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