Still Loving You
前髪を撫でられていると思って目を開けると、目の前にジェロニモがいた。穏やかな表情はけれど無表情に近く、太くて長い指がそっとイワンの頬の丸みをなぞる仕草には、尽きない優しさが込められている。イワンはちょっと首をすくめて、あくびの代わりに小さく体を伸ばした。
「ミルクの時間だ。」
わずかとは言え成長した後も、相変わらずイワンの食事はほぼミルクだけで、何十年も久しく会っていなかったと言うのに、ジェロニモはイワンのお気に入りの温度をきちんと憶えている。会わない間に、やたらと新しくなった哺乳瓶にはいまだ戸惑っているようで、粉ミルクの注意書きも何だか色々変わっていると、戻って来た最初の頃はこぼしていたものだ。
2、3度やって来たメンテナンスで、装甲はさらに厚くなり、人工皮膚は強化され、それと一緒に消えた顔の刺青の代わりに、今では全身に赤い線が浮き上がる。普段は見えないその線が、近頃はよく皮膚の上に浮き出ている。ジェロニモ自身は、それに気づいていない。
ジェロニモはイワンを片腕に乗せるようにして抱き上げると、胸元に引きつけて、それから哺乳瓶の先を差し出して来た。
ほんとうはもう、こうして飲ませてもらう必要もない。以前よりさらに強力になったイワンの超能力は、何百トンの物体を動かすのも軽々だ。自分で食べたいものを口に運ぶくらい、雑作もなかった。それでも、以前のまま、か弱い赤ん坊のままでいる方が何かと便利ではあったから、イワンは仲間の手を煩わせるのに良心を痛めることなく、相変わらずこうやって世話を焼かれ続けている。
こくんこくんと、人肌にあたためられたミルクを飲みながら、自分を見下ろしているジェロニモを時々見上げて、瞬きの合間に、イワンはジェロニモの人工心臓の音に耳を澄ませた。
フランソワーズのそれとは違い、ぶ厚く装甲に隔てられた鼓動は遠く、それなのに力強く、今は平常よりもやや心拍数が高い。ちょうど、5キロ程度走って来た後くらいの、そんな感じの心拍数だ。
イワンは哺乳瓶に小さな両手を添えて、またジェロニモをちらりと上目に見た。
ジェロニモは、今ハインリヒのことを考えているのだ。今だけではない。ジェロニモがイワンたちの許へ戻って来て、そこへハインリヒも戻って来て、それ以来ずっとだ。ハインリヒを見た瞬間に、どくんとジェロニモの心臓が跳ねた音を、イワンは確かに聞いた。ほとんど、胸の辺りに心臓の形がそのまま見えるのではないかと思えるほど強く、ジェロニモの心臓は激しく鳴っていた。
忘れていたわけではない。ジェロニモがハインリヒに会いたいと思っていたことを、もちろんイワンは知っていた。それでも、何十年も会わなかったその後で、ジェロニモが以前と同じ強さでそう思っているのだとは想像していなかっただけだ。
心臓が鳴る。体温が上がる。戦闘中にだけ見えるようになるはず──外へ向かっての、警告と威嚇だ──のジェロニモの赤い刺青の線が、近頃はしょっちゅう薄く浮き出ている。肌の浅黒さに隠れて見えないその淡い赤を、イワンはこうやって近々と眺めて気づいているし、ハインリヒもきっとそうだろう。
ハインリヒは多分、見ているだけではない。直に触れて感じてもいる。イワンはそれを知っている。
ハインリヒがドイツへ帰ると決めた後の、ジェロニモの内心の荒みようを、イワンは今もはっきりと憶えている。何があっても心乱さないこの大男が、嵐を抱え込んで苦しんでいた。誰にも打ち明けず、ハインリヒへ変心を迫ることもせず、結局ジェロニモはあの嵐にひとり耐えた。イワンは、ジェロニモの荒れた心の中を時々覗き込みながら、それを強引に鎮めることもできたのに、そうはしなかった。イワンに、心の中を覗かれることを許しているジェロニモが、その中に踏み込まれることは決して受け入れないと知っていたからだ。
そしてイワンなりに、こんな風な嵐は、ただひとり通り過ぎるのを待つしかないのだと、何となく気づいてもいたからだ。
イワンはフランソワーズを好きだったし、ジェロニモのことも好きだった。それでも、愛だの恋だのと言う概念はいまだ字面でしか理解できず、なぜフランソワーズがそんなにもジョーと関わり続けたがるのか、それは執着と言う言葉で片付けてしまうにはあまりにも複雑で、こればかりはいくら知識を総動員したところで、イワンには実感として理解ができない。
同様にジェロニモの、ハインリヒに対する気持ちもまたイワンには理解不能なまま、ことにそれはフランソワーズとジョーの場合とは違って、ずっと他の仲間たちへは伏せられている関係だった。薄々気づいてはいる、けれど誰も口には出さない、ジェロニモとハインリヒはそうやってひっそりと関わり続けて、わざわざ大っぴらにしないことが仲間内での礼儀だとでも言うように、様々なことがオープンになりつつある世界の流れに逆らうように、相変わらずふたりの関係は秘められたままだ。
以前は、隠すのが下手だったのはハインリヒの方だったのに、今ではジェロニモの方が正直だ。また心臓が速い。イワンはミルクを飲みながら、何度かゆっくりと瞬きをした。
フランソワーズが、時々心の中で叫んでいるのが、イワンには聞こえる。わたしが欲しいのはジョーだけ。一緒にいたいのはジョーだけ。
他に何人、ジョーと似たような誰かが現れようと、フランソワーズが恋うのはジョーだけだ。愛し返して欲しいと思うのはジョーだけだ。他の誰も、代わりにはならない。
それと同じことなのかと、ハインリヒに訊いてみようと思ったこともあった。ジェロニモでなければだめなのか。ハインリヒでなければだめなのか。互いでなければ意味がないのか。世界のすべてと引き換えでも、そのただひとりでなければあらゆることが無意味になるのかと、イワンは訊いてみたいと思った。
訊かないままなのは、俺の心が読めるんだろう、とはぐらかされるのが分かり切っているからだ。ジェロニモはきっと、言葉では答えてはくれない。答えようとして、表す言葉が見つからないと言う表情を浮べるだろうと、予知能力などなくてもすぐに分かる。ハインリヒのこととなると、たやすく心を波打たせるジェロニモの、そんな狼狽の有様を眺めるのは愉しくはあった──悪趣味だと、ハインリヒなら言うだろう──けれど、それを見たいと思う以上にイワンはジェロニモを好きだったから、できればジェロニモを困らせたくはなかった。
子守唄と言うには少し速過ぎるジェロニモの鼓動に、ゆるく呼吸を乗せるうちに、満たされた胃のせいかどうか、穏やかに眠気がやって来る。哺乳瓶が遠ざかると、空いた唇にはおしゃぶりが差し込まれる。
ジェロニモはイワンを抱いたままそっと動き、イワンをゆりかごへ戻す準備かどうか、腕を動かして何かしている。
そうして不意に、目が覚めるほど強く、ジェロニモの心臓が激しく鳴った。
もう眠り掛けている振りでうっすら目を開いて窺うと、ジェロニモの腕から革手袋の手へ抱き渡されるところだった。この後の時間を一緒に過ごす約束でもあったのか、ハインリヒがイワンを抱き取り、ジェロニモへ向かって何かうなずいているのが見える。
ジェロニモの腕に比べれば少々頼りないハインリヒの腕の中へ、イワンはみじろぎもせずにおとなしく納まって、ジェロニモに抱かれたままのつもりとハインリヒに思わせるために、胸元へ向かって頭をすり寄せさえする。
向こうへゆくジェロニモの背を見送っているハインリヒの、顎から横顔の線へ、不意に薄い笑みが浮かぶ。微笑みと言うよりは苦笑に近いような、イワンに見られてるとは気づかないその笑みに、ハインリヒ自身は気づいているのかいないのか、まだジェロニモを追っているその視線は、ジェロニモの首筋に浮かぶ薄赤い線を見つめていた。
ハインリヒの心臓も、速い。ジェロニモほどの激しさはなくても、ここへはもしかして走ってやって来たのかと思うような鼓動の早さだった。イワンは思わず目を開き、まじまじと、ハインリヒの苦笑をじっと眺めた。
じぇろにもハ、君ノコトガ好キダヨ、はいんりひ。
これは自分だけの勝手な想いで、想い返されているわけではないと、このふたりは思い込んでいる。長い長い間気持ちを通じ合わせているくせに、相手の気持ちは、ただの優しさと思いやりだと思い込んでいる。それとも、思い込もうとしているだけなのか。
ソシテ君ハ、じぇろにもノコトガ好キナンダ、はいんりひ。トテモ。トテモ。
取り出して掌に載せて見せるわけにも行かない気持ちだの心だのと言う代物は、結局は心拍数で表すことのできる、そんなものだと言うことだろうか。また目を閉じて、今はハインリヒの鼓動を数えながらイワンは考える。
ジェロニモのあの刺青で、ハインリヒは多分それをもう知っているはずだ。けれど指摘はしないことが、この男の優しさだ。ジェロニモは、あらわな自分の気持ちに気づかず、刺青の赤さに気づくのは、ハインリヒの瞳の中に映る自分の姿を見た時だ。
好き合っていれば、何もかもが上手く行くと言うわけではないのか。愛だの恋だのは、一生理解できないだろうとイワンは思う。それでも、もうあんな風に荒んだジェロニモを見なくて済むなら、この、少々抱かれ心地はよくない鋼鉄の腕でも我慢しよう。
重い足音が戻って来る。ハインリヒの傍へ寄り、そこからイワンを覗き込んで来る。ふたつ並んだ顔。4つの瞳。ジェロニモはイワンと、それからハインリヒへ向かって穏やかに微笑み、ハインリヒはそれを見上げて、そうして、ふたりはイワンが眠ってしまっていると思い込んでいて、だからイワンは、ふたりのためにぎゅっと目を閉じた。
重なったのは呼吸だけではなかった。しばらくばらばらと跳ねた後で、今はふたつの鼓動がゆっくりとリズムを揃えている。
ジェロニモの濃くなった刺青の赤を頭上にちらりと盗み見て、イワンはもう振りではなく眠ってしまおうと、自分を取り巻く体温──さっきよりもまた上がっている──の中へ、小さな体を沈めて行った。