戻る / index

Taste Of Yours

 巨きな体が、足音も気配もさせずに近づいて来る。
 わずかな空気の揺れを感じて、ハインリヒが顔を振り向けた時には、もう腕の長さの距離にいた。
 体と釣り合った大きな手が持つ、湯気の立つマグ。もう一方の手には小さな灰皿。ハインリヒは読んでいた本を置き、その両方を両手できちんと受け取った。
 コーヒーの香り。クリームの量が好みなのが、色合いに見て取れる。無意識に、唇の端がかすかに上がった。
 ハインリヒがダンケと短く礼を言い、再び本を開いたのを確かめてから、ジェロニモはくるりと背を向けキッチンへ戻ってゆく。静かに動く足音が外へ向かい、庭とも言えない広さの、この小さな家にわずかにくっついている地面の切れ端の、彩りのためかただ愛でるためか、ジェロニモが植えた花々の世話をしている気配が、ページを繰る乾いた音に湿った音を重ねて来る。
 雑草と、ハインリヒたちが雑にまとめて呼ぶ草へ、ちょっと気の毒そうな視線を当てて、それでも自分が植えた花のためにそれらを抜き取り、他に取り除いた方が良いものはないかと狭い地面を見回し、水をやり、様々な色の花弁が水を浴びてすっくりと細い茎で背を伸ばすのに、慈しみに満ちた笑みを向けて、恐らくそのジェロニモの笑顔が、花たちにとってはいちばんの栄養ではないかと、ハインリヒは淹れ立てのコーヒーをひと口啜って考えている。
 水を吸った土は色を濃くし、乾いていればジェロニモの膚の色に、濡れて湿ればその髪の色に似て、赤い花弁はさしずめその皮膚に縦横に走る刺青の線か。
 ジェロニモの刺青は、ハインリヒといる時にはもう滅多と消えることはなく、それのないジェロニモに、ハインリヒは他の仲間ほどは馴染みがない。さっきマグと灰皿を差し出した手指にも赤い線は濃く走っていて、わざと触れさせた指先に、マグ越しのコーヒーよりも熱いジェロニモの体温が伝わって来て、マグごとその手を引けば拒なかったかもなと、行の間へ視線を滑らせて、ハインリヒは考えた。
 視線を字の並びに戻し、さくさくと土に触れているジェロニモの気配を感じ取り、ハインリヒは本を読みながらそれは頭の中のどこにも落ち着かず、立ち上がり、何十歩か歩けばすぐに抱きしめられる距離にいるジェロニモへ、心の端がその小さな手を伸ばし続けていた。
 自分で飲む時は紅茶しか淹れないくせに、人が淹れてくれるとなればコーヒーを飲みたがるハインリヒは、内心では常にそのコーヒーが自分の好みではないことを確かめるのに、意地の悪い歓びを見出している。もちろん、そんなことを口にはしない。
 それでも、口を付けた瞬間のわずかな表情の変化で、ジェロニモはハインリヒのそんな内情を正確に読み取って、今ではすっかりハインリヒの好みを飲み込んでいる。自分には濃過ぎるドイツ人向けのコーヒーを、ハインリヒのためだけに淹れ、自分の分には淹れた後で湯を足して、それでも時々はその濃いコーヒーをそのまま飲んで、それを美味いと感じる日もあるようだった。
 少しずつ自分の好みに近づいたジェロニモのコーヒーの、けれどその濃さが、実のところ好みとはわずかに外れていて、ハインリヒのコーヒーの好みは、もうその味や香りや濃さではなくて、ジェロニモがハインリヒのために淹れるコーヒー、と言うところに収まっていることに、ハインリヒ自身は気づいてはいないのだ。
 ジェロニモがハインリヒの心の機微を素早く読み取るように、ハインリヒもコーヒーの味で、ジェロニモのその日の機嫌を計れるようになっている。そんな風な自分の変化──進歩?──には、恐ろしく疎いハインリヒだったけれど。
 99点かも知れず、80点かも知れず、あるいは105点かもしれないジェロニモの淹れる、ハインリヒのためのコーヒーの、程良くクリームに和らげられたその苦味を舌の上に転がして、下目に見るコーヒーの色が、ジェロニモが今触れている湿った土の色へ繋がってゆく。
 しっかりとした爪の短く刈られた指先が、花の茎や根を決して傷めないように、土を優しくいじる。時々汗を拭うと、額や頬に土の汚れが移り、それが少し乱れた髪へも移る。終わると、ジェロニモは丁寧に手を洗い、時にはそのままシャワーを浴びて全身から土の汚れを落とし、爪の間に入り込んだ頑固な土の残りも癇症に拭い去る。それでも、水の匂いの底に土の匂いが残り、ハインリヒはそれへ鼻先をこすりつけて、コーヒーの香りとどこか重なるジェロニモ自身の匂いに、こっそりを目を細めるのだ。
 ハインリヒへ触れるために、きれいに洗われた指先。土の名残りはなく、けれどジェロニモ自身が大地のように、ハインリヒはそこへ根を張る木のように、かけがえのない互いが互いにしっかりと結び付けられて、葉陰の薄暗さのような、あるいは夜の森のように隙間もない昏(くら)さのような、ジェロニモの髪へ、重なる葉を不粋に照らしつける陽射しのように、ハインリヒの鉛色の指先が入り込んでゆく。
 日暮れの、弱まる陽射しを、ゆっくりと薄闇が覆い隠し始めるように、その薄闇は次第に濃さを増し、もう生身の目では物の形も分からない夜の訪れに、身動きを封じられれば眠りの中に逃げ込むしかない。
 眠りの振りで、互いを見失なわないために、肩や背に両腕を回して、ジェロニモはハインリヒの大地であり夜であり、ハインリヒはジェロニモの朝であり太陽でもあった。そのように在るふたりの、眠りの姿を借りた睦み合いの、人工の皮膚の下はすべて金属と強化プラスティックのパズルだと言うのに、どこか厳かに素朴で、土と花の関係のように、自然ですらあった。
 自然、と思ってから、苦笑が口元へ浮かんだけれど、それを積極的に否定する気にもうならないのも不思議で、それがいっそう可笑しくて、ハインリヒはぱたんと読んでいた本を閉じた。
 空のままの灰皿はそこへ残したまま、まだ少し残っているコーヒーだけを手に、ハインリヒも庭へ向けて立ち上がる。
 そろそろ、花の世話を終え、手を洗うためにそこから立ち上がるだろうジェロニモの、岩のように大きな背が、目の前に見えるようだった。コーヒーのお代わりを頼むか、それともシャワーを自分も一緒に浴びるか、決めかねたまま、コーヒーに濡れた唇をハインリヒの舌先が舐める。
 ジェロニモを呼ぶために軽く開いた唇の中で、舌先が、口づけの時のように動いた。

戻る / index