此方
廊下で足音がした。何か、重い物でも落として歩いているのかと思うような大きな音で、ふたりはじっと体の動きを止めて、その足音の行く先へ耳を澄ませた。思った通り、この部屋の前で足音は止まり、足音に負けない大きな音で、今度ははっきりとドアを叩く。
深夜にやって来る警察が、こんな──乱暴な──ドアの叩き方をすると、ジェロニモは思った。
「ジェロニモー?」
ジェットの声だ。足音とノックの音とは不釣り合いな、どこか罪悪感に駆られたような声で、ジェロニモは静かに素早くベッドから抜け出て、ドアに応えるために、床に散らばった服を手早く取り上げる。
「今行く。」
応える前にドアを開けられないように声を掛けたのに、予想に反して、ジェットはそのままおとなしくドアの向こうでジェロニモを待っている。
羽織ったシャツのボタンをとめる時間を惜しんで、ジェロニモはほとんど飛ぶようにドアの前へ行った。
自分の体に遮られて、明かりをつけない部屋の中が見えないように気をつけながら、何事もない表情でドアを開ける。ジェットが肩をすくめて、斜めにジェロニモを見上げていた。
「ハインリヒを探してるんだ、イワンとギルモア博士が話があるって。見掛けたらそう言っといてくれよ。」
ジェロニモの正面には向かず、明らかに部屋の中から視線をそらす姿勢で、早口にそう言いながら、ジェロニモに見せているのは横顔だ。
視線がうろうろと廊下のどこかをさまよっている。まだ床に散らばっているハインリヒの服を、見ればジェットはそうと見分けるだろうかと思いながら、ジェロニモは立っている位置をもう少し左にずらして、ジェットに部屋の中が見えないようにと祈った。
「わかった。見掛けたら。」
自分の背後に、痛いほどハインリヒの気配を感じながら、ジェロニモはジェットに向かって深くうなずいて見せる。
じゃあなとジェットは軽く右手を上げ、くるりを背を向ける。何となく肩を落としたような姿勢で、来た時の足音がうそのように、今度はやけに静かに立ち去ってゆく。
ジェロニモはドアを閉める手を止めて、廊下へ顔だけ突き出した。
「急用か?」
ジェットの長い足が止まり、
「さあな、そんな風じゃなかった。」
ジェロニモの方へは振り向かないまま答えて、また軽く手を上げて見せてから、今度こそ立ち止まらずに上へゆく階段へ消えて行った。
ジェットが去ったのを確かめてからドアの内側へ体を戻し、ジェロニモはそっとドアを閉める。
わざと作った薄闇へ振り返ると、空のベッドがぼんやりと見えて、少しの間眉を上げて目を見張る。
「ハインリヒ。」
声をひそめて呼ぶと、ベッドの向こう側から、銀色の頭が覗いた。
「行ったか。」
裸の腕がベッドの上に伸びる。向こう側の肩──マシンガンの方だ──に、一緒に床に落ちて、体を隠すためか巻きつけているらしい毛布の端が見える。
明らかに寝乱れて、しわばかり寄ったシーツだけがベッドに残り、ハインリヒが見えなくても、一体何事かと思うような有様ではあった。
「行った。」
短く答えてベッドへ戻る途中、ジェロニモは体をかがめて、床に散らばったハインリヒの服を集めた。わずかに残った自分の分とはより分けて、着るならすぐそうできるように、そうしながら、ハインリヒの顔を見ずにすむように取った姿勢だとは気づかせていないつもりだった。
「イワンとギルモア博士が何の用だ。」
まだ床に坐ったまま、ベッドの上には戻らずに、ハインリヒがどこか忌々しそうにつぶやく。こんなことを邪魔されて、喜ぶ輩は確かにいない。ジェロニモは苦笑を浮かべないように苦労して、やっとベッドへ戻って、ハインリヒに背を向ける形に端へ腰を引っ掛けて坐る。
「わからない。だが急用ではなさそうだ。」
「・・・イワンに見つかる前にこっちから行った方が良さそうだがな。」
舌打ちしそうに唇の端を下げて、やっとハインリヒがベッドの上へ戻って来る。ベッドを横切り、毛布を体に巻きつけたまま、ジェロニモの隣りに腰を下ろし、目の前に床に軽くまとめられた自分の服に、もう心は飛んでしまっているようだった。
ハインリヒはまだ動かず、ジェロニモをそれを促して先を急がせることはせず、ふたりは言わず語らず、同じことを考えていた。
そう言い合わせたわけでもないけれど、ふたりはあまり私物──ジェロニモはあまり物を持たず、ハインリヒの持ち物はドイツ語の本ばかりだ──をここへは置かず、この家の中で、誰かが自分の部屋を荒らすと言う心配もなく、特にジェロニモは、部屋の中にいてもいなくても、以前は滅多と部屋のドアを閉めることをしなかった。閉め切るのは夜、眠る時くらいだった。
ジェロニモに用があれば、皆部屋の中に半歩足を入れてから声を掛ける。それが近頃、さっきジェットがしたように、誰もが遠慮がちにドアを叩くようになった。ドアが閉まっていることが増え、さすがにそれを何の合図もなく突然開けるのはためらいがあるらしい。もちろん、ドアを閉めるのは、自分の部屋と言う空間を他と区切るのが目的だけれど、それだけと言うわけでもないと、隠しているつもりだったのは当人たちだけだったようだ。
明らかに、皆にはばれている。大声で披露するようなことではないから、ふたりの間のことだけに──少なくとも、しばらくの間は──しておきたかったのに、どうやら最初(はな)から無理があったようだ。
「まあいい。」
何に対してそう言ったのか、表情が、口調を裏切っていたけれど、ハインリヒはやっとベッドから立ち上がり、毛布と一緒に、床の上の自分の服の上にしゃがみ込んだ。
毛布が背中を滑り落ちるのを、ジェロニモはそれにするりと背を向けて視線をそらし、身支度をするハインリヒを直視はしない。
少なくともジェロニモは、ハインリヒの体を、どんな時も凝視できるほどまだ馴れ合った親(ちか)さへは届いていなかったし、今は特に、途中で遮られてしまった熱さがまだ残っていて、去ろうとしているハインリヒを引き止めるわけには行かなかったから、薄暗い部屋の壁へ視線を当てて、ハインリヒからまだ彼へ向かってゆく自分の心の端を、残らず手元へ引き戻すのに、少しばかりの精神力を要した。
服を着ると、いつも見るハインリヒが戻って来る。どこか近寄り難い、気難しげな空気で全身を覆って、そこから読めるのは、俺に近づくなと言うメッセージだ。そのハインリヒが薄く笑みを浮かべて、ジェロニモの方へ寄って来た。
「何の用だろうな、まったく。」
ベッドに腰掛けていれば、さすがに少しばかり上向いて、ハインリヒを見上げる姿勢になる。ジェロニモは、慣れない角度に喉を伸ばして、目の前にやって来たハインリヒを、今度は真っ直ぐに見つめた。
「何か、大事なこと。多分。」
ジェットがわざわざやって来たなら、そうなのだろう。
「ああ、じゃなかったら大事(おおごと)だ。」
唇の端が上がるのが、どうやっても皮肉笑いにしか見えない彼の表情を、いつの間に、どういう気持ちを表わす笑みなのか、見分けがつくようになったのだろう。ジェロニモは、知らずに目を細めていた。
まるで永遠の別れでも惜しむように、ハインリヒは両手をジェロニモの首筋に当て、そこへ顔を落として来る。小さな口づけをほとんど終わらせないまま、
「・・・とっとと済んだら、すぐ戻って来る。」
ささやきよりもしっかりした声が、皮膚へ熱く当たる。ハインリヒの腰に、思わず回しそうになった腕を、ジェロニモは少しだけ必死に止めた。
ドアを閉めた部屋は、他のすべての空間から隔離されて、まるで真空に浮いた真四角の何かの容れ物のようだ。ふたりを閉じ込めて、ふたりが閉じこもって、どこにも繋がらず、どこからも入れない、そんな場所のように思える。
追われて、囲った場所へ閉じ込められて、そんな風にされて来た自分が、今はひと処へ閉じこもろうとしているのが、何だかひどく滑稽に思えた。ジェロニモはうっかり笑いそうになって、ごくりと喉を鳴らした。
自分で選ぶと言うのは、とても大事なことなのだと、改めて思いながら、自分の方へ鉛色の右手を伸ばしたまま、部屋を去るハインリヒを最後までじっと見つめていた。
後ろ手で、その手がドアを閉める。足音が廊下を去ってゆく。階段を上がるその足音にまで耳を傾けて、それから、ジェロニモは、ハインリヒが手袋を置いて行ったことに気づく。
サイドテーブルのランプのそばに、くたりと放り出されたそれが、暗くした部屋の色に溶け込んで、けれどひと色濃い黒で輪郭を浮き上がらせて、数秒考えた後で、ジェロニモはそれに手を伸ばした。
両手の上に乗せて、そうして、両手の間に挟み込んだ。
鉛色の彼の手よりも、柔らかいその感触は、触れたことのない彼の生身の皮膚を思わせる。彼の手の形に沿って、ふくらみやしわを増やしたその手袋を、彼の手にそうするように、指の間に自分の指を滑り込ませる。
ハインリヒが戻って来たら、あの右手を取って、自分の方へ引き寄せようと思った。指先に口づけて、唇に当たる、あの金属の硬い感触。首筋に、それが甦った。薄暗いままの部屋の中で、彼の手袋を手に、彼が閉めて行ったドアに、ジェロニモはじっと目を凝らし続けていた。