相合傘

 不意に激しく降り出した雨の音で、読んでいた本から顔を上げ、ハインリヒは窓の方を見た。
 雷の音も遠くの方で聞こえる。部屋は急に薄暗くなって、それなら明かりをつけるかと、すぐ傍のランプに手を伸ばしてから、少し前に、森のパトロールへ出掛けたジェロニモのことを思い出す。
 いつもの軽装で手ぶらで、森の中なら雨は多少ましかもしれなかったけれど、歩いていれば濡れる。濡れながら歩くジェロニモの姿を思い浮かべた途端、ハインリヒは読み掛けの本のページにしおりを挟み、慌てたようにソファから立ち上がっていた。
 玄関へ走り、上着を着て、それから、傘を掴んで裏口へ走る。ドアを開けて裏庭へ一歩出ると、中で聞いていたよりも激しい音に、一瞬肩が縮んだ。地面に跳ね返る水滴が、ズボンの裾を早くも濡らして来る。傘を差しても濡れるなと、思いながら、やっと屋根の外側へ出た。
 激しく散る水しぶきだけで、もう体が湿っぽくなって来る。たとえ海中に何時間いても影響のない体だけれど、こんな風な湿気は、見ているだけで気が滅入りそうだった。
 ぴしゃぴしゃと、前へ進む爪先が水を弾き、地面全体が水の膜に早くも覆われて、歩くうちに雨の勢いはやや弱まっていたけれど、地面を流れる水の量は逆に増しているように思えた。
 頭上で、傘が相変わらず激しく雨音に鳴っている。ハインリヒは、少しでも濡れまいと自然に傘の中で肩を縮め、ジェロニモが歩いたはずの森の道を歩きながら、煙るような視界の先に、ジェロニモの姿はないかと目を細める。
 どの辺りでこちらへ向かって折り返すのか、大体見当はついているけれど、雨のせいで歩く速度はいつもより落ちて、思ったよりも森の中を長くうろつく羽目になる。革靴の先は濡れ、ズボンの裾もぐっしょりと足首にまとわりつき、わざわざ出て来たのはあまりいい考えではなかったと、すでに思い始めていた。
 それでも、引き返そうと言う気にはならず、ハインリヒはこの先のどこかで出会うはずのジェロニモの姿を求めて、唇をへの字に結んで歩き続けた。
 そして、折り返しの地点へゆく途中だったのか、それとももうこちらへ戻る途中だったのか、葉をいっぱいに繁らせた、他の木よりも広がる枝の長いその下に、幹に大きな背を当てて、しゃがみ込んでいるジェロニモを見つけた。
 何を見ているのか、律儀に揃えた膝の少し前辺りに視線を落として、雨音に紛れるハインリヒの足音にはまだ気づかない風に、横顔は、うっすら微笑んでいるように見える。
 「ジェロニモ。」
 5歩手前で声を掛けると、横顔がこちらへ動き、斜め下から見上げられる、珍しい角度になる。それを少し長く眺めるために、ハインリヒは歩調をわずかにゆるめた。
 葉の重なりは雨を避けてはくれるけれど、やはり完全にではない。ジェロニモの傍へ立っても、時々傘の上に落ちて来る雨粒がある。まだしゃがんだままのジェロニモに、ハインリヒは傘を差し掛けた。
 「濡れたか。」
 Gジャンの肩や腕の生地の色が濃くなっているのに目を止めながら、ハインリヒは訊いた。
 いや、と言う風にジェロニモが首を振る。そうしてから、ハインリヒから視線を外さずに立ち上がり、当然のようにハインリヒの手から傘を取り上げる。ジェロニモが手にした傘は、今度はハインリヒへ向かって差し掛けられた。
 「おまえさん用だ。」
 1本しかない傘なのに、そんなことを言ってみた。言いながら、もう1本、なぜ出掛けに掴んで来なかったのかと、自分の迂闊さにやっと気づいて、けれどそれは多分迂闊なんかではなかったのだろうと、思い至るまでに2秒。
 まだ腕1本分の距離を置いたまま、
 「何を見てたんだ。」
 ハインリヒが訊くと、ジェロニモはちょっと怪訝な顔をしてから、自分でハインリヒへ近づき、ハインリヒがきちんと傘の下に入るように腕と自分の位置を変えて、それからやっと、ハインリヒの問いの意味を悟ったように、また自分の足元へ視線を向けた。
 「・・・水たまり。」
 ジェロニモが軽くあごをしゃくったそこへ、ハインリヒは、体を少し傾けた。
 枝の繁りが切れる辺りなのか、確かに小さな水たまりがあった。他に見える水たまりよりも小さく、降る雨に切れ目もなく表面を叩かれて、何となく憐れに見えなくもない。
 「顔、映る。」
 「何だって?」
 気がつくと、ひとつ傘の下、ジェロニモの背は明らかにはみ出して、それでもふたりの体は、何とかそこへ収まっていた。そうして、ジェロニモが指差した通りに顔と体の傾きを深くすると、確かに、その小さな水たまりに、ふたりの姿の一部が写し取られていた。
 ふたりが一緒にそこへ映るには、水たまりは小さ過ぎるし、雨脚の激しさのせいで、表面は常に叩かれて荒れていて、この雨が止んで陽が差せば、たちまち乾き上がって跡形もなくなるだろう、そんなはかなさばかりがハインリヒの頭の中に思い浮かんだ。
 そのはかなさが、どうしようもなくジェロニモにはいとおしいのだと、訊かなくてもわかる。だから、ハインリヒはジェロニモと同じように微笑んで、その水たまりを見つめた。
 「行こう。」
 雨は止む様子はなく、空は薄暗いままだった。この水たまりも、きっとしばらくはここにこうして在るだろう。
 雨が止んで陽が差せば、光を集めて、今度は樹の緑を映す。小さな動物がやって来て、この水を飲むのかもしれない。
 その連鎖には含まれないことを、少しだけ淋しく思いながら、ジェロニモに背を押されて、ハインリヒはギルモア邸に向かって歩き出した。
 ひとつだけの傘は、主にはハインリヒの方へ傾けられ、ふたりは傘の中で肩や腕をそっとぶつけ合いながら、森の道を、靴の先とズボンの裾をもっと濡らしながら歩く。
 ギルモア邸の裏庭へ着く頃には、ジェロニモの右肩と背中はぐっしょりと濡れ、ハインリヒの左肩も絞れるくらいに湿っていた。
 裏口へたどり着くまでに見掛けた大きな水たまりを、ふたりは顔を見合わせ、一緒に避けた。そのために近寄った肩が触れ合った一瞬、偶然のように重なった視線と一緒に、傘の陰で唇も重なった。
 雨音と雨粒と傘が、ふたりの姿と気配を隠して、足元の水たまりの、水滴に叩かれる水面にだけ、ふたりの繋がった輪郭が映る。映る端から、水滴がそれを揺らして乱す。

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