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桜の樹の下で

 サンドイッチはジェロニモが作り、コーヒーはハインリヒが淹れた。イワン用の荷物と一緒にまとめてバッグはハインリヒが抱え、イワンはジェロニモが抱いた。
 歩いて20分程度の公園へ行くのに、いわゆるおんぶひもも面倒だ──ジェロニモには窮屈な代物でもある──と、ただイワンを片腕に乗せて、乳母車と一体どっちが心地良いのか、イワンは文句も言わずにそうやってジェロニモの腕に揺られて、普段よりずっと高い目線の位置の辺りへ忙(せわ)しなく視線を走らせている。
 冬の終わりは過ぎ去っても、きちんと春と言う風にはなかなかならず、ようやくあたたかな日が数日続いた、雨の気配も遠い1日だった。
 花が満開だよとジョーが言い、フランソワーズを連れ出したのは昨日のことだ。
 日本人は春になるとやたらと外へ出掛けて、咲いた、あるいは咲き掛けた花を見ては喜ぶけれど、ハインリヒは何年日本で過ごそうとそう言った風流とやらを一向に解さずに、それでも頬を薄赤く染めてギルモア邸へ帰って来たフランソワーズを見て、イワンが頭の中でこぼした、
 ──ボクモ見タイナア。
と言うつぶやきをジェロニモが拾い、ハインリヒがそれに付き合うことにして、今日の外出の運びとなったと言うわけだ。
 イワンは、恐らくフランソワーズに抱かれて花を見上げたかったのだろうけれど、ジョーとふたりきりを邪魔するほど不粋ではなく、さすがに、それならジェロニモで我慢してやると言う態度も見せずに、意外に浮き立った様子で、あたたかな空気に交じる花の匂いを、細い首を回して追っていた。
 ──春ノ匂イダネ。
 珍しく、そんな言い方すらする。
 公園の中に入ると、辺りはすでに散った花びらに覆われ、それでも枝にはまだ満開の名残りがそっくりあり、花見に慣れた日本人ならこれを満開とはすでに呼ばないのかもしれなかったけれど、ジェロニモたちには十分な眺めだった。
 花の香りはかすかで、それでも豪華としか言いようのない景観に3人は一緒に同時に、別々に目を細め、しばらくの間その場で足を止めた。
 「見事だな。」
 やがてかすかな声でジェロニモが、誰へと言うわけでもなくつぶやき、それと同じ速度で降り落ちる花びらへ目を奪われていたハインリヒは、やっと我に返ったようにふたりへ視線を振り向ける。
 「坐れる場所を探そう。」
 荷物を抱えて、イワンを抱いて、体の大きな男がふたり、道を塞ぐようにいつまでも立ち止まっているわけには行かない。また爪先を、敷き詰められた花びらの上へ滑らせるようにして、肩を並べて歩き出す。
 「フランソワーズが喜んでたわけだな。」
 「ああ。」
 ちらほらと、路上にシートを敷いて花を眺めているグループがいる。あの通りにすればいいのかと、通り過ぎながらハインリヒは彼ら彼女らへちらりと視線を投げ、傍ら、自分たちが腰を下ろせる場所を素早く探していた。
 人の少ない方へ少ない方へ歩いてゆくと、北側いちばん奥へたどり着き、ビル群がすぐ傍の公園の端のせいもあってか、人気は他になく、ハインリヒはここでいいかと目顔で訊いて、荷物から取り出したシートを素早く敷く。
 木の幹を背にするようにさっさと坐って、ハインリヒはイワンのために、別に毛布を折りたたんで敷いてやった。
 イワンはそこへ下ろして寝かせられると、まるで普通の赤ん坊のように手足を宙でばたばたさせ、眼前に広がる桜の花びらの連なりと重なりに、前髪の奥で瞳を光らせた。
 「ミルクは飲むか?」
 ──イラナイ。
 桜から目を離さず、イワンがさっと答える。ジェロニモはちょっと肩をすくめ、ハインリヒの方へ向いて、コーヒーをくれと荷物の方へ軽くあごを振った。
 「花の時期にやるピクニックだな、ようするに。」
 花の美しさに目を奪われたことへの言い訳のように、持って来たコーヒーを魔法瓶からマグへ注ぎながらハインリヒが言う。
 花見と、わざわざ花を見に来たことを認めるのが少々悔しくて、あくまでイワンの付き添いだし、せいぜいが外でちょっと昼をでもと言うだけのことだと、素っ気なく言っているつもりの口調にそんな風に響かせて、ハインリヒは、隣りのジェロニモへ注いだコーヒーを差し出した。
 「アメリカで、何度か見た。でもこれは、少し違う、気がする。」
 色と花びらの薄さのせいで、重なりのそれほどぶ厚くは見えない桜の、それでも視界をいっぱいに覆う薄紅色を見つめて、ジェロニモがひとり言のようにつぶやく。
 儚さばかりの見掛けなのに、見つめていると、まるで酔ったように他のものは何も目に入らなくなる。それに、目の前をすべて覆われていると言うだけではなく、この世の、ありとあらゆる存在を忘れさせるような、強烈な魔力なようなものを感じて、ジェロニモはちょっと目を丸くしながら、一度ゆっくりと瞬きをした。
 ハインリヒも、結局は桜の花びらの連なりに視線を奪われ、そこから目を離せないまま自分の分をもうひとつのカップに注いで、軽く立ち上がるコーヒーの湯気越しに見える、桜のゆらめく輪郭を、恐ろしいほど美しい魔物のそれだと思った。
 日本の、湿気の多い空気のせいかどうか、それが一種のフィルターになって視界に作用するのかどうか、他の国の土地に植えられた同じ花とは違う、触れればそこから朽ちそうな儚さは増した分、妖気のようなものが幹や枝を覆い、これは確かに魅入られてしまうと、ハインリヒはコーヒーに口もつけずに考え続ける。
 その木の根元には死体が埋められているのだと、ジョーが言った。そんな話があると言われて、だからどうしたと思ったけれど、人間の生気と肉体の名残りを吸い上げてこのように育ったのだと言われたら、そうだろうと今ならうなずいてしまいそうに、こうして見上げる桜には、そのような妖しさが確かにあった。
 気がつくと、3人揃って黙ったまま桜を見上げ、イワンは空に向かって伸ばしていた手をいつの間にか胸元へ戻して、普段に似ない神妙さで、目の前の光景に視線を吸い寄せられている。
 ジェロニモは、鼻先へ立つコーヒーの香りにやっとわずかに我に返り、せっかくだから冷めてしまう前に飲もうとそれへ唇を寄せ、ハインリヒにもそう言おうと視線をそちらへ移した時、やや唇を開き気味にしているハインリヒの、桜の薄紅色が照り映えていつもよりも紅色の増した頬の線へ、今度はうっかり視線を奪われる羽目になった。
 桜の花よりも青みのある、今はごくごく淡い紫の陰の差した、彫刻のような造作の線。誰かが情熱をこめてひと彫りひと彫りしてそこに導き出したに違いない、自然ではあるけれど、天然ではない、その線。
 それが人工皮膚に覆われた金属や強化プラスティックの組み合わせの妙によるものだとは、いつもよりさらに信じられずに、ジェロニモはそのまま、桜に見入るハインリヒの横顔へ見入る。
 改造される前、生身の頃もこんな線と色合いだったのだろうかと、想像の中でしか出会うことのできない以前のハインリヒを、ジェロニモは人工脳の中へ手繰り寄せる。
 人に手入れをされながら、それでも自然に咲き誇る桜の下で、何もかもが人工物のサイボーグの自分たちだったけれど、美しいものはあくまでただ美しいのだと、ジェロニモは視界の中に、ハインリヒと桜を一緒に収めて、改めて思った。
 自分の花見は、桜を眺めるハインリヒを眺めることだと、らしくもないことを考えて、ふと降り落ちて来た桜の花びらがハインリヒの目の前から横顔を横切ったその軌跡にやっと現実に引き戻され、自分の手元へ視線を落としたハインリヒと一緒に、ジェロニモは思わず目を合わせて笑い合った。
 ふたりのかすかに立てた笑い声と、鼻先へ落ちて来た花びらに応えて、イワンがまた空中へ掌を伸ばす。
 ──キレイダネ。
 綺麗と言う言葉は、これを表すには少し足りないとハインリヒは思って、けれど口にはせずにすでにぬるくなりかけたコーヒーへ口をつけ、不意に吹いた風に舞う花びらの行方を地面まで追ってから、その下に埋まる自分たちの姿を想像した。
 樹の養分にはなれない、けれど四方に伸びるその根に絡まれて、地の下でいずれ樹と一体化する、自分たちの朽ちた体。泥と交じる錆びた金属。人知れず、桜の樹の一部になる、自分たち。
 降り落ちる花びらのひとつびとつが自分たちなのだと、唐突に思いついて、ハインリヒは思わず目の前に右手を伸ばした。
 眺めていると、確かに気がおかしくなりそうだった。
 元へ戻した右手へ、そっとジェロニモが自分の手を伸ばして来る。イワンには見えないだろう、重なった指先をそのまま、ふたりは同じ角度でまた桜を見上げる。
 おまえさんとなら、ここに一緒に埋まってもいい。
 ハインリヒが思った同じことを、ジェロニモも同時に思ったのだと、知っているのは、舞う花びらを指先にやわやわとつまみ取ったイワンだけだった。

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