We'll Be Together



 今夜は出掛けるから、夕食を取らずに待っていてくれと、ジェロニモが出がけに言った。
 ハインリヒは起きたばかりでまだパジャマのまま、ジェロニモが朝の挨拶の代わりに差し出してくれた紅茶のマグを両手で持って、3度目のあくびを噛み殺したところだった。
 「一緒にか?」
 まだどこか寝ぼけた声でそう訊くと、ジェロニモが薄く苦笑を吐いて、ゆったりとうなずく。
 夏の暑さはすっかりやわらいでいて、早朝は、どうかすると肌寒い。ハインリヒは熱い紅茶に唇を寄せながら、少しの間肩を震わせた。
 「どこに行くんだ。」
 もう外へ出ようと、ドアのノブに手を掛けているジェロニモに、ハインリヒはまだ食い下がる。ジェロニモはまた薄く笑って、けれど答えずに、肩を小さくすくめて見せた。
 「もう行く。まだ早い。ベッド戻る。」
 まだ薄暗い外へ出ながら、ジェロニモが、ハインリヒの使っている部屋のドアを指差した。
 「ああ、おまえさんには悪いが、そうさせてもらう。」
 ずずっと音を立てて紅茶をすすって、笑って手を振ったジェロニモに手を振り返し、寒さに肩を縮めて、玄関の外へ出てジェロニモを見送る。
 ジェロニモのトラックが、ほとんど音もさせずに、舗装されていない道路を去ってゆく。それに向かってまた手を振って、ハインリヒは、まだ暖かいはずのベッドへ戻るために、くるりと肩を回した。


 夕方、ジェロニモは珍しく早目に帰って来て、ゆっくりとお茶だけをすませた後で、空腹をなだめるように胃の辺りを撫でながら、ふたりはトラックに乗り込んだ。
 居留地からは出て行く方向へ走り、まだジェロニモは、一体どこへ行くとも、ハインリヒには言わない。ハインリヒも、もう問うのをやめて、まだ充分に明るい、けれど陽射しの弱まった窓の外を眺めている。
 ハインリヒに、この辺りを見せようというつもりか、今まで通ったことのない道を通って、いつもよりも長い時間を掛けてたどり着いたのは、けれどメイヤー教授を訪ねる時にいつも通る、ダウンタウンの、特に雑然とした中心部だった。
 歩けばそれなりの広さはあるのだろうけれど、実際に数えれば、ダウンタウンの一部と数えられるのは、端から端まで歩いて10分程度の長さの道が4本ほどだ。どの道も、小さな---けれど派手な---店や、レストランや、そして様々な職種のオフィスがひしめき合い、仕事の終わったこの時間には、もう酒を飲むためか、少しばかり崩れた服装をした男や女たちが、数人で固まって、大きな声で話をしている。
 ジェロニモは、小道を曲がって裏通りへ入ると、舗装もされていない小さな駐車場に、ようやくトラックを停めた。
 夜には明かりもなくなりそうな、すでにいかがわしい雰囲気の場所だった。
 たった今トラックで来た道を戻って、目当てらしい店の前へゆく。ドアの傍には、化粧の濃い、年のわからない女が煙草を吸いながら立っていて、中へ入るふたりを、じろりと上から下まで眺めた。
 ハインリヒは、女の態度にほんの少し鼻白んで、さらに奥のドアを開けているジェロニモの背中を、無言で追った。
 すでに薄暗い店の中は、煙草の匂いに満ちていて、ドアに近いテーブルはすでに5割方埋まり---とは言え、客は、ひとりでテーブルをひとつ占領しているのがほとんどだ---、すぐ傍のカウンターも、中のバーテンダーがすぐには見えない程度には埋まっていて、そして店の中心には、ビリヤード台が2台、縦列に据えられている。
 もう誰かが、ゲームを始めていて、ビールを片手に楽しげな声を立てている。
 奥に広いその店は、薄暗さのせいか、ひどく猥雑な感じがして、ジェロニモが入るような店とも思えず、ハインリヒはうっそりと肩をすくめて、居心地の悪さをこっそりと表した。
 ドアの近くとカウンターにいるのは白人ばかりで、奥にいるのは、メキシコ系か、あるいはジェロニモと同じ出自かと思う顔立ちばかりだ。
 店の雰囲気にふさわしく、貧しさの隠しようもない人間ばかりがいる。けれど、誰もジェロニモとハインリヒの組み合わせを、じろじろ見たりもしない。一瞥をくれても、関心もなさそうに、ビールのジョッキへ視線を戻してしまう。
 ジェロニモは、ゆっくりと奥へ向かい、ビリヤードの邪魔にならないように壁際を歩くのに、ハインリヒもならった。ゲームに夢中な連中は、ジェロニモと顔立ちは似ていても、互いに知り合いというわけではないのか、視線を交わすこともしない。
 久しぶりにかぐ煙草の匂いに、ハインリヒは思わずむせそうになった。
 ビリヤード台を過ぎて、その一番奥には、押すだけで開くドアがあって、それが調理場への入り口だとわかって、足を止めかけたハインリヒを促して、ジェロニモは、わずかに頭をかがめて、先に進んでゆく。
 店の中の冷房に、わずかの間に慣れてしまった頬を、火を使うせいの熱気が撫でて行った。
 「ジェロニモ!」
 大きくて長い調理台が、厨房を中央でふたつに区切り、片方には業務用の調理器具が並び、片方には食器やスプーンが置かれて、正面には、ジェロニモが3人くらいは入れそうな冷蔵庫があった。その冷蔵庫の前にいた男が、ジェロニモに向かって叫んだ。
 「どこに隠れてやがったこの野郎!」
 乱暴な言い方には、けれど親愛の情があふれていて、ジェロニモの背中からちょっと顔を出して覗けば、小柄というほどではないけれど、あまり背の高くはない、けれど胸も腰も肩もぶ厚い、眼鏡をかけた男が、両手を開いてこちらへやって来る。男はハインリヒを見つけて、ちょっと驚いたようにあごを引いた。
 「おめーの友達か?」
 ハインリヒを振り返って、ジェロニモが、ほんの少し照れくさそうにうなずく。ジェロニモがそう言った途端に、男の顔に、満面の笑みが浮かんだ。
 「アンタか! ジェロニモが今度連れてくるって言ってやがって、オレの方が国に帰っちまって、アンタに会えねえんじゃねえかって心配してたんだ!」
 調理場は、換気扇や冷房の音がうるさく、けれどそれに負けず男の声は大きい。英語のアクセントで、ヨーロッパのどこかの出だとわかり、ハインリヒは、男が親しげに差し出す手を、気にしながら右手で握った。
 男は、ハインリヒの右手が、普通ではないことに気がつかないのか、気がついてはいても言わないのが礼儀と心得ているのか、いっぱいに浮かべた笑みをまるきり変えずに、そのままハインリヒを抱きしめたそうな素振りさえ見せる。
 「メシはまだだな? いつものか?」
 ジェロニモを見上げて男が訊いた。ジェロニモは腹を撫でて見せながらうなずいて、そうしてまた男が、ひどくうれしそうに笑う。
 「ならあっちで待ってろ。すぐ取り掛かるから。」
 ジェロニモの肩をばんばんと叩いて、男はふたりを追い払うように、ドアの方へ手を払った。
 ハインリヒは、また冷蔵庫の方へ肩を回そうとした男に軽く右手を上げて、今度は先にドアへ向かう。店の中へ戻ってから、やっとジェロニモを振り返った。
 「ここには、よく来るのか。」
 やって来た時とは逆に、四角い小さなテーブルが並んだ方へ行って、ジェロニモに促されて、空いた椅子へ腰を下ろす。
 「たまに来る。」
 短く答えてから、ジェロニモは、ハインリヒの顔の前から腕を伸ばして、たった今出て来た調理場の方を指差した。
 「ジミー、ここに誰が来ても気にしない。」
 どうやら、さっきの騒がしい男の名らしいと察しをつけて、うなずいて見せた。
 こんな店で、客の選り好みもできるはずもないけれど、居心地が悪いと思えば自然と来なくもなるのだろう。明らかにジェロニモと同じ顔立ちの連中を眺めて、そうして、入り口に近い辺りにたむろっている客たちを眺めて、ハインリヒは、少しの間黙り込んだ。
 あまり馴染みがあるわけではないけれど、どうやら入り口に立っていた目つきの悪いあの女は、この辺りを縄張りにしている売春婦だろうと見当をつける。入り口にいちばん近いテーブルで、ひとりだらしなく足を投げ出している若い男は、落ち着きのないその目つきで、妙な薬の常習者らしいと知れる。となれば、薬の売人も出入りしているのだろうし、客の半分くらいはアル中かもしれない。
 何とも素晴らしい、場末というのを絵に描いたような場所だ。ハインリヒひとりなら、足を踏み入れた途端に回り右する。ここがジェロニモのお気に入りの場所らしいということに、奇妙な感じを抱きながら、けれどあのジミーという男の、屈託のない無邪気とも言える笑顔を思い出して、そこに、あのメイヤー教授の、穏やかな笑みが重なった。
 「ようっ!」
 頭をバンダナに包んだ、派手なシャツの裾をひらひらさせた男が、気取った足取りでこちらへやって来る。
 「ごぶさたーぁ。」
 ジェロニモの前に置いたカップにはコーヒーが満たされていて、やけににこやかに笑う男の目には、けれど皮肉っぽい色があった。
 きれいに、変わった形に唇の回りを覆うように整えられたひげが、彼を年齢不詳に見せて、やや甲高くしゃべるその口調は、同性愛者の男を思わせた。シャツから覗く男の、思いのほか太い腕は、両方とも刺青だらけだ。良く見れば、右の目元には、涙の形の刺青を入れている。ハインリヒは、戸惑いを隠せずに男を斜めに見上げて、
 「あんたはビール?」
と訊かれたのに、ジェロニモのコーヒーをちらりと見てから、
 「いや、俺にもコーヒーを。」
と、普通の口調で答えるのが精一杯だった。
 アメリカのビールは口に合わない。よく知らないところで酒を飲むのは、少々不安だった。
 男は、ハインリヒが酒を頼まないのを気にした様子もなく、また気取った歩き方でカウンターへ戻ってゆく。なるほど、あれがこの店のバーテンダーなのか。ジミーという男の懐の深さは、ますます持って計りがたい。
 カウンターをよく見れば、肌の色はやや白いが、もうひとりいるバーテンダーは、どう見ても中近東系の顔立ちだ。
 「ジミーっていうのは、一体どこから来たんだ。」
 自分のコーヒーをハインリヒの方へ押しやりながら、ジェロニモが、
 「ギリシャ。」
と短く答えた。
 ダンケと、コーヒーに礼を言って---断るだけ野暮だ---、ハインリヒは音を立てずに、久しぶりのアメリカのコーヒーをすする。思ったよりも香りも味もよくて、少しばかり眉を上げてから、もう一口、ゆっくりとすすった。
 「この間、15年ぶりに国に帰った。1ヶ月、いなかった。みんな、ジミー待ってた。」
 ジェロニモの、どこかしみじみとした口調に、ハインリヒは改めて店の中を見渡して、少し背中を伸ばすと、きしむ椅子に寄りかかる。
 さっきのバーテンダーの男が、もうひとつコーヒーを運んで来た。
 その男に向かって、ビリヤード台から声が掛かる。
 「スコット! もちっとしたらおれを勝負しろよ! この間の雪辱戦だ。」
 「おーおー威勢の良いこと。いくらでも付き合うぜぇ。」
 男がキューを天井近くに振り上げて見せるのに、ひらひらと手を振って答えて、スコットと呼ばれたバーテンダーは、ちょっと気持ち悪くしなを作る。
 「ブッチ! アンタの番! さっさと打ってよ!」
 スコットに声を掛けた男は、ブッチというらしい。ひょろりと背の高い、ネイティブらしい顔立ちと、ジェロニモと同じような肌の色が、けれど不健康に見えるのは、前歯のごっそり欠けている、やけに締まりのない笑みのせいなのか。
 ブッチと一緒に玉を突いているのは、丸々と太った、これも目の下の黒ずんだ白人の女だ。金髪は明らかに染めたもので、ふたりのテーブルには、すでに3、4本、空らしいビールのビンが乗っている。
 キューを構えるブッチの手つきがどこか妙で、ハインリヒは思わずそれに目を凝らす。キューを握った右手の中指が伸びたままだと気がついて、ジェロニモの方を見た。
 「・・・昔のケンカの傷。」
 ハインリヒの視線の先に気がついていたのか、ジェロニモは、これも短く素っ気なく教えてくれる。
 きちんと治療をしなかったのか、それとも受けられなかったのか。ブッチもまた、ジェロニモと同じような立場なのだろうと思って、ハインリヒは、少し口元を引き締める。
 もうひとつ空いているビリヤード台に、後ろ髪の長い、ひげ面の男がやって来た。
 「ジョニーはまだ来てないのか。」
 髪の長い男は、今まさにボールを狙っているブッチと、相手の女に、どちらともなく訊いた。
 「知らねえ、今日はまだ見ねえな。」
 ブッチが、ボールを狙った姿勢のまま答える。女は首をすくめて、
 「そのうち来るでしょ、まだ早いし。何ならあたしが相手するわよ。」
 「おまえさんが相手って、そいつは無理だな。」
 ブッチが、見事にボールを狙った穴に落として、キューの先にチョークを押し付けながらにやにや笑う。
 ちょっと怒ったように振り向いた女が、ブッチに向かって何か言うよりも先に、髪の長い男が、
 「おれの相手はおまえだって無理じゃないかブッチ。」
 男の英語は、今までここで聞いたうちではいちばんまともだったけれど、口調がすでに喧嘩腰で、案の定ブッチは、男を挑発するように、曲がらない中指を突き出しながら、
 「この間このおれさまがオメーをこてんぱんにやっつけたのを、もう忘れちまったのか。」
 明らかに半ば酔っ払っているブッチに、男の態度も大人気なかったけれど、何やらビリヤードに関してはひどく真剣らしい彼は、大きな歩幅で女の前を横切り、ブッチにつかみかかろうとする。
 一体どうなるんだと、ちょっと目を剥いたハインリヒの隣りで、ジェロニモが小さく苦笑をこぼしている。
 その時、調理場のドアが大きく開いて、ジミーが両手に皿を乗せて、店の中に出て来た。
 「何してやがるッ!」
 ビリヤード台の傍で一発触発らしい男ふたりを一喝しておいて---店中が震えるような声だった---、ジミーは足早にジェロニモたちのテーブルに来ると、皿を置いて両手を空にしてから、
 「下らねえことで、いちいち騒いでるんじゃねえ! ここをどこだと思ってやがる、オレの店だぞオレの。」
 ふたりの間に割って入ろうと身構えていた太った女は、ジミーが姿を現した途端に一歩後ろに下がり、その代わりのようにジミーがふたりの男---ふたりとも、ジミーよりも背が高い---の間に割って入り、長髪男の方を押して、カウンターの方へ行かせようとする。
 「相手が欲しけりゃ、オレがいくらでもしてやるから、このアホゥなインディアン野郎なんざ放っとけ!」
 長髪ひげ面男は、不満げに唇をとがらせていたけれど、素直にジミーの言葉に従って、肩をいからせてカウンターの方へ行った。その時、男の左手が、指先が変な方向へ曲がり、その先が3本しかないことに気がついて、ハインリヒは、見てはいけないものを見てしまったように、慌ててそこから目をそらした。
 それからジミーはブッチの方へ振り返り、
 「このクソッタレのインディアン野郎! オレの店で騒ぎを起こすなって何べん言やあわかるんだ! 今度こそこのキューでてめーの、そのスポンジ頭を叩き割ってやる!」
 訛りはあるけれど、見事な罵詈雑言だ。ジェットでもこうは行かない。ハインリヒは絶句して、妙なところに感心していた。
 「何でもアンタのお好きなようにジミー。そうなったら、誰が毎日調理場きれいにするってんだよ。」
 「やかましい、てめーは自分の部屋に閉じこもって、政府の給付金でも数えてりゃいいんだ。」
 「けっ、おれらの土地を取り上げた連中が、きれいに口拭って、あれっぽっちの金でおれたち黙らそうなんて、ひでえ話じゃねえか。」
 「オレの知ったことじゃねえ! オレがこの国に来たのは、てめーが生まれた後の話だ、てめーが生まれる前のことなんざ知ったことか! オレの払った税金で政府から金もらってここで飲んだくれてるてめーが、でかい口叩くんじゃねえッ!」
 こちらの方が深刻な言い争いになり始めた途端、まるでタイミングを計ったように、さっきのスコットが、ショットグラスをふたつ手に、くねくねとやって来る。
 「ふたりとも、どうせビリヤードじゃ俺にかなわないんだから、黙って飲んでおとなしくしてなって。」
 「なんだとっ!」
 今度はふたりが同時に、スコットに向かっていきり立つ。スコットは、ふたりの怒りなどどこ吹く風で受け流し、あの、人を小馬鹿にしたような笑みのまま、ショットグラスを押し付けるようにふたりに差し出した。
 「俺のお・ご・り、これでこの間の賭けに負けた分はチャラにしてやるよ、おふたりさん。」
 酒を渡されて、ようやく静かになったふたりは、同時に唇を舌先で湿してから、ショットグラスの中身を一気にあおる。一体中身は何なのか、空になったグラスの前で、ふたりともぶるぶると頭を振って、スコットはまだにやにや笑いを消さずに、ふたりからグラスを取り上げると、カウンターの方へ戻ろうと肩を回す。そうしながら、ついでのようにジェロニモとハインリヒの方へ顔を向けて、まるで心配するなとでも言うように、片目をつぶって見せる。
 面食らって、ハインリヒは、思わず肩を後ろに引いた。
 ジミーは、何か小声で言ってからブッチの薄い肩を叩き、太った女の方にも声を掛けて、女が軽く声を立てて笑ったのに手を振り、それから、後ろ頭を撫でながら、ジェロニモとハインリヒのテーブルへやって来た。
 「今次のが来るから・・・遅くなって悪かったな。」
 照れ隠しの笑み浮かべて、詫びるように言うと、肩をすくめたジェロニモに笑いかけてから、ジミーはまた足早に調理場へ戻って行った。
 「・・・ずいぶんと、騒がしいことだな。」
 やや呆れたように言うハインリヒに、特に言い訳もせずに、ああそうだなと言うようにうなずいて、ジェロニモが紙ナプキンに巻かれたフォークを取り出す。
 目の前に置かれたのがサラダだとようやく気がつく余裕ができて、ハインリヒも、フォークを取り上げた。
 白い、砕いたフェタチーズのたっぷり乗ったサラダだ。輪切りにしたオリーブと、四角く小さく切ったトマトの色合いがとてもきれいで、同じ皿のすみに置かれた、三角形に切り分けられたピタブレッド---薄く焼いた小麦粉のパン---には、ガーリックバターが塗られているのか、香ばしい匂いがする。
 まずはサラダを一口味わって、シンプルな、けれど深みのあるドレッシングの香りに、ちょっとだけ驚く。
 「うまい・・・。」
 たかがサラダだ。けれど、これは確かに美味い。
 どこか、とても高級なレストランに来たような錯覚に陥ってから、ハインリヒは慌てて、薄暗い猥雑な店の中を見回した。
 酒の匂いと煙草の匂いと、やや下品に声高にしゃべる客たちと、店の奥には絶対に入って来ない、怪しげな風情の連中と、ここは確かに、あのジミーとやらいう男の店だ。
 ピタもうまかった。かすかに舌に乗る甘味と、バターの塩味と、にんにくの香ばしさが秀逸で、もう1枚丸々、別に注文したいくらいだった。
 張大人の料理も絶品だけれど、ジミーのサラダは、何と言うのか、どこか懐かしさを感じさせてくれて、それはきっと、ジミーがギリシャ---ヨーロッパ---から来たということと、何か関係があるのだろう。
 ハインリヒは、またたく間にサラダを空にした。
 ジミーが、調理場のドアを派手に開けて、また別の皿を持ってくる。これには大きなハンバーガーが乗って、一緒にフライドポテトもついて来た。きれいに空になったサラダの皿を下げながら、ジミーがうれしそうに、ハインリヒに向かって、
 「どうだ?」
と訊く。
 「ああ、うまかった。」
 ハインリヒは、素直に答えた。
 こんなふうに、人から親しげな態度を見せられることが滅多となく、自分も打ち解けることはないハインリヒは、この店に、今日、1時間ほど前に初めてやって来たばかりだということが信じられず、ジミーが立ち去るのも待たずに、ハンバーガーに手を伸ばす。
 カリカリに焼いたベーコンが2枚、ふっくらとしたパンの間に挟まっている肉はぶ厚くて、テーブルに置かれたマスタードとケチャップを、心持ち少なめに塗ると、ハインリヒはいつもの慎みも忘れて、よく焼けた肉にかぶりついた。
 やや薄めのトマトの輪切りの酸味が、肉の香ばしさを邪魔せずに、口いっぱいに広がる。どんなスパイスがどれだけ入っているのか、マクドナルドを忌み嫌うハインリヒは、その肉の美味さに一瞬口の動きを止めた。
 ジェロニモは、顔の前にハンバーガーを持ち上げて、ハインリヒよりもよほど礼儀正しく、ゆっくりとジミーの作ったそれを味わっている。
 ハインリヒは、ようやく落ち着いて、少しゆっくり口を動かし始めた。
 「驚いたな、こんなところで、こんな旨い肉が食えるとは思わなかった。」
 「感謝祭とクリスマスと新年、ここでいつもパーティーがある、外まで人が並ぶ。」
 「そうだろうな。俺もまた来たいくらいだ。」
 うっかり本音を漏らすと、ジェロニモがとてもきれいに笑って、
 「・・・またいつでも来る。ジミー、いつもここにいる。」
 ハインリヒだけにではなく、まるで自分自身に言っているような口調で、そう言った。
 あまりしゃべることもせず、ジミーの料理を味わっていると、突然いかがわしい雰囲気を破るように、身なりの良い東洋人の若い女---少女と言っても通用しそうな---が、大きなカバンを背負って、カウンターの方へ手を振りながら入ってきた。
 物怖じもしない態度で、ビリヤード台のふたりにもにこやかに手を振り、調理場のドアにいちばん近い奥のテーブルに腰を下ろすと、大きなカバンからぶ厚い本やノートを取り出して、長い真っ直ぐな髪を首の後ろで手早くまとめて、これもカバンから取り出した眼鏡を掛ける。
 ここが、まるで図書館かどこかのように、少女---に見えるけれど、酒を飲む場所への出入りは、成人していなければ許されない---は本とノートを開いて、そこにペンを走らせ始めた。
 スコットが、彼女のテーブルにコーヒーらしきカップを運んで、何か一言二言話しかけたけれど、彼女は礼儀正しくスコットに笑顔を返して、ありがとうと言ったきり、また本の方へ目を伏せる。
 こんな場所で勉強しているらしい東洋人の少女を、店の客の誰もじろじろ眺めたりしないということは、彼女はここの常連で、いつもここを勉強部屋にしているということなのか。
 確かに、似たようなことは、ハインリヒにも覚えがあった。けれどそれは、たいてい静かなカフェだったり、もう少し雰囲気の良い、学生のよく集まるバーだったり、少なくとも、売春婦が入り口に立っているような場所でなかったことだけは確かだ。
 ハンバーガーの美味さを忘れかけて、ハインリヒはその少女に目を凝らした。
 調理場から空手で出て来たジミーが、勉強中の少女に目を止めた途端、子どものような笑みを浮かべて、テーブルへ近寄る。ジミーの気配に顔を上げた彼女も、ジミーに同じような笑顔で応えて、ふたりは親しげな様子で言葉を交わしていた。ジミーは、ばんばんと、骨を折りそうな強さで彼女の背中を叩き、わざわざ手を振ってテーブルを離れる。彼女もジミーに手を振って、また自分の手元に視線を戻した。
 その間、ハインリヒは、呆気に取られてふたりのそのやり取りを眺めていた。
 「・・・まさか、メイヤー教授はここの常連じゃあないんだろう・・・?」
 確信が持てずに、声が少し小さくなる。
 「ここでは会ったこと、ない。」
 ジェロニモの答えは、ハインリヒが今必要としているものとしては完璧ではなかったけれど、それでも、ハインリヒを少し落ち着かせてくれた。
 やっと、三分の一ほどに減ったハンバーガーに、また改めてかぶりつく余裕が出て来た。


 滅多とそんな行儀の悪いことはしないのだけれど、食べ終わった後で、汚れた指先を、ナプキンで拭く前に舐めることにした。ジェロニモがそうしていたので、それにならったつもりだった。
 そんな仕草がしっくり来るほど、ほんとうにうまいハンバーガーだった。
 そうしている間に、ビリヤード台は2台とも埋まり、周りにたむろってゲームを眺めている連中も含めて、店の中はずいぶんと騒がしくなっていた。
 ジミーは、時々調理場へ入り、皿を手にまた姿を現す。ここのハンバーガーのファンなのは、ジェロニモ---と今ではハインリヒ---だけではないようだ。
 ビリヤードは、どうやら勝ち抜き戦で、勝った人間に、次の誰かが新たに勝負を挑む形で続いているらしい。ブッチのキューさばきは、見てくれと口先だけではなくて、もうずっと勝ち続けのようだった。
 長髪男は、もう1台の方で勝ち抜き続けている。
 さっきの、ブッチとの一髪触発など忘れたように、テーブル越しに、互いのミスを笑い合ったりしている。
 勉強中の少女は、店の中の騒ぎも気にならないように、ノートに何やら、一心不乱に書き取っている。
 2杯目のコーヒー---刺青だらけのスコットが、にこやかについでくれた---を目の前に、ハインリヒは、退屈もせずに店の中を眺めていた。
 そのうち、ジミーがカウンターに入ったのと入れ替わりに、スコットがビリヤード台まで出て来て、ブッチとゲームを始めた。
 一体何が起こったのか、途端に台の周りの男たちの目の色が変わる。ジェロニモを見ると、胸の前に腕を組んで、これも少し真剣な目つきで、スコットの方を見ている。
 水を打ったようにと行くわけもないけれど、それでもずいぶんとおさまった喧騒の中でスコットがキューを構えた途端に、ハインリヒはその理由を悟った。
 素人目にもわかる見事な構えと、そして流れるような動きで、スコットが軽々と最初のショットを決めて、その後は8(エイト)ボールを落とすまで、結局ブッチには一度も玉を突くチャンスはなく、そのゲームはほんとうに数分で終わってしまった。
 この店に来る連中の何割かは、おそらくスコットの、この腕前を見にやって来るのだろう。
 欠けた前歯を剥き出しにして悔しがるブッチを笑い飛ばして、さっきまでのにやけた風情はどこへ置いてきたのか、やけに背筋の伸びたスコットが、カウンターの後ろから、どうやら自分のものらしい、重そうな革のキューケースを持って来る。
 ジッと音を立ててジッパーを開くと、中にはざらりと、数本のキューが見えた。
 台の周りにいる男たちは、息を飲んで、スコットと、スコットのキューを見つめている。
 ハインリヒも、うっかり、スコットを見つめていた。
 次も、それなりに腕自慢の男だったのだろうけれど、1度も打つ番のないまま、ゲームは終わってしまった。
 一体どういう仕掛けなのか---もちろん、原理くらいはわかるけれど---、スコットの打つ玉は、自由自在にテーブルの上を転がり、跳ね、飛び、まるで曲芸でも仕込まれているかのように、狙った玉を突いて、狙った穴に落とす。たとえ打つ玉と、落とす玉の間に、余計な玉が3つあろうと、スコットはそれをすべてよけて、きちんと目的を果たす。ほんとうに、見事なショーのようだ。
 「この男は、プロなのか?」
 ハインリヒが、ゲームの邪魔にはならないように、こっそりとスコットを指差して、ジェロニモに耳打ちする近さで訊く。
 ジェロニモはかすかに首を振って、
 「違う。でも似たようなもの。」
 年齢も人種も体つきも様々な男たち---女たちは、そんな男たちに、熱っぽい視線を送っている---が、肩をいからせて、自分の番を待っている。その誰にも平等に、スコットは容赦がない。中には、無謀としか思えない腕の連中もちらほらいたけれど、その誰に対しても、スコットは手を抜かずに相手をして、甘いところなど一筋も見せなかった。それを、とても正しいことだと、ハインリヒは心の中で思って、何となく神経に障ると思っていたスコットへの印象を、いつの間にか改めてしまっている。
 ジェロニモが、この奇妙な場末のバーを気に入っている理由が、何となくわかったような気がして、スコットのキューさばきを、それなりに熱心に見ているジェロニモの横顔を盗み見てから、ハインリヒは何となく、今ここで酒を飲みたいと、ふと思った。
 スコットのせいで、空になってしまったもうひとつのビリヤード台で、さっきの太った顔色の悪い白人の女が、ゲームの準備を始める。
 いつの間にか、本やノートを片付けてしまっていた東洋人の少女が、本に向かっていた時と同じほど真剣な表情で、壁に並べてあるキューを選んでいた。
 バーというよりも、まるでビリヤードホールだ。しかも腕自慢の、賭けの大好きな連中の集まる、常連だと言うにははばかりのある、そんな場所のようだ。
 白人の女は、時々鋭く玉を打つけれど、上手いというほどの腕ではなく、東洋人の少女の方は、丈の短い体を大きな台の上に必死に伸ばして、ゆっくりと、けれど確実に狙った玉を落としてゆく。面白い組み合わせだと、これもスコットのショットの合間に、ハインリヒは眺めて楽しんでいる。
 それぞれの3杯目のコーヒーは、ハインリヒが、カウンターまでお代わりを取りに行った。
 そうして、まるで何かのショーのクライマックスのように、今度はジミーの登場だ。
 店の天井は、煙草の煙で白くなり、空のビール瓶がテーブルに並び、誰もがスコットに喝采を送っている、そんな中に、ジミーが、ぶ厚い胸を張って、堂々と割り込んでくる。
 誰もがスコットと対戦したいと順番を待っている間、割り込みはつかみ合いの喧嘩にもなりそうだけれど、ジミーだけは特例なのか、誰も文句を言うどころか、固唾を飲んで事の成り行きを見守っている。
 ジミーがにやりと笑って、それをにやりと笑ってスコットが受け、ジミーが、ビリヤード台の端を掌でばんと叩いた。浮かせた掌の下からは、20ドル紙幣が現れた。
 途端に、店中から歓声が上がる。ボクシングの試合か何かのようだ。
 ハインリヒも、熱気に飲まれていた。
 スコットが、きれいに慎重に三角形に並べられた玉を打ち、ばらばらと崩れた玉は、それぞれの方向へ転がって、ひとつやふたつは穴へ落ちるのだけれど、今は崩れて台の上にむやみに広がっただけだ。スコットが、ちょっとだけ細い眉を上げた。
 ジミーが、うきうきとした足取りで台へ近づき、誰かから取り上げたキューを構えながら、初めて見せる真剣な目つきで、玉の並びを検分する。
 ゲームの先行きを眺める誰も、言葉を発しない。
 ようやく、ジミーが最初のショットを決めた。それを眺めるスコットの表情も、初めて固い。
 ハインリヒは、いつの間にかテーブルの上に両手を組んで、体を前に乗り出していた。
 ゆっくりとジミーが構えて、鋭く玉を打つ。空気を裂くように、台の上を玉が滑り、かたんと音を立てて、穴へ落ちる。思わず誰かが手を叩いた。
 6つ目まで、順調に自分の玉を打っていたジミーが、ついにミスをして、7つ目を穴に落とし損ねた。途端に、スコットが満面の笑みを浮かべる。まるで、耳まで裂けているように見えたその笑顔に、ハインリヒはちょっと驚いて、たかが玉突きに、何をこんなに真剣になっているんだと、自分を戒めようとしたけれど、スコットがキューを構えた瞬間に、そんなことはころりと忘れてしまった。
 スコットは、人を食ったような笑みを消さないまま、また素晴らしいキューさばきで玉を自在に操り、8ボールのひとつ前の玉では、台の縁を3度経由させた後で目当ての玉に当てさせ、そしてもちろん、その玉は狙った穴に当然落ちる、という見事な技を見せて、店中を熱狂の嵐に叩き込んだ。
 偶然のように、その途中で8ボールは穴の真ん前に転がり、仕事を終えた白い玉は、8ボールと穴の直線上、20cmほどのところで、ぴたりと止まる。もちろん、偶然ではない。スコットはそうなるように、ひとつ前の玉を打ったのだ。
 あまりの見事さに、ハインリヒは言葉を失っていた。
 あのへらへら笑いを浮かべて、スコットはかつんと8ボールを軽く打って、きちんと穴に落とした。ゲームオーバーだ。
 ジミーはさっきの20ドル紙幣をスコットの掌に叩きつけ、
 「この刺青のロクでなし野郎ッ! てめぇには先に生まれた人間に対する敬意ってもんはねえのか!」
 「ないねぇ、この俺より、ビリヤードが上手いかどうか、それだけだねぇ。」
 どうやら、いつものやり取りらしい。誰もふたりを止めようとはしない。へらへら笑うスコットに賭けの金を渡したジミーが、スコットの肩を突き飛ばして、けれど目と口元が笑っている。
 ジミーがカウンターの方へ戻ってゆくのを見ると、自分の番をジミーに譲ったらしい男が、早速台に玉を並べ始めた。
 また、喧騒が戻ってくる。
 ふたりのゲームをあまり真剣に見すぎて、少し疲れたと思ったハインリヒは、その間話しかけもせずに放っておいた隣りのジェロニモのことを思い出して、やっとそちらに顔を向ける。
 「毎晩、こんななのか。」
 「・・・多分。」
 「おまえさんはやらないのか。」
 ちょっと照れたように笑って、ジェロニモが肩をすくめる。
 「今度、俺とやらないか。」
 ハインリヒがそう言うと、ジェロニモがちょっと意外そうな表情を浮かべて、けれど数瞬後で、ああとうなずいた。


 いい加減仕事に戻るべきだと思ったのかどうか、スコットがキューを片付けてカウンターへ戻ったのをしおに、ふたりもやっとテーブルから立ち上がった。
 まだそれほど遅くはなかったけれど、朝の早いジェロニモは、普段ならそろそろベッドへ入る時間だ。
 店に来た時よりもずっとなごんだ表情で、ハインリヒは一度店の中を見回し、見える顔ひとつびとつに、心の中でお休みと言った。
 カウンターを通り過ぎながら、スコットに、ふたり揃って軽く手を振り、同じようにそこにいたジミーに声を掛けようとするよりも早く、ジミーが驚いた顔で、慌てたようにカウンターの外へ出てくる。
 「なんだ、もう帰っちまうのか。」
 「朝が早いんでね。」
 ジェロニモの代わりに、ハインリヒが、砕けた口調でジミーに返した。
 「おい、スコット! いつものヤツだ! みっつ。」
 ハインリヒの上着の袖を今にも引っ張りそうに、引き止める仕草のままジミーが、カウンターの中のスコットに首をねじって、大声で怒鳴る。
 にやにや笑いのスコットが、心得たという表情でちょっと肩を上げ、何だろうかとジェロニモを、目顔で尋ねるために見上げれば、こちらは少し困った顔をしていた。
 ますますわけがわからず、ジミーがみっつと言ったのは、間違いなくジミーとジェロニモと自分の分だろうけれど、肝心なのは、何がみっつなのかだと、カウンター越しにスコットがジミーに手渡しているショットグラスを目にして、ハインリヒはようやく目を剥いた。
 器用にグラスを指の間に挟んで、ジミーがふたりに差し出してくる。すでに、強い酒の匂いが鼻先を打つ。甘さと熱さが入り混じったようなその匂いに、飲まなくてもアルコール度の高さが容易に想像できた。
 透明な、少しとろみの見えるその酒を、ジミーが愉快そうに、ハインリヒに向かって掲げて見せる。
 「アンタ、先月誕生日だったんだってな。先月は、オレがここにいなかったからな、ま、遅くなったのは勘弁してくれ。」
 そう言いながら、ハインリヒのグラスに、かちんと自分のグラスを当てた。
 きょとんとしたハインリヒに、ジェロニモまでグラスを近づけてくる。かちんと、また澄んだ音がした。
 「遅くなった、でも、誕生日、おめでとう。」
 ジェロニモが、耳の近くで、とても優しい声で言った。意外な成り行きに、ハインリヒは驚きで言葉を失っている。
 「ほら飲め、ほら。」
 ジミーが、目の前で手を振ってそそのかす。ハインリヒに手本を見せるように、小さなグラスを、ジミーは一気に干した。
 その勢いにつられて、ハインリヒも、グラスの中身を一気に喉に流し込んだ。
 「オレの国の酒だ。」
 ジミーが言った言葉と一緒に、喉が焼けた。どこか甘いくせに、全身を焼くほど熱い、強い酒だった。香りにむせそうになって、少し眉を寄せたハインリヒを、ジミーが思い切り笑う。笑いながら、ばんばんと肩を叩いた。
 「また来てくれよ。今度はオレと飲み比べはどうだ!」
 息が、すでに甘く酒くさく匂う。それを、どこか好ましいと思いながら、ハインリヒはようやくにやりと笑った。
 空になったグラスをジミーに渡すと、ジェロニモが、自分の分をハインリヒに差し出して来る。一瞬ジェロニモを見上げた後で、ハインリヒは、物も言わずにそれも一気に煽った。
 濡れた唇を手の甲で軽く拭って、にやりと笑ったままのハインリヒに、今度はジミーがうれしそうに目を剥いた。
 「ああ、今度、ぜひ。」
 ハインリヒが遅れた返事を返すと、ジミーが顔いっぱいで笑う。
 「ありがとう。また。」
 自分から右手を差し出して、ハインリヒはジミーの手を握った。
 それから、空になったグラス---ジェロニモの分だった---をジミーに渡して、改めてスコットにも手を振って、ふたりはようやく店を出る。
 入る時にいた厚化粧の女は、どこへ行ったのか姿は見えなかった。
 来た道を戻って駐車場へ行く。ジェロニモが、まるでかばうように、ハインリヒを内側に置いて、車道側を歩く。
 「おまえさんに誕生日を祝ってもらえるなんて、なんだか妙な感じだな。」
 たかがショットグラスに2杯で、けれど強い酒に、ハインリヒはもう酔い始めていた。
 隣りを歩きながら、ジェロニモが肩をすくめる。言葉の少ないジェロニモは、けれど他のところでとても雄弁だ。
 駐車場まで数分と掛からない道筋で、ハインリヒは、不意にいたずらな気分が湧いて、自分の肩で、ジェロニモの腕を突いた。
 また肩をすくめて、ジェロニモが薄く笑う。
 自分が、とんでもなく浮かれているのだと思いながら、ジェロニモのトラックにたどり着くまで、ハインリヒは、ずっとジェロニモの腕に触れたままでいた。


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