白い世界

 雪に閉じ込められた日だった。
 出掛けようと思えばそれもできたけれど、無理に行きたい場所もない。
 すでに外出中の誰も、先で足止めを食って、これも無理をすれば帰れないこともなかっただろうけれど、骨休みのつもりでのんびりするさと、人の数の減ったギルモア邸は、積もった雪に音を吸い込まれたせいもあって、しんと静かだ。
 誰も外へは出ないので、周囲には足跡すらなく、まれに見えた、鳥や小さな動物たちの足跡も、その後すぐに降る雪で消されてしまう。激しいと言う降りではないのに、音もなく降る雪は確実にすべてを白く覆い、その白い世界で、人も何もかも息をひそめて、まるで隠れて生き延びているように、そんな風に時間の過ぎてゆく1日だった。
 人の数が少ないのを忘れて、いつものように作ってしまったコーヒーが煮詰まってしまい、午後には自分のためだけに新しいコーヒーを淹れる気にならず、ジェロニモが淹れたのは、ハインリヒのための、今日は3杯目の紅茶だけだった。
 午前中は何となくふたりで一緒に居間にいたのだけれど、昼食を終えるとハインリヒは部屋にこもってしまい、ジェロニモはひとりでそのまま居間に残って、本を読みながら、時折窓の外を眺めていた。
 やがて午後の半ばを過ぎて、紅茶のお代わりはどうだと脳内通信装置で話し掛ける──こういう時には、サイボーグと言うのは便利だ──と、ハインリヒはすぐに返事を送って来て、ジェロニモはやっとこれでやることができたと、新しい紅茶を淹れて、それをハインリヒの部屋まで運んだ。
 ハインリヒも、どうやら少々退屈していたらしく、ベッドの傍に本が数冊積まれ、どれにもしおりが挟んであるのが見えた。ついでに何か書き物もしていたのか、便箋と万年筆も一緒に置かれている。
 空のカップと持って来た新しい紅茶を取り替えて、ジェロニモはすぐに部屋を出ようとしたけれど、ハインリヒが慌ててジェロニモの腕を掴んで来て、
 「そんなに急いで行かなくてもいいだろう。」
 伸ばしていた足を少し縮めて、ジェロニモが坐れるように、ベッドの端に場所を空ける。
 ジェロニモは、ベッドの強度を気にしながら腰を引っ掛けるように言われた通りそこへ坐り、ハインリヒのベッドの、シーツの白さに、少しの間目を細めた。
 ふたりが一緒に閉じこもる時には、いつもジェロニモの部屋だったから、ハインリヒの部屋は何となく場違いな気がして、ジェロニモは無意識に大きな肩を縮めて、夕べもふたり一緒だった、そのために床に広げた、肌に直に触れた毛布のぬくもりを思い出していた。
 沈黙は苦にはならない。ふたりきりでいる時には、手足のどちらか、あるいは両方が触れ合っていて、そして微笑み合っていれば充分だったし、今もいつもと同じに、ジェロニモはハインリヒの膝に軽く手を乗せ、ハインリヒが持って来たばかりの熱い紅茶をゆっくりひと口飲むのを、黙って眺めていた。
 部屋が妙に明るいのは、昼間と言うせいだけではなくて、窓の外が雪で白いせいだ。肩越しに窓を振り返ると、薄いカーテン越しに、白く包まれた木々の枝が見える。葉のない裸の木は、白くなればまるで骨のように見えて、その清潔な眺めが、今はやけに神々しく思える。畏敬の念を覚えたように、ジェロニモはまた目を細め、部屋の中へ視線を戻すと、黒いセーターで首元まできっちり覆っているハインリヒと、シーツの白さと、部屋の中の白っぽさと、何もかもが奇妙な統一感を持って、ジェロニモの視界を埋め尽くして来る。
 居心地が悪いと言うわけではない、何となく隔てられているような気がするのは、この白さと無音のせいだろうと、ふと思った。
 ジェロニモの手に、ハインリヒの右手が重なって来る。紅茶のマグを抱えていたその手は、ほのかにぬくまっていた。
 この、雪に降り込められた日に、時間を潰すために、と言う風に、けれど機会さえあれば常に触れ合っているふたりだったから、雪はむしろただの言い訳で、引き寄せられれば否はなく、ハインリヒの、ジェロニモのそれよりは狭いベッドに倒れ込んで、ふたり一緒に手足は時々外へ投げ出しながら、脱ぎ合う間に服のこすれて床に落ちるしめやかな音が、しばらくの間だけ続いた。
 今日はただ明るいと言うだけではなく、まぶしいほど反射した光のたっぷりと入り込んで来る部屋の中で、このまま雪の中へ出てしまえば、白く紛れて見えなくなってしまうだろうハインリヒの膚の皓(しろ)さが、ふとジェロニモに、そこに触れるのを躊躇わせる。
 触れ続けるうち、血──ただの循環液だけれど──のめぐりで赤く染まるのが、今ならはっきり見えるだろう。そうするのが、今は惜しいような気がする。今白いままに、そっと触れずにおいて、そうしなければならないような、なぜかそんな気がした。
 雪を溶かさずに触れる方法があるだろうかと、ジェロニモはふと考える。踏みしめれば足跡が残る。手に乗せればそこで溶けて消える。そうではなく、降って積もったそのまま、雪らしく在り続ける方法はあるのだろうかと、ジェロニモは、いつもよりも間遠にハインリヒに触れながら、考え続けていた。
 そこだけは常に紅い唇に何度か触れて、ハインリヒが両腕を首に巻いて来るのに、ベッドがひどい軋みの音を立て、そのたびふたりは一瞬動きを止めて、肩をすくめて小さな騒ぎをやり過ごした。気配を消せるのは、それでもほんのわずかの間だけだ。
 躊躇の間が狭くなり、視界を満たす白さに、ほとんど眩暈を起こしそうになっていた。そのジェロニモの下肢にゆるく触れて、ハインリヒが胸の辺りへ額を押し付けて、小さな声で訊く。
 「どうかしたか。」
 普段以上に物静かな掌の動きに、やっと不審が頭をもたげたようだった。いや、と小さく否定しても、触れ合っていれば心のうちは筒抜けだから、様子見にハインリヒの掌が一度遠のいて、代わりに、ジェロニモの肩の辺りをそっと撫でた。
 間の抜けたタイミングで中断されて、こんな形でこんな姿でこんな距離で見つめ合うと、今度は部屋の明るさが気恥ずかしくなる。
 常にどこかが触れ合っているということはやめられず、それでも、続けていいものかどうか、ふたりで一緒に別々に迷いながら、ずれたタイミングのまま、ジェロニモがやっと口を開いた。
 「・・・汚しそうだ・・・。」
 ハインリヒは眉を寄せた。
 「何をだ?」
 ほとんど問い詰めるように、こちらをきちんと見ないジェロニモの視線を、ハインリヒは辛抱強く拾い上げた。
 「・・・雪は、白すぎる。足跡も残せない。」
 うまく説明できるとは思えなかった。こうしてハインリヒに触れて、それが、何か触れてはいけないものを冒しているような、そっとしておかなければならないような、雪の白さがジェロニモをそんな気分にさせる。ハインリヒの皮膚のように、ハインリヒそのもののように、内も外もすべて、その白さとその他すべて、光を集めたそのまぶしさに見つめ続けることもできずに、自分が触れた端から溶けてしまうかもしれない、穢れて、二度と元には戻らないかもしれない、その清浄さは、決して儚いとも思えなかったけれど、それでも触れてはならないと、頭のどこかで声が聞こえ続けている。
 「俺は雪じゃない。」
 半ば笑うように、ハインリヒが言った。
 もちろんだ、と唇の形でだけ言ったけれど、それでもジェロニモの、奇妙に気後れした気持ちはどこへも行かず、相変わらずハインリヒにそっと触れる以上のことができずに、ジェロニモはただうつむいたままでいた。
 「子どもの頃は、雪が降ると誰がいちばん最初に足跡をつけるか、いつも競争だった。」
 言いながら、ハインリヒがジェロニモの肩を押す。素直にベッドに倒され、体の位置が入れ替わって、天井とハインリヒを見上げて、ジェロニモはもう一度ちらりと窓の外を見た。
 「雪は積もっても、そのうち溶けて消える。放っておいても春が来る。」
 ハインリヒは言葉を続けながら、ジェロニモの上で躯を揺すり始めた。
 ごく自然に、ハインリヒを支えるために、自分の腰をまたいだ脚へ両手を添え、人工皮膚のないまま剥き出しの装甲の継ぎ目を、ジェロニモはほとんど無意識に指先で探っている。
 「そうして、また冬が来る。冬が来れば雪が降る。消えても、また雪は降るんだ。」
 まるで言い聞かせでもするように、言葉の間に吐息を交ぜながら、ハインリヒはそうして喋り続けた。
 首筋や頬が赤く染まるのが、下からよく見えた。みぞおちの辺りの筋肉が慄えて、それが内側からジェロニモへ伝わる。皮膚の温度が上がり、汗に湿り始めて、ハインリヒの動きが少しずつ激しくなる。
 そうなっても、ハインリヒの皮膚が溶けることはなく、どこまでもしっかりと、ジェロニモの目の前に在り続ける。赤くは染まっても、冷えればまた元通り白くなる、ハインリヒの体だった。
 汚せばいい、と、頭の中に、ハインリヒの声が聞こえた。脳内通信装置で話し掛けられたのだと気づくのに、2秒掛かった。
 そうだ、ハインリヒは雪ではない。雪とは違う。雪のように白くてまぶしくても、ハインリヒは雪ではない。熱に溶けても消えることはなく、汚れても穢れることはない。穢せるはずがない。こんなにひとらしい彼を、雪に足跡を残すように、踏みつけにできるわけがない。
 また眩暈がした。白さと眩しさのせいではなく、ハインリヒが伝えて来る熱さに上がった、自分の体温のせいだった。
 白っぽくぼやける視界の中に、ハインリヒの姿がいっそう皓い。そこに在ると確かめたくて、手を伸ばした。
 ジェロニモに応えるように、ハインリヒが体を傾けて来る。上で繋がった躯の角度が変わって、数拍、呼吸を整える間だけ、体温の上昇がゆるくなる。
 肩に触れた手を滑らせて首筋に重ね、それから、包むように頬にあてがった。掌が熱い。思わず指先が、もっと熱い部分を探して、唇の端へ滑る。開いた唇の間へ、親指を誘い込んで、ハインリヒがそれを噛んだ。そのまま、微笑みを浮かべて、触れているジェロニモに応えて、ハインリヒがまた躯を揺する。
 躯が、熱く溶ける。けれど、消え去ることはない。
 思わず喉を反らして声を耐えた後で、ジェロニモはまたハインリヒを見上げた。手は取られたまま、自分の触れるハインリヒが、白い部屋の中でひと際皓く見える。
 ひとである彼は、汚れるはずもないし、穢せるはずもない。自分が触れることのできる、大切なもの、とジェロニモは思った。
 雪は降り続けながら、ふたりの気配をするりと吸い込んで、交じり合う熱さだけは、ふたりだけのものだった。

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