X-Ray Mind



 まるで、生まれて初めて、他人と膚を合わせたみたいだと、眠れずに思った。
 それは、限りなく真実に近かったけれど、まさか、それを素直に口にもできず、隣で、眠っているのか、まだ起きているのか、気配の読めない大きな背中を感じながら、ハインリヒは、ひとりで恥ずかしさに、頬を染めていた。
 生身でなくなってから、もう、随分時間が経つ。
 機械の体になってから、機能が残されているとは言え、気軽に誰か---生身の人間---と試せるわけもなく、人間ではなくなったのだと、自分に言い聞かせ、誰かと抱き合うことに、ふと焦がれることはあっても、それが再び起こるとは、思ったことすらなかった。
 よりによって、自分が誘う羽目になるとは、思ってもみなかった。
 淋しくないか。
 逡巡の末に、やっと、そう訊いた。
 大きなあごを、胸元に埋めるようにして、静かにうなずいてくれた。
 自分だけではなかったのかと、少しだけ安心して、それから、まるで子どものように、シャツの袖を、引いてみた。自分の方へ向いた、浅黒い膚の、刺青のある顔に、唇を近づけた。
 挨拶ではなかった。そうだとわかっていだだろうに、表情を変えなかった。
 好意のない相手と寝るほど、開き直った性格でもなく、そこへ踏み出すことさえ、ひどく勇気のいることなのだと、おそらく悟っていたのだろう。
 恥をかかせないためだったのか、彼は素直に、椅子から立ち上がった。
 もしかすると、こんなことは、初めてではないのかもしれないと、裸の胸を合わせて思った。
 女とは、少し違う、普通の人間とも違う、体をふたつ、重ねて、戸惑いを、優しさで覆い隠して、大きな手が、肩と胸を滑った。
 自分の、機械の体を、ほんの少しだけ恥じた。せめて、もう少し触り心地が良ければ、相手を楽しませることもできるのかもしれないと、思って、悲しくなった。
 普通の交わりではないからこそ、必要な思いやりを込めて、大きな指先が、ひどく繊細に動く。
 まるで、壊れやすいガラス細工にでも触れるように、優しさだけを込めて、生まれた熱を、包み込んでゆく。
 掌の暖かさを、久しぶりに思い出していた。
 肩と胸を押す、ひとの体の重み。両腕の輪におさめた、ひとの体の形。触れて滑る、ひとの膚のぬくもり。
 それは、想像や記憶ではなく、確かに今、在るものだった。
 抱き合って、そして眠れれば、それで良かった。
 互いに分け合いたかったのは、膚のぬくもりと、優しさだけだった。
 今は。
 人工皮膚をかぶせていない掌で、触れて良いものか、ためらった右手を、彼が引き寄せた。
 互いの掌で、それぞれに包み込んで、息を吐いた。
 ひとのからだ。自分のものでは、ないもの。
 だからこそ、思いやりを込めて。
 向かい合って、互いに手を伸ばし合って、湿った息を、間近で交わす。
 「ジェロニモ・・・」
 思わず、名前を呼んだ。
 滅多と口を開かない彼の、そう言えば名前を呼ぶことも、自分が名を呼ばれることも、まれにすらないのだと、突然気づく。
 名を呼ぶと、いきなり、視界の中に、彼が大きくなった。
 また息を吐いて、耐え切れずに、彼の方に、体を寄せる。
 ぬくもりに包まれて、全身を抱き込まれて、息を止めた。
 引いてゆく波に、ゆっくりとさらわれながら、もう長いこと、思い出したことすらない感覚に、頭の奥がしびれてゆく。
 微睡みに近づいて、それから、終わってしまったのは、まだ自分だけなのだと思い出して、また手を伸ばした。
 その手を、彼が優しく止めた。
 「おやすみ。」
 深い声が、聞こえた。
 薄闇の中で、思わず、頬の線を歪める。
 いつもと同じ、思いやりゆえなのか、それとも、この手で触れられるのがいやだからなのか、ほんとうのところがわからなくて、ハインリヒは、眉をゆるく寄せた。
 咎める視線を送ったハインリヒを見つめたまま、彼は、止めたその手を、口元に引き寄せた。
 鉛色の、マシンガンの指先に、まるで、感謝のしるしのように、唇を押し当てる。
 その手を握りしめたまま、また、深い声が言った。
 「おやすみ。」
 うっすらと浮かんだ笑みにつられて、
 「・・・お休み。」
と返して、もう、それ以上彼を正視できず、ハインリヒは思わず寝返りを打って、背中を向けた。
 両手を、胸に抱き寄せて、触れた唇の暖かさを思い出しながら、どくどくと、強く鳴る人工心臓の音を、全身で聞いていた。
 丸まった背中を、見つめられている気配があって、それから、ベッドが動いてきしんで、静かになった。
 肩越しに首をねじ曲げると、こちらに向いた、大きな背中が見えた。
 こんな時に、どうすればいいのかすらわからない自分の無知さ加減を、心の底から呪う。気の利いた言葉ひとつ浮かばず、こんなふうに背中を向けて、まるで用済みだと言わんばかりだと、そんなことばかり考えた。
 自分を、いやな奴だと思いながら、体の向きを変えて、こちらに向いている背中に、自分から寄り添ってゆく勇気はない。
 眠ったのだろうかと、寝息をうかがいながら、眠れずに、心臓の音を聞いている。
 明日の朝、どんな顔をして、起き出そうかと、今度はそんなことを考え始める。
 呼吸の音すら聞こえない相手の静かさに、もしかすると、自分の心臓の音が聞こえているのだろうかと、そんなことは無駄なのに、胸の前で両腕を組んでみる。
 彼は、ぴくりとも動かない。
 寝返りさえ打てず、繰り言ばかり、頭の中に思い浮かべながら、ようやく眠りに落ちたのは、もう明け方近かった。


 まだ、半分寝ぼけたまま目を開けると、薄いカーテン越しの日は明るく、一瞬の後、頭の中で、かちりと記憶の縁が噛み合った。
 ベッドの上に跳ね起きて、それから、隣りにはもう、人影のないことに気づく。
 枕に跡はなく、シーツももう冷たく、一体、いつ去ったのかと、部屋の中を見回した。
 罪悪感のような、重苦しさが、胃の辺りにあった。
 ため息をこぼして、ベッドを降りて、脱ぎ散らかした服を拾う。
 自分の体を見下ろして、夕べのことを、反芻する。
 思い出しながら、ゆっくりと、服を着た。
 できることなら、このままベッドに戻って、2、3日部屋から出たくすらなかったけれど、その理由を詮索される---実際にされることがないにせよ、されるかもしれないと、思うだけで、憂鬱になる---ことがさらに億劫で、ハインリヒは、足元にまたため息を滑り落として、ようやく部屋を出た。
 もう、昼近いのか、邸内はしんとしていて、紅茶でもいれて、裏庭に出て本でも読もうかと、思いながらキッチンに足を踏み入れると、そこにジェロニモがいた。
 みっともないほどうろたえて、思わず足が止まる。
 肩を後ろに引いて、そのままくるりときびすを返してしまいそうになったのを、ハインリヒは、ようやく止めた。
 ジェロニモは、いつもと変わらない表情で、こちらを向いて、それから、うっすらと微笑んだ。
 気まずさを、必死に隠しながら、ハインリヒはやっと足をまた前に出し、ほんとうに、人形になってしまったように、ぎくしゃくと動きながら、ジェロニモのいるテーブルの方へ、ゆっくりと歩いてゆく。
 「おはよう。」
 椅子には腰掛けずに、ぼそりと言うと、ジェロニモがまた、微笑んだ。
 気まずさを分け合う気はないらしいと悟って、少しだけ安堵しながら、それでもまだ緊張は解けず、ジェロニモの、新聞を開いている手に視線を滑らせ、ハインリヒは、頬に血が上がるのをまた、無駄と知りつつ、抑えようとする。
 テーブルの上で、すでに空になっているコーヒーのカップに気づいて、ハインリヒは、これ幸いと、顔を隠すために、キッチンのカウンターの方へ肩を回した。
 紅茶をいれるつもりだったけれど、手っ取り早くコーヒーを注いで、キッチンから出ようと、そう一瞬の間に決めた。
 夕べとは、着ている服が違う。朝、自分の部屋へ戻って、シャワーを浴びたのかと、そんな埒もないことを、自分の手元に視線を落としたまま、考えた。
 コーヒーの香りに、一瞬、思考が途切れ、気がつくと、空のカップをシンクに置いて、すぐ横に、ジェロニモが立っていた。
 ぴりっと、皮膚が粟立つ。
 ジェロニモの、どんな気配も逃すまいと、全身が、緊張する。
 そうしながら、心の中で、早くひとりにしてくれと、つぶやき続けていた。
 「ハインリヒ。」
 名前を呼ばれて、驚きに、一瞬、頭の中が白くなる。
 何か言われるのだろうかと、恐る恐る、瞳を動かした。
 目の前に、ジェロニモの腕が伸びてきて、頬に、大きな手が触れた。あごを持ち上げられ、思う間もなく、唇が触れてくる。
 何が起こったのかわからず、色の濃い、ジェロニモの、閉じた目元を覆うまつ毛が、かすかに震えているのを見て、ようやく、口づけだと気づく。
 挨拶にしては、少しばかり長く、親密すぎる触れ方だった。
 唇が離れ、まだ、手は頬に添えたまま、ジェロニモが、夕べと同じ、深い声で言った。
 「行って来る。」
 手が離れ、気配が遠のき、大きな体が、ゆっくりと去って行った。
 ひとりになってから、確かめるように頭を振って、苦いままのコーヒーを、一口すすった。
 右手の指先で、唇に触れる。
 ゆっくりと、笑みの浮かぶその唇に、ハインリヒは、いつまでも触れたままでいた。


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